九月十日 深夜
ビニール袋の中に瓶のラムネを二本入れて足元に置き、自室のベッドの上に座って白い猫が来るのを待っている。
今日はまだ白い猫は来ないのかと、晃が上半身をベッドに預けて目を瞑り深く深呼吸をしていると、足元でガサガサとビニール袋の鳴る音がする。
「えっ!?あっ!こらこら、駄目だぞ。」
白い猫が瓶のラムネを倒し、転がして遊んでいるのが目に入った晃は、白い猫をベッドの上に乗せてラムネを袋に入れ直す。
「あ〜こっち側の瓶、絶対まずいことになるな…。間違えて朔に渡さないようにしないと。」
晃は立ち上がりビニール袋の中身を確認して、左側が自分が飲む方だと再確認していると、左の太股に猫パンチが何度も飛んでくる。
「何なに、なんで!?」
慌てて後ろを振り向いた晃と目が合った白い猫は静かに「にゃあ」と鳴いた。
眩く光るメリーゴーランドが突然目に入り、晃は眩しくてビニール袋で顔を隠しながら、目を逸らした。
「約束したラムネ、ちゃんと持ってきてくれたんだ。」
「朔との約束を、俺が忘れるわけないって。」
朔の声が聞こえた晃は薄目で目を慣らしながら、おそらく自分の正面の逆光の中にいる朔に向かって伝える。
「…それもそうだね。ありがとう、晃。」
後ろ手を組みながら近付いて来た朔に、晃は間違えないように、ビニール袋に入っている右側のラムネを差し出す。
差し出された瓶のラムネを嬉しそうに受け取る朔の左手の指先が、晃の右手の指先に少しだけ触れる。
そのひんやりとした指先は、自分の体温で溶けてしまうのではと晃が心配になるのと同時に、一気に胸が高鳴るのを感じた。
この胸の高鳴りは一体何なのか。
晃が逸る鼓動を抑える為に左手を心臓に当ててみても、しばらく収まることはなかった。
不思議そうに首を傾げている晃に「どうしたの?」と朔が声を掛けると、「なんでもない。」と生返事をする晃。
こういう時は何を言っても駄目だと察した朔は、苦笑しながら「そう。」と短く返事をしながら頷いた。
段々と目が慣れてきた晃は、瓶のラムネを後ろ手で持ちながら先を歩く朔に声を掛ける。
「なあ、朔!この辺でラムネの蓋を開けてからメリーゴーランドに乗ろう!」
メリーゴーランドをラムネで濡らす訳にはいかない晃は、朔の隣まで走って行く。
「いいよ。じゃあ、一斉に開けようか。」
「おう!」
周りのラベルを剥がし、赤い玉押しを取り出してビー玉の上に置き二人は目を合わせる。
「せーのっ!」
プシュッと炭酸が弾ける音と共に、晃の手を流れ落ちてゆくラムネ。
覚悟を決めていたとはいえ、左手の指の隙間からポタポタと落ちるラムネを必死に避ける晃。
「あ〜もう…。さっき白い猫がちょっかい出したからだよ…。」
「猫?…ああ、ふふふっ。白い猫ね。」
「えっ、朔もあの白い猫の事知ってるのか?」
不機嫌な顔をしていた晃は目を輝かせて、手のひらに溢れたラムネを振り払うように、左手首を左右に振りながら朔に質問する。
「ううん、知らない。」
首を小さく横に振っていたずらっぽく笑う朔に、「なんだ、そっか…。」と晃は残念そうに答えたが、胸の内では白い猫はやはり朔なのではと思い、朔の足元から顔までぼんやりと見つめていると、至近距離まで詰め寄った小首を傾げた朔の綺麗な顔が目の前にあった。
「うわっ!?えっ!?」
「…何その反応。僕、結構傷付いたかも。」
「あ、ごめんな朔…。近くにいたから、つい驚いて…。」
「んふふ、冗談だよ。晃がぼーっとしてたから、イタズラしてみただけ。」
晃が手の中に持っているラムネがポチャリと音を立てて、シュワシュワと炭酸の泡が瓶の中で揺れていた。
メリーゴーランドまで歩いて行くと、まだ周回している途中なのか、どこか懐かしい感じにピアノでアレンジした音楽が流れている。
「この曲、どこかで聞いたことある気がするんだけど…。駄目だ、思い出せない。朔は知ってるか?」
「んー…秘密?」
「なんだよそれ!さっきのイジワルがまだ続いてるのか?」
「そうじゃないよ。…晃に思い出して欲しいだけ。」
それきり前を向いて話さなくなった朔は、音楽のリズムに乗って左右に揺れていた。
