ミスジャッジ

翡翠

崩壊

 浅井紗季あさいさきは、さんたる光に包まれた幸せな日々を送っていた。


 彼女が生涯を共にする相手として選んだのは、穏やかで温かい性格の大輔だいすけ


 一緒に未来について語り合うたびに、紗季の心には期待と安堵が混ざる柔らかい明かりが灯る。


 長年の努力が報われたような大きな幸福感は、すべてが完璧に見えるこの瞬間に凝縮されているかのようだった。


 婚約指輪の輝きを確認すると、紗季はこれ迄にない喜びに満たされる。花嫁としての役割をきちんと果たすため、結婚式に向けての細やかな調整に精を出していた。


 白いウェディングドレスを身にまとい、ベールを被り、鏡の中の自分を見ると、心はいつも以上に高揚こうようする。


 この確固たる未来を目前にして、胸の奥底にある僅かな不安が彼女を時折苦しめた。


 それは、父・浅井信吾あさいしんごとの関係からくるわだかまり。


 幼少期から冷淡だった父は、家庭よりも仕事を優先し、紗季の心には愛情に飢えた空洞が残る。その空洞も今は婚約者の存在によって満たされていると、彼女は信じようとした。



 その日、平穏で幸せな日常は、一本の電話によって打ち砕かれる。


 電話の向こうから知らされたのは、殺人容疑で父・信吾が逮捕されたという知らせだった。その瞬間とき、耳元で空気が詰まり周囲の音が遠のく。



「嘘でしょ…」



 震える手で電話を握りしめながら、頭の中で必死に現実を受け入れようとする。父が人を殺したという事実が、紗季には到底信じられなかった。


 たとえ父と複雑な関係にあったとしても、そんな罪を犯すような人間ではないという確信があったから。


 しかし同時に、冷淡な態度や感情を抑え込むような無口な姿が、そんな罪に追い込んだのかもしれないという言葉に出来ない恐れが、奥底で苦しめた。



「なんでお父さんが…」



 恐怖と怒りが胸の中でせめぎ合い、理性は保てないほどにグラつく。


 幼いころから父の愛情を感じることなく育った紗季にとって、信吾の存在は理解不能であり、彼に対して心を開くことを避けてきた過去がある。


 それでも、血の繋がった家族が犯した罪に直面することがこんなにも重いものだとは、想像していなかった。



 ***



 そして、立て続けに不幸が重なるかのように、婚約者の大輔からの電話が鳴る。大輔の声はこれまでと違い、あまりにも他人行儀だった。



「…ごめん、やっぱり結婚は無理だと思う」



 その言葉が告げられると紗季の心はまたしても微塵に、ボロボロと砕かれる。これからの未来を楽しみにしていた彼女に更なる絶望が音を立てて押し寄せた。


 安定していたはずの足元が突然崩れ去り、深い穴へと突き落とされる感覚。



「どうして?私は何もしてない…」



 呆然ぼうぜんとする紗季に、大輔は容赦ない。



「父親が殺人犯であるかもしれない女性との未来は考えられない」



 結婚という安定した夢が、たった数分の会話で崩れ去った。


 とうとう一人になった紗季は、感情が暴発するかのように泣き崩れる。これまで積み上げてきた希望と安らぎが、たった一日でここまで崩壊した事実が耐え難かった。


 愛する人を失い、家族すらも信じられなくなった今、ただ虚無感だけが残される。



「なんで…どうして私がこんな目に…」



 荒れ果てた心は、ますます孤独と絶望へと引きずる。いつも支えになってくれた親友の美彩みさに電話をかける勇気もなく、紗季は一人で感情に飲み込まれていった。


 冷風が窓の隙間から入り込み、部屋に寒さと重苦しさが漂う。紗季は、自分の人生がすべて壊れた錯覚に襲われ、無意味に感じる。


 その底なしの孤独の中で、紗季の心に一つの感情が湧き上がった。父への怒り、そして憎悪ぞうお



「全部、お父さんのせいだ」



 そう呟いた瞬間とき、彼女の中に固まっていた感情が一気に湯水のように溢れ出す。ずっと父に対して抑えてきた感情が形を成した。

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ミスジャッジ 翡翠 @hisui_may5

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