密かな楽しみ
「よし、まだ時間はある」
派遣の仕事を終えて家に着いたのは午後十時。
盆明けの湿気に蒸れた体をシャワーで流してから、ご飯を食べる。ここから、私のゴールデンタイムが始まる。
零時前。アパートの室内に設置した防音室に入り、新調したゲーミングノートPCを立ち上げた。
普段はしがない派遣事務員だけど、ひとたびインターネットの世界へ潜り込めば、登録者数十万人を超えるVtuber【
昂ぶる気持ちを抑えながら、配信の準備を進めた。
この登録者数が急に伸びたのは、つい最近のこと。
投げ銭による収益は日当を軽く越えているけど、派遣社員を辞める勇気まではない。いつ人気が衰えるかなんて分からないし、他のマネタイズ方法についても知識は乏しい。
いつも『私は個人勢だから』なんて自分に言い訳をしているけど、それがただの甘えだなんてことは、分かってる。
今日はひどく蒸し暑い。深夜でもこの湿気だ。スポットクーラーの設定を除湿【強】にする。狭い室内に心地よい冷風が行き渡り、少しだけ快適さが戻った。
この防音室は、大家さんの許可を得て換気用のダクトまで取り付けさせてもらったもの。スポットクーラーの排熱パイプもそこに通してある。
気密性の高い室内では、換気扇をつけるか、ドアを少し開けておく等しないとやがて空気が薄くなり、――最悪の場合、窒息する。
そうなれば、頑張って整えた環境も台無しだ。
ちなみに、耐火性のある素材のほうが防音効果が高いらしく、素材はそれにしていた。少し高くついたけど。
おかげで、貯金はスッカラカン。照明代をケチったのも仕方ない。それでも、この投資は間違っていないと思ってる。
画面の中の――私の
投げ銭つきのコメントに、思わずにやけそうになった。でも、それが顔に出るとアバターにも反映される。きゅっと頬に力を込めて気を引き締めた。
――♪♪
『ネクたその歌まじで沁みる』
『曲だそうー』
『8888888888888』
画面には、応援のコメントが次々と流れていく。高揚感が胸を満たし、歌声にも自然と笑みが乗った。
気が付けば一時間が過ぎていた。もう一時間ほど配信したら寝るつもりだったけど――、でも、ここで予定は狂ってしまう。
突然、配信画面がフリーズしたのだ。
PC画面の右下を確認すると、Wi-Fiが切断されている。このアパートでは、深夜帯にこういうことが起こりがちだ。
「ええ、また……?」
ルーターを再起動する時間が惜しいので、非常用に契約していた携帯モバイルルーターに接続を切り替えた。少し配信ラグが大きくなったけど、背に腹は代えられない。
コメント欄には、大喜利大会のようなリスナーたちの冗談が並ぶ。少し救われた気がした。
「みんな、お待たせ~! じゃあ、続きの
『ネクたそおかえり~』「はいただいま~」
\320-
『回線変えたら?』「えー、どこかオススメある~?」
\1,000-
『結婚してください』「はいはい、私だけの石油王でいてくださ~い」
\30,000-
数分ほど、そんなやり取りをしていたら、あることに気が付く。
――暑い。あまりにも暑い。
スポットクーラーに目を遣ると、液晶画面が息をしていなかった。蒸し暑さが増していく中、ため息をついて電源ボタンを押してみたけど、まったく反応がない。
「え、壊れた……?」
どうしたものか。ほんの少しだけ考え込む。
歌枠は終わっているし、あとはコメント読みだけだから……。
仕方なく、防音室の扉を開けて部屋のクーラーを点けることにした。
――もう少し、声を抑えて頑張ろう。
汗ばんだゲーミングチェアから立ち上がる。「リスナーの皆、ちょっと喉乾いちゃったから、飲み物とってくるね」マイクのミュートボタンは忘れずに押した。
視線を下げる。すると薄手の寝間着には胸元まで汗染みが広がっていた。パタパタと服の中へ風を送りながらため息を
もっと可愛いパジャマを買って、痩せて、エステに通って、彼氏もつくって、あと、それから――。
『もっともっと大物になって、いつか思う存分に配信できる環境を整えてやる』
そんな決意を胸に、防音室の扉に手を伸ばした。
暗闇に閉じ込められていた私を、眩しい光が包み込む。まるで希望に満ち溢れた未来を描くように――。
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