ふと見えたメリーゴーランドの光に照らされた朔の横顔が綺麗で、履いていたジーンズの後ろのポケットの中に入っていたスマホを取り出し、晃が朔の後ろ姿と一緒にメリーゴーランドを撮影しようとすると、画面が真っ暗になり何も映らなかった。
「…駄目だよ、晃。僕は、ここにあるモノは、何も映らないよ。」
「そう…だよな。ごめん。」
「そんなに落ち込まないで。…仕方ないんだよ。」
悲しそうに笑う朔を見て晃は胸が痛くなり、素直に謝るとスマホをジーンズの後ろのポケットの中に再びしまった。
メリーゴーランドが周回を終えて止まると、晃は天井を見上げてメリーゴーランドの洋風の絵を見て立ち止まると「シュークリームみたいな雲だな。」と言った。
「あははっ!晃、まだシュークリーム雲って呼んでるの?」
「笑うなよ、朔!だって、モコモコしてるしどう見たってシュークリーム雲だろ?」
「んふふ。懐かしいね。」
二人で懐かしむように天井を見上げていると、もうすぐメリーゴーランドが動き出すという合図のベルが鳴る。
二人は、急いで近くにあったカボチャの馬車に乗り込んだ。
ゴウン、と大きな音を立ててメリーゴーランドが動き出したタイミングで「乾杯」と瓶を軽くぶつけると、カキンッと高い音が鳴った。
一口目を飲んで晃が口を開く。
「さっきのシュークリーム雲の事だけどさ、俺が人生で食べたシュークリームの中で、朔が作ってくれたやつが一番美味いと思ってる。」
「それもう晃から何百回も聞いたよ。母さんと一緒に作ったシュークリームでしょ?」
呆れたように笑う朔が愛おしく思えた晃は、右手で朔の頭を撫でる。
「晃…?」
「あ、悪い…。」
名前を呼ばれてハッとした晃は、朔の頭から右手を離したが、空中に彷徨う右手をどうしたらいいのか分からずにいた。
スルスルと朔の左手が伸びてきて晃の右手を掴むと、朔の頭の上に晃の手を置いた。
「僕、晃に頭撫でられるの好きなんだよね。」
「え?」
「褒めてくれる時、いつも僕の頭を撫でてくれたでしょ?…忘れちゃった?」
「忘れて、ない…。」
顔を覗き込まれるように朔に聞かれた晃は急に恥ずかしくなり、顔を朔から逸らすと、カボチャの馬車の窓からゆっくりと周回している外の様子を見て、気持ちを落ち着ける事にした。
目を逸らされた朔は晃の手を元の位置に戻すと、ラムネを一口飲んでから自分の過去を思い出していた。
「なあ、朔。夏の雲ってシュークリームみたいだよな。」
「シュークリーム…?ああ、入道雲の事?」
「そうそう、シュークリーム雲!」
日焼けした肌の晃と少し肌が赤みを帯びている朔は、プールに行った帰り道を歩きながら、眩しい日差しが照り付ける夏の空を見上げた。
「シュークリーム雲って名前、面白いね。」
「だろ?あー、シュークリーム食べたくなってきた。」
お腹をさする晃を見て、朔は「僕のお母さん、お菓子作りが得意だから、シュークリーム作れると思うよ。」と思い切って晃に伝えてみた。
「え!本当か!?」
「う、うん。今すぐには無理だけど、材料とか買えば作れるよ。」
嬉しそうに喜んでいる晃を見て、朔はもっと嬉しくなった。
「お母さんにシュークリームの事、言ってみるね!出来上がり楽しみにしてて!」
「おう!楽しみにしてる!」
お互いの家の前で手を振り合うと、晃が家の中に入っていくまで朔は見送った。
週末、朔の家に呼ばれて晃が行くと、玄関に入った瞬間からお菓子の甘い香りが漂っていた。
「めっちゃいい匂いがする!」
「でしょ?実は、僕も作るの手伝ったんだよ!」
「すごいな朔!」
晃に頭を撫でられて幸せな気持ちでいっぱいの朔は、照れくさそうにはにかんだ。
「朔?晃くん来てるんでしょ?いつまで玄関でお話してるの?」
「あ、はーい!」
「晃くん、いらっしゃい。」
「こんにちは。お邪魔します。」
「はーい、どうぞ。」
僕の記憶の中の母は、いつも笑顔で晃を迎え入れてくれていた。
僕が、死ぬまでは。
あの事故が起きた日、病院で母から数え切れない程の罵声を浴びせられる晃を僕は見ていたのに、何も出来なかった。
僕の体は横たわったままピクリとも動かない。
ああ、僕は死んだのだと、そこで自覚した。
裁判所で見た晃の窶れた姿と「朔を返せよ!」という加害者への叫び声を聞いて、涙が出てきた。
母も父も陽葵も、同じ様に泣いていた。
好きな人の涙を見るのは、想像以上に堪えるものがあった。
「…朔、朔ってば!」
「え?あ、ごめん。何?」
肩を叩かれて現実に引き戻された朔は、驚きつつも晃を見る。
「朔がぼんやりしてるの珍しいな。」
「ああ、うん…。ごめん。」
頭を左右に振ってから、ゴクゴクとラムネを飲む朔を見て、晃もラムネに口をつける。
「このビー玉何とかして取れないかな。」
朔がラムネを飲み終えたのか瓶を左右に振ると、コロコロとビー玉が綺麗な音を立てて鳴る。
「俺が取るよ。貸して。」
飲み口に小指を入れて何度かビー玉をつついていると、ポロッと落ちてきた。
「はい、ビー玉。」
「わあ!ありがとう、晃!一生大切にする!」
「大袈裟だなぁ。」と、言いかけて止めて、言葉を飲み込んだ。
その代わりに「俺もこれ、一生大事にする。」と、自分の瓶の中に入っているビー玉に指をさすと、朔は嬉しそうに頷いていた。
夢でも何でも、朔とお揃いのものは嬉しい。
大きな音を立てて、ゆっくりと動きを止めたメリーゴーランド。
いつもなら、直ぐに消えてしまう朔が、今日はまだ残っている。
「朔、今日はまだ帰らなくていいのか?」
「うん、大丈夫だよ。…ねえ、晃。下弦の三日月が綺麗だね。」
朔が指をさす空には、晃が初めて見る形の下弦の三日月が浮かんでいる。
「ん?うん、月は確かに綺麗だな。」
「…晃には情緒が無いなぁ。でも、また晃とお揃いのものが出来た。」
ビー玉を右手の人差し指と親指で摘むと、メリーゴーランドの光に反射させるようにして朔は眺めていた。
段々と薄くなっていく朔の姿を見送るように、「また明日な。」と晃は朔の頭を撫でる。
また明日という言葉が言えるのは、とても幸せな事だと晃は思った。
朔は何度も頷くと、涙を浮かべながら夜の中に消えていった。
「なあ、猫。まだ鳴かないでくれよ。せっかく朔が綺麗だって言ったんだ。…もう少しだけ、この三日月を眺めさせて欲しい。」
晃の足元にいた白い猫は太股の上に乗り上がると、丸くなってゴロゴロと喉を鳴らす。
晃は小さな声で「ありがとう」と言うと白い猫を優しく撫でる。
残り少なくなったラムネを飲み干して、瓶の中に入っていたビー玉を取り出す。
下弦の三日月にビー玉を掲げると、メリーゴーランドの先にある下弦の三日月が、逆さまに見えた。
「本当に月って綺麗だな、朔。」
顔を掌で覆って泣き出した晃は気付き始めている友情だけでは無い自分の気持ちに蓋をするように、右手に持っているビー玉を強く握りしめる。
大泣きし始めた晃を見かねたのか、白い猫が「にゃあ」と鳴くと、グニャリと歪み始めた視界の中で、朔とお揃いだと笑いあったビー玉だけは離すものかと、薄れゆく意識の中で握った手に力を入れた。
昼頃、ベッドの上で晃が目を覚ますと、自分の右手の中にビー玉が無いことに気が付いた。晃が布団を捲りながら飛び起きると、ビー玉はカーペットの上に転がっていた。
カーテンから漏れている日中の日差しをビー玉が反射して、キラキラと輝いていた。
ホッと胸を撫で下ろし、ビー玉を拾い上げると自室のローテーブルの上に瓶のラムネが二本あった。晃が確認すると二本とも中身は空で、一本だけ倒れている方の瓶を起こそうと持ち上げると、ビー玉が入っていなかった。
驚いてもう一本の方も持ち上げると、やはりビー玉は入っておらず、晃は体から力が抜けたようにその場にへたり込むと、一筋の涙を流した。
「朔、ちゃんと持って行ったんだな。」
涙を拭い息を吐き出すように泣きながら笑うと、嬉しそうに何度も頷く。
「晃とまたお揃いのものが出来た。」喜びながら笑う朔の声が、晃の頭の中で何度もリフレインしていた。
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