真夜中の魔物
茶野森かのこ
1
魔物は真夜中にやって来る。
夜にその身を溶かし、大きな口を開けて、ぱっくりとこの部屋ごと呑み込んでしまうのだ。
魔物は寂しくて寂しくて仕方ないから、誰かに側にいてほしいから。
「…私の前にも現れないかな」
ここは、時緒が愛猫のアトムと暮らす小さなアパートの一室。何の予定もない休日の夜を、こうしてだらだらと過ごしている。
彼女は缶チューハイを手放すと眼鏡を外し、ローテーブルに突っ伏した。
ただ流しているだけのテレビには、芸人達の賑やかな声と笑い声が飛び交っている。いつもだったら、ただ流れる時間を意味のあるもののようにしてくれるけど、今日ばかりは、この胸に渦巻く気持ちまでは誤魔化せそうもない。
時緒には、寂しくて、会いたくて、会いたいのに、会いたくない人がいる。
「アトムー、」
まだ側にいてくれるアトムに呼び掛けてみれば、アトムはちらりとこちらを振り返り、時緒が伸ばした指に顔を寄せかけたが、すぐに興味を失ったかのように、背後にあるベッドに飛び乗ってしまった。
「何よ、もー。ちょっとくらい構ってくれたっていいのに。そういう思わせ振りなとこ、あの人にそっくり…」
やるせなく溜め息を吐けば、ふわりと彼女の背後に藍色の夜が舞った。
電車の窓の向こうに景色が流れるように、その夜はごく自然に、彼女とその部屋を包み込んだ。時緖はぼんやりとその様子を眺め、これは真夜中の魔物の仕業だろうかと、やはりぼんやりと思った。既にほろ酔いで霞む視界だ、あまり頭が回っていない。
そんな中、パチ、と電気が点くように部屋が明るくなった感覚がした。
「今日は、どうしたの?」
穏やかに尋ねる声が誰かに似ていると思いながら、時緖は問われるままに口を開いた。
「ちょっと、失恋気分なだけ」
「失恋?」
「そー」
「…恋人がいた?」
「ううん、片思いの話」
「へぇ…それは、どんな人なの?」
「どんな人って、」
それは、と思い浮かべたその人は、穏やかな声で時緒に挨拶をしてくれる。その声と、今、時緒に問いかける声が不思議と重なって、時緖はようやくおかしな事が起きていると気づいた。今、自分は誰と話していたのか。この部屋には、自分と猫のアトムしかいない、会話が出来る筈がない。
「…え、寝てた?」
夢でも見ていたのかと、時緖は不思議な心地で、テーブルに突っ伏していた体を起こした。目の前のテレビには、相変わらず芸人達が賑やかに笑っている姿が映し出されている、彼らの会話を聞いて、自分が話してるつもりにでもなったのだろうか。彼女は目を擦りながら、とりあえず時間を確認しようと、眼鏡を掛け、ベッドサイドの時計を見ようと振り返り、その目をぎょっと見開いた。
真後ろのベッドに、青年が座っていた。
さらりとした灰色の髪、長めの前髪から覗く瞳は穏やかで、白いシャツに黒のスラックスという出で立ちだ。そして、少しだけ複雑そうな表情で、時緖を見つめている。
時緖は、この青年を知っている。
だからこそ、時緖は目の前の光景が理解出来ずに固まり、沈黙した。時間にして数秒だろうか、その硬直を解いたのは、彼だった。
「…こんばんは」と、どこか気まずそうに彼が口を開いたので、時緒はようやく我に返り、そして、ぎゃっと悲鳴を上げた。彼が誰でもいい、とにかく、家に上げた筈のない人間がそこにいる事が問題だ。何故、こんな事になっているのか、理解が追いつかないながらも、どうにかしなくてはと焦って距離を取ろうとすれば、その拍子にテーブルに体をぶつけ、テーブルの上の缶チューハイが倒してしまった。それにより、残っていた中身が溢れてしまい、時緒は溢れるアルコールを見て再び悲鳴を上げ、あわあわとしながら缶を起こし、急いで近くにあったティッシュで拭った、幸い床には溢れていないようだ。
