はやく こい。

 祖父が新しい家を建てたのは、俺が五歳の頃だった


 俺の家族は毎年、お盆と正月の連休中に母方の祖父の家へ泊まりに行く。

 国家公務員をしていた祖父が退職金を使って建てた家はとても立派で、母の姉弟家族が、その時期に集まって寝泊まりをするようになった。


 地方都市の郊外だったので、いわゆる「田舎のじいちゃん」って感じではない。


 従兄妹たちとは広い家の中を探検ごっこをしたり、仏間に飾ってある甲冑の前でチャンバラごっこをしたりして夢中になって遊んでいた。たまに、度が過ぎて祖父に怒られることも。

 そんな年に二度ほどある、年齢の近い従兄妹たちと遊べる機会が毎年楽しみだった


 しかし、俺が十歳の時に事件は起きる。


 その年のお盆は、母の弟家族が参加できず、毎年、ひとつ年上の従兄と一緒に寝ていた二階の和室は、俺が一人で使う事になった。


 いつも従兄が使っていたソファベッドを使えることに喜びを覚えていたものの、いざ夜になればその静寂に耐えられず、寝付けなかった。


 従兄と一緒に寝ていた時は、外の様子を気にしたことなど無かった。だいたい彼とくだらない会話を続けているうちに眠りに落ちていたからだ。


 退屈しのぎに障子を開けて窓の外を眺める。


 部屋にある大きい窓から見えていたのは小さな畑を挟んだ狭い道路。そこにはぽつんと街灯が一本だけ立っていた。


 星空の様子は思い出せないが、月がやけに眩しく感じたのは覚えている。そんな月を暫く眺めたあと、街灯の下に視線を落とすと、そこに白いワンピースのような服を着た長髪の女が立っていた。


 顔までは良く見えない。おおよその年齢すらも見当がつかない。

 ただ、その女の側にベビーカーが在ったことから、若くても十代後半以上であることは推測できる。


 当時の俺は気にしていなかったが、今となって考えればベビーカーを押している女が真夜中に外を彷徨うろついていることに、もっと疑問を抱くべきだったと思う。


 女の姿をずっと見ていたが、その間、彼女は何処かへ行く様子もなく、ただ其処に立っているだけだった。丁度、畑を挟んだ道にいるせいで、彼女のことがカカシにも見える。

 退屈なことに変わりは無いが、それでも何も無い夜をひたすら見続けているよりは遥かにマシだった。


 どれだけ見つめていただろうか、やがて女に動きがあった。――女はゆっくりと顔をこちらに向ける。


 目が逢ったような気がした。しかし気の所為でないことは直ぐに判った。それは、彼女が俺に向かって手招きをし始めたからだ。

 流石に気味が悪くなった。


――障子を閉めてさっさと寝よう。


 俺は体を起こそうとする。しかし、まるで全身が見えない鎖に縛られているかのように動かない。何とかして動かないかと頑張ってみるのだが、体中にむずかゆい痺れが走るだけで、動く気配が全くない。


 首から上も、うんともすんとも言わない。まぶたも閉じることが出来ない。せめて視線だけでも逸らそうと思ったが、それも叶わなかった。

 手招きする女の姿を強制的に視させられている……。


――まずい。まずい、まずい。


 気付けば呼吸も苦しくなっていた。無呼吸ではないものの、大きな綿を鼻と口に押し付けられているかのような息苦しさ。声を出すことも出来ない。この全身の痺れは恐怖で体を震わすことすらも許さなかった。


 ようやく気付く。自分が何か、とんでもない事態に巻き込まれているという事に。しかし、――それはあまりにも遅い。

 底のない珪砂けいさの海へ沈むこむような感覚が俺の意識を奪っていった。


 気が付いたとき、俺は真夜中の畑の中に立っていた。


 見覚えがある。間違いない。先程まで窓から眺めていた街灯の前にある小さな畑だ。そして、眼の前の街灯の下には、女が立っている。

 相変わらず、手招きをしながらこちらを見つめて……。


 俺は自分の足で立っているはずなのに、体を自由に動かすことが出来なかった。さっきまでの、何かに縛られているかのような感覚ではない。まるで俺の体が俺の体ではないような。

 その時の俺は、ただ目がついているだけの操り人形のようだった。


 俺は歩き出す。ゆっくり、ゆっくりと。


 勿論それは俺の意思ではない。

 どれだけその動きを抑え込もうと念じても、一歩ずつ、確実に足は彼女の方向へ進む。裸足で土を踏みしめる感覚と緩く生温い風の音、そして鈴虫のような声だけが聞こえている。

 しかし、不思議と、心臓の鳴り響くような音はそこに無かった。俺の体は、もう俺のものではない――。

 俺が彼女のもとへ辿り着いたとき、それは死を意味しているのだろう。


――やめろ、やめてくれ。行きたくない。


 おいで。

  おいで。

   おいで。


     ヲイデ。


 どれだけ意識で拒否をしても体が言うことを聞かない。確実に彼女へ近付いている。遠目からでは確認できなかった顔も目も、今はハッキリと見える。

 血の通っていないような青白い肌、目は眼球が今にも飛び出そうなくらい大きく見開いていた。口元は笑っている……が、喜でも楽でもない、狂気じみた嗤い。


 ベビーカーの中に居る〝何か〟も俺のことを見ている。でも、それは赤ん坊などでは無かった。――黒ずんでひび割れた西洋人形。片方の目玉は失われていて、残ったもう片方は死にかけのはえのようにクルクルと回っていた。


 声もはっきりと聞こえる。耳からじゃない。脳に、直接。


 オイデ、オイデ、オイデ

  オイデ、オイデ、オイデ


    はやく こい。


――誰か、誰か助けてよ! だれか……。

 このままだと、のところに、着く……!


 死が、確実に近付いている。もう、終わる。

 怖い、……怖い。なのに、涙も出ない。恐怖に表情を引きつらせる自由すらも奪われたまま、終わってしまう。

 ただただ糸で操られているかのように、ぎこちなく、進む。


――えっ?


 突然、後ろから肩を引っ張られた。誰に引っ張られたのか、それを見ることが出来ない。俺はそのままバランスを崩して畑の土の上に倒れ込む。

 冷たい土の感触を頬に感じる。地面に叩きつけられた痛みも。


 無意識のうちに、痛む部分へ手を当てていたことに気が付く。


――動ける……?


 むくりと起き上がる。ずいぶんと後ろまで吹き飛ばされていたようだ。

 俺は女のいた方向を見る。女と俺の間には、青白く光る、黒い甲冑のような影が立っていた。

 現実に其処に在るような質量感はなく、そこに存在しているのが判るだけの、物質らしさを感じさせない甲冑の影は、ゆらりゆらりと周りの景色を歪めながら女に向けて刀を抜いていた。


――今のうちに、逃げないと。


 急に戻ってきた体の感覚に慣れず、足がもつれる。しかし、何度転ぼうとも起き上がり、必死に祖父の家の玄関を目指す。うねに足を引っ掛けないよう、確実に畝間うねまを進む。

 ようやく体が慣れてきた頃、猿の雄叫びのような奇声が聞こえてきた。もちろん、あの女と甲冑の方だ。


 キエエエェェェェェ――。


 振り返ると、女とベビーカーの姿が陽炎かげろうのように揺れていた。声の主はあの女なのだろう。揺らめきながらも彼女が頭を抱えて叫んでいるのがはっきりと判る。


 女とベビーカーの姿が少しずつ暗闇に溶けるように薄まっていく。それに伴って奇声も遠くなっていった。

 やがて女の姿が完全に消えると、甲冑はこちらにゆっくりと振り向き、刀を鞘に納める。


 カチャリ――。


 遠く離れているのにも関わらず、刀が収まりきる音がハッキリと聞こえた。

 その瞬間、俺の意識はまた、フッと何処かへ消える。視界が暗転し、まるで底のない井戸に吸い込まれるようだった。


――


「――い、早く起きなさい! 何やってるの!」


 気が付いたらそこは和室のソファーベッドの上で、母が滅茶苦茶に俺の体を揺らしていた。

 先程まで視ていたのは、ただの夢だったのだろうか。


「もう、起きたよ。……どうしたの?」

「どうしたもこうしたも無いでしょ! あんた、コレ見なさいよ!」


 母は鬼の形相だった。あの甲冑も、顔こそはっきり見えなかったものの、こんな感じだったのだろうか。

 促されるまま母が指差す畳を見る。


 瞬間、背筋がぞおっと凍りつくのを感じた。

 畳のありとあらゆる部分に土の汚れが付いていた。泥だらけの素足で踏み荒らしたような、子どもの足跡。

 俺は布団を跳ね除けた。しかし、そのままソファベッドから降りようとしたところで母に静止される。


「あんた! 布団までこんなに汚して! 足も泥だらけじゃない! どうしてこんなことになったのよ!」


 自分の体を見る。服も、腕も、足も。ありとあらゆる所に土汚れが付着していた。顔にも付着していたのだろう。枕にもその痕跡がはっきりと残っている。


「おじいちゃんが『玄関が開いてる』って騒ぐし、あんたのスリッパが玄関に転がってて、……何かあったんじゃないかって、皆であんたを探してたのよ!」

「――でも、部屋を覗いてみたらグースカと寝てるじゃない。もう、心配させないでよ」


 鬼のような形相で叱る母の目には、鬼とは思えぬような安堵と心配が詰まった雫が溢れようとしていた。


「ごめんなさい」


 目を見て謝ると、母はふっと笑って頭をくしゃくしゃと撫でる。


「タオル取ってくるから、これ以上、部屋を汚しちゃだめよ。体と足を拭いたらお風呂はいってきなさい」


――


 その日のうちに、小児科のかかりつけ医のところで、夢遊病だと診断された。


 その後数ヶ月くらいにわたって、俺は母と一緒の部屋で監視されながら寝ることになる。

 しかし再びそういったことが起きるでもなく、自分の部屋で寝ることを許可された。あの日、祖父の家で起こったことは、ただの夢遊病が視せた幻覚だったのだろうか。


 今となってはそれも分からない。


 あれから祖父の家へ行くときは、仏壇に手を合わせるようになった。

 仏間に飾ってある甲冑が、あのときの……甲冑さんのように見えたから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る