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そんな時緖ときおの様子を見てか、青年は眉を下げて頬を緩めると、それからそっと腰を屈め、時緖と視線を合わせた。

突如と重なる視線、間近に迫る柔らかな微笑みに、時緖は条件反射のようにドキリと胸を震わせた。


「真夜中の魔物」

「…え?」


その優しく届く言葉に、時緖は目を丸くした。彼はそっと笑み、ゆるりと体を起こした。


「真夜中の魔物はいつも寂しくて、でも、魔物と一緒に居たい人間なんていない。だから魔物は、真夜中の力を使って人間の夢の中に入り込み、朝が来るまで側にいて貰うんだ。その人間の会いたい人の姿になってね。でもそれは、人間にとっては悪夢だ、夢の中に現れた魔物は、いくらその人が会いたいと望む人間に化けたところで、中身は魔物だ、会いたいその人とは違う。おまけに人間は、魔物の負の力に当てられて、朝が来て魔物が夢から帰っても、目を覚ます事が出来ず、夢の中を彷徨う事になる。

人間を苦しめると分かっていても、それでも魔物は誰かといたくて、その夢の中に人間を縛り続けた。

そんな時、同じように寂しい思いをして夜を過ごす少年と出会った。魔物は少年と出会った事で、人に寄り添い、誰かの為に真夜中の力を使うようになる」

「…それって、絵本の?」

「そうだよ」


嬉しそうに頷く彼に、時緖は信じられない思いでいた。

真夜中の魔物とは、時緖が子供の頃に読んで貰った事のある絵本だ。それから自分でも読んでみたいと思い、子供の当時から今も探してはいるのだが、書店や図書館、ネットの中をいくら見てもその絵本は見つからず、また、その絵本を知っている人もいなかった。だから、その絵本を知っている人に会ったのも初めてだったので、時緒は驚いていた。


でも、彼の言いたい事が分からない、その絵本が何だというのだろう。


「負の力を消した魔物は、夢の中に縛りつけた人々を解放し、今度は、出会ったその人が本当に会いたい人を夢の中に連れて来てくれる、そして、夢は現実へと変化する、こんな風にね」

「…え、」


そう両手を広げられ、時緖はきょとんとした。その真意が分からず、「え?」と、もう一度尋ねるが、彼は変わらず微笑むだけだ。


まさか、本当に真夜中の魔物がいると言うのか、ここは夢の中で、時緒が会いたいと願った月那つきなを連れてきてくれたと、そんな事が実際に起きていると、彼は言いたいのだろうか。時緖が呆然と顔を上げれば、彼はにこりと頷いた。ますます訳が分からず困惑する時緖に、彼は苦笑って、キッチンに体を向けた。


「まぁ、信じられないよね。それも良い、あなたは酔って眠っているんだ、だからこれは何でもないただの夢、僕はただの幻想。その方があなたにとっても都合が良いよ」

「な、なんで」

「だってこの僕は、あなたが一番会いたかった人でしょ?僕に会いたかったなんて思われたら、恥ずかしいじゃない?」


顔だけ振り返って微笑まれれば、胸が騒いで落ち着かなくなる。確かに、月那は時緖にとって、いつだって会いたい存在だ。こんな風に胸が締めつけられる夜だって、本当なら会いたい、会って、まだ自分にだって望みはあるんじゃないかって、夢を見ていたい。

でも今日は、月那がいる店には行けなかった。会うのが怖かった。隠した気持ちが閉じ込めた隙間から零れてしまいそうで、そうしたら、自分が嫌な人間になってしまいそうで怖かった。

それだけ時緖の胸は、彼への思いに満ちていた。


だが、やはり気になる事がある。


今の彼の言い方では、彼は月那ではないと言っているみたいだ。それだけじゃない、話し方も、いつもの月那より砕けている気がする。

改心した真夜中の魔物は、会いたい当人同士を夢の中を通じて出会わせるのではなかったか。それなら、目の前の月那にはどこか違和感を感じる。

やはり、魔物とは空想上の産物で、自分はただ夢を見てるだけなのかもしれない。


時緒が、あれこれ頭を巡らせながら考え込んでいると、彼はそんな時緒にお構い無しに、やかんに湯を沸かし始めた。まるで、勝手知ったる我が家のように、冷蔵庫を開けてと動くのを見て、時緒は慌てて止めに入った。何だか流されそうになっているが、彼がまだ何者かは分からないのだ、そんな人物を相手に、勝手に冷蔵庫まで許す訳にはいかないと、時緒は遅れて気づいたようだ。


「あの、」

「座ってて。ホットココアを作ろうか、寝る前に飲むと落ち着くって、この前言ってたでしょ?」

「え、」


その優しい声に、時緒は目を瞬いた。それは、ついこの間、本物の月那に話したばかりだ。それに気を取られている内に、彼は手慣れた様子でキッチンで作業を進めていく。その姿を見ていたら、何だか考えるのも疲れてしまって、時緖は小さく頷くだけだった。




***





湯気の立つカップを前に、時緖は眼鏡をかけ直し、まじまじと、月那のような青年を見つめた。「ん?」と、穏やかに小首を傾げられれば、偽物かもしれないという疑念も吹き飛び、嘘みたいに胸が高鳴った。いやいや偽物だからと、時緖は訪れたときめきをやり過ごそうと、焦ってカップに口をつけた。


「熱!」


案の定な光景に、彼は困った様子で「焦って飲むからだよ」と笑った。二人きりの空間で、その優しい眼差しを向けられては、どうしたって勘違いしそうになる。そもそも、どこから何を信じて疑えば良いのかさっぱりなのだが、時緖は月那みたいな彼に、密かに重ねた恋心だけは悟られまいと、慌てて顔を俯けた。


そもそも、会いたいと知られている時点で、もう手遅れかもしれないが。


「時緖さんとこうしてるの新鮮ですね。いつも向かい合ってもカウンター越しですから、同じ視線になるのが少し擽ったいです」


頬杖をついて、少し照れくさそうにそんな事を言う。その口調が、先程とは打って変わりいつもの月那と同じようで、時緖は混乱も忘れて赤くなった。真夜中に呑み込まれた部屋が、ふわふわと温かくなった気がして、時緖は立てた決心が早々に崩れるのを感じ、そんな自分に頭を抱えたくなった。

だって、本当の所はどうか分からないが、目の前に居る彼は月那とそっくりで、そんな彼が他の誰でもなく自分を優先してくれているというこの状況に、これが夢だとしても、それこそ夢のようで困ってしまう。



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