「大丈夫?」
ほっとしたのも束の間、再び背後から声が聞こえ、時緖はびくりと肩を揺らし、慌てながらも、今度こそ青年と距離を取った。距離といっても、ワンルームの部屋の中ではたかが知れている。なので、手近にあったゴミ箱を掴み、とりあえずそれを盾のように構えた。三百円程で買った、高さ三十センチ程度のゴミ箱だ、防御力は皆無に等しいが、無いより良い、気持ちの問題だ。
「あ、あなた!どこから入ったの!警察呼びますよ!」
へっぴり腰ながらも勇ましく言い放ち、時緖はスマホを探して、ペタペタと自身のズボンを探るが、そもそも彼女の部屋着にポケットはない。スマホをどこにやったのかと、焦って周囲に目を走らせれば、「もしかして、これ?」と、青年がスマホをちらつかせた。
「盗んだの!?」
「はは、人聞き悪いなぁ、初めからここにあったよ」
「な、何が目的なの!?悪いけど、お金なんて無いし、か、体が目的なら、私、何するか分からないからね!」
言いながら後退りして、後ろ手にキッチンのシンクに触れる。コンロの上にはフライパンがある、小振りなサイズだが、プラスチックのゴミ箱よりは頼りになるだろう。
「待って待って!話をしようよ」
「話す事なんかない!さっさと出て行って!」
時緖はゴミ箱を放ると、キッチンへ体を向け、すかさずフライパンを手にすると、勢いよく青年を振り返った。
「…え?」
思わず間の抜けた声が出たのは、ベッドの前に居た筈の青年がいなかったからだ。キョロキョロと部屋の中を見回すが、どういう訳か青年はどこにもいない。隠れるにしても、隠れる場所なんて限られている。ベッドの膨らみはそのままだし、クローゼットの中、それともベランダから逃げたのだろうか。
まるで狐につままれたかのようで、それでも警戒しながら、ひとまずベッドへ近づこうとすると、「落ち着いて」と、今度は耳元で声がした。
「え、」
驚くより先にフライパンを奪われ、時緖はぎょっとしてキッチンを振り返った。青年は「置いとくね」と言って、フライパンをコンロの上に置いている。今、消えたと思った筈の人間が、今度は時緒の真後ろにいる。消えたり現れたり、やはり夢でも見ているのかと困惑していると、青年はまたにこやかに微笑み、「何もしないよ」と、両手を上げて苦笑った。
「な、何なの、あなた」
「僕が誰か分からない?」
その問いかけに、時緖は声を詰まらせた。
先程も述べた通り、時緖は彼の事を知っている。だが、まさかその人と目の前の彼が、同一人物とは思えなくて、とにかく許可した覚えのない訪問者を部屋から追い出さなくてはと、フライパンを手にしたのだ。
だって、あの人がここに居る筈ない。
時緒は、そろりと目の前の青年を見上げた。
彼は、近所にある渋いマスターが営んでいる喫茶店、“きこり”で働く、
いつも月那は、さりげなく時緖に声を掛け、他愛のない話に付き合ってくれる。穏やかで紳士的、踏み込み過ぎず、距離を開けすぎずのちょうど良い距離感。だけど最近、時緒はその距離感が、もどかしく感じていた。時緖が彼を好きになってしまったからだ。優しい瞳も、穏やかな声も、隣にいるとゆったり流れる時間も、時緒の心をそっと緩めてくれる。
彼と過ごす時間は僅かだが、時緖にとっては特別な時間だった。
そんな訳だから、時緖は目の前の彼が、あの月那だとは思えなかった。時緖の知っている月那は、人の部屋に無断に上がるような事はしない。時緖の気持ちがどうあれ、客と店員でしかない関係で、彼がこんな真夜中に客の家に押し掛けるなど、非常識な行動を取る筈はないと、時緒は思っている、だから時緖は、混乱の極みだった。
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