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マイクは、キャサリンと別れたところからそれほど距離はない、ライアンが練習しているグラウンドにやってきた。
そこでなぜか、脇で練習を見ている、マイクやライアンと友人であるジャックとポールが、腹を抱えて爆笑していた。
「おい、どうしたんだ?」
マイクは二人に接近して声をかけた。
「あっ、マイク」
やんちゃな雰囲気のあるジャックがしゃべった。
「あれ、見てみろよ」
そう言って指をさした先にいるライアンが、なよなよとした、運動が相当苦手な女性がしそうなフォームで走っていた。
「ブッ。何だ、ありゃ?」
マイクは目を丸くした。
「おかしいだろ? 新走法だってよ」
ジャックは改めて声を出して笑った。その隣の、メガネをかけた育ちの良いおぼっちゃんふうの、ポールも微笑んでいる。
「あいつでもあんなことするんだ」
マイクはそう口にすると、自分たちの方向に歩いてくる鋭い目つきの中年男性に気づき、近寄っていって話しかけた。
「トレーシーコーチ、こんにちは」
「やあ」
彼、ライアンのコーチであるトレーシーは、普段は穏やかな面もあるが、仕事に関しては妥協を許さない知的な合理主義者といった感じの男だ。
「ちょっとうかがいたいんですけど、どうですかニックの奴、ワールドレコード、いけますか?」
マイクが笑顔で質問すると、トレーシーも表情を崩して答えた。
「フフー。そうだねえ。記録更新は時間の問題だ、くらいのことを言う人もいるが、〇・〇七の差はそう簡単ではないからね」
ジャックがマイクに視線を向けながら話に加わった。
「でも、どうしても期待しちゃうよな、俺たちは」
マイクもポールも同感といった表情だ。
「もちろん、可能性がないことはない。私も期待している。なにせ、ニックは才能があるばかりでなく、人一倍練習熱心だしね」
トレーシーは慎重な言葉を選んではいるが、実際はかなり自信がありそうだ。
当のライアンはというと、走り終えた後のクールダウンの様子でグラウンドを歩いていた。
何日かが経ち、マイクは自宅で、かかってきた電話に出た。
「おう、なに? ああ、ここのところちょっと忙しかったからな。え? もちろんいいけど。わかった。じゃあ、後でな。はい」
電話を切ると、若干表情が曇った。
ライアンの練習グラウンドの端に、ジャックとポールが真顔で立っている。そこへマイクが小走りでやってきた。
「おい、どうしたっていうんだ?」
ジャックが前方を指さしてしゃべった。
「見てくれよ、あれ」
ライアンが前回と同じく、なよなよとしたフォームでトラックを走っている。
「あれ、この前の?」
マイクは尋ねる表情でジャックに視線を戻した。
「当然冗談だと思ったろ? でもあいつ、本気であの走り方に変えたらしいんだ」
「ええ?」
驚きの声をあげたマイクに、ポールが続けて言った。
「おかしいでしょ、素人目にも。トレーシーコーチが声を荒らげたりしても、やめようとしないんだよ」
マイクは困惑した顔になった。
少しして休憩する感じになったライアンに、マイクは近づいて話しかけた。
「ニック、ちょっといいか?」
「ん?」
「どうしたんだ? その走り方は。ジョークじゃないのか?」
「ジョーク?」
ライアンは眉をひそめた。
「俺がジョークなんてする奴じゃないことくらい、よく知ってるだろう」
確かにライアンは普段、ちょっとした冗談を口にすることもない。まして陸上に関しては、トレーシー同様にストイックな姿勢で、それでふざけるなど考えにくい。マイクもわかってはいたが、オリンピック後の息抜きか何かだろうと思ったのだ。
「まあ、そうだけどさ」
マイクは悪く言うつもりはないんだというふうに微笑んだ。
「ただ、俺ごときが言うのもなんだけど、そんな変わった走り方で大丈夫なのか? ワールドレコードの期待もあるんだぜ」
ライアンは、一瞬何かを考えるように黙ったが、笑顔になって答えた。
「ワールドレコードを出すためにやってるんだ。まあ、見てろよ」
それを聞いても納得できないようで、マイクは冴えない表情だった。それほど目に余る走り方なのだ。
そして、離れた場所で椅子に座っているトレーシーのもとに足を運んだ。
「どうも」
「やあ」
トレーシーは軽く手を上げて応じた。
「少しいいですか?」
「構わないよ」
トレーシーに勧められて向かいの椅子に腰を下ろしたマイクは、疑問を口にした。
「今、ニックと話してきて、あいつ、あの走り方、ワールドレコードのためって言ってましたけど、あり得るんですか?」
「いや、普通では考えられない。とんでもないというだけのフォームだ」
トレーシーは冷静に答えた。
「じゃあ、いったいなぜ、あんな走り方を?」
「わからない」
首を軽く横に振ってそう口にすると、続けた。
「ただ、他人の誰の目にもおかしく見えても、否定はしきれない。例えば、走り高跳びの背面跳びは元々ある一人の選手の独自の跳び方で、好成績を残して評価され、今や当たり前となったが、最初は理解されなかった。ニックのあの走り方が一般的になるとまでは思えないけれど、世界記録を狙うなら今までの走り方では限界だと感じ、より自分が走りやすい形をと考えた結果があれだったとか、何かが本人の中にあるのかもしれない」
トレーシーの眼光がやや鋭くなった。
「しかし、ニックはