深夜零時の悲鳴
人間に昼の顔と夜の顔があるように、団地もまた昼の顔と夜の顔がある。
俺はそんな角川団地の夜に足音を立てる側の人間だ。仕事の時間が不規則なのだから仕方がない。今日も家にもどったのは日付が変わってしまう直前だった。
背広をハンガーにかけ、脱衣所へ行き、シャツと肌着とスラックスを脱ぎ洗濯かごへ放り込む。夕飯は帰りの運転中におにぎりで済ませてある。あとはシャワーを浴びて少し寝るだけ。
ちなみに、湯船のお湯は張っていない。数時間後にはまた職場へ戻らなければならないからだ。さすがに面倒くさい。
脱衣所から浴室へ向かう扉を開けようとしたその時、外から微かに女の助けを求めるような叫び声が聞こえた。時計の針は午前零時を指している。
何があったんだ?
貴重なプライベート時間だったが、悲鳴を聞いてしまったからには放っておける訳が無い。俺は洗濯かごからシャツと肌着を戻し再び着込んだ。
念の為、部屋へ戻って背広も羽織る。悲鳴が聞こえてからそう時間は経っていない。玄関を飛び出し、勘を頼りに声がした方向を目指した。
冷たい秋の風を全身で浴びる。しかし全力で走っていると、それでも暑く感じてしまう。……背広は余計だったかもしれない。せめてスマホなどをポケットから取り出すだけで良かった。
――再び短く鋭い悲鳴が聞こえる。確実に目的地へ近付いているのが分かる。
「今のは、六号棟の向かいの公園か……!」
職業柄、聴覚や持久力には自信がある。さらに、もし大男が女性を襲っていたとしてもそれを取り押さえる自信もあった。別に過大評価をしている訳では無い。ただ相手が普通の人間であれば、学生時代に鍛えた柔道とレスリングの技術でどうにでも出来ると考えているからだ。
「やめてください! 離してください!」
女性の切羽詰まった声が鮮明に聞こえる。公園はもう目の前だ。
声の出処を探る。街灯の光が届かない植え込みに、微かに揺れる二つの人影が見えた。
「おい! 何をしているんだ!」
「……っち! クソが!」
俺は暗闇に紛れた影に向かって大声で叫んだ。男の軽い舌打ちのような音が聞こえると一つの大きな影が、俺の来た方向とは別の出口に向かっていく。
影は一瞬こちらを振り返る素振りを見せたが、すぐに足音を響かせながら闇の中へ消えた。
「待て! この痴漢野郎!」
すぐに追いかけようと思ったが、ここでふと気が付く。
こんな暗い団地の公園で先程まで暴漢に襲われかけていた女性を独りきりにしてもいいのかと。
「大丈夫ですか? お怪我は……」
「だ、大丈夫です」
声の主は二十代前半くらいだろうか、俺の部屋まで聞こえるほどの声を出したとはとても思えない、弱々しい声をしていた。街灯の下に移動して彼女を落ち着かせる。どうやら着衣に乱れた様子はないようだ。
「さっきの男は、お知り合いでしょうか? 顔は覚えていますか?」
「いいえ、知らない人です。暗くて顔までは……。でも、その……」
と言いかけてから、彼女は目を逸らして唇を噛むような仕草を見せた。
「その?」
「な、なんでもありません!」
そう言うと女性は俺から顔を背けた。体は小刻みに震えている。
この寒さのせいだけではない。襲われて怖かったのだろう。無理もない。
俺は自分の拳をぎゅっと握った。爪が掌に食い込むかというくらいに。
こんなか弱い女性を襲う卑劣な悪党がこの団地に潜んでいるだなんて、とても許せなかった。
薄暗いとはいえ、ここには街灯がある。彼女はもう大丈夫だろう。
俺の住むこの団地内での悪事、やはり見逃すわけには行かない。
「今からでも追いつけるか分かりませんが、……追ってみます」
駆け出そうとすると、女性が俺の背広の裾を掴み、ぐいっと引っ張る。振り返ると彼女は伏し目がちに首を横へ振っていた。
「何故です? 俺の足なら充分……」
「そんな事をしたら、あなたが大変な目に合うかも知れませんから」
なんてことだ。自分が大変な目に遭っていたというのに、俺の心配をしてくれているのか。彼女の温かい一言に、血液が頬に集まるのを感じたが、――駄目だ、今はそれに浸っている場合ではない。使命を忘れるな。
「これを見てください」
女性はおそるおそる、俺の方を見る。
俺は背広の内ポケットに手を伸ばし、ゆっくりと警察手帳を取り出した。その表紙を彼女に向けて開くと、彼女は目を見開き、少しだけ肩をすくめた。
「大丈夫です、こう見えて私は訓練を受けた刑事です」
「うそ……、警察の方、だったんですね」
冷たい風が吹き、どこかで空き缶を転がすような音がする。卑劣な暴漢男を地獄の底まで追いかけてやる気でいたが、頭と体が冷えてきたせいだろうか、彼女の身の安全を最優先にすることにした。
「お住まいはここから近い場所ですか? もし良かったらお送りしましょう」
「いえ、大丈夫です。そこの六号棟ですから」
彼女が指差す六号棟までの道は街灯が多く、距離も近い。一人で帰ったところで危険な目には遭いそうにもないが、念の為
「それでは、入口までご一緒します」と言うと、
「いえ、結構です。――それより刑事さん、お帰りの際は気を付けてくださいね……」
と、彼女はぎこちない笑顔で返す。その目には恐怖とも安堵とも取れない曖昧な色が宿っていた。
俺は「それでは、お気を付けて」と手を振り公園を後にする。彼女は何かぼそりと呟いて軽く会釈をしていた。
最後の方の言葉は上手く聞き取れなかったが、俺の身を案じてくれていることに、少しだけくすぐったい気持ちになった。
刑事という仕事をしていると、人に感謝や心配をされるよりも、
嫌な思い出だけが強く残ってしまうせいかもしれないが。
まあ、たまにはこんな日があっても、いいのかもしれない。
俺の部屋がある十四号棟までの道を歩きながら、彼女が最後に呟いた一言を思い出す。そういえば、彼女はこう言っていたのかも知れない。
「見つかってしまうと、大変なことになりますから」
いったいどういう意味なのだろうか。立ち止まって少しだけ考えた。そして、薄暗い街灯が照らす足元のアスファルトを眺めているうちにその意味に気付く。
視界の端で何かが揺れた気がした。それは彼女の呟きが指していたもの。俺は思わず息を呑む。
そうか、そういうことだったのか!
冷たい風が肌を刺すように通り過ぎる。今さら気づいても、もう遅い――だが早く帰らなければ!
俺は公園に向かう時よりも、ずっと速く、十四号棟を目掛けて疾走した。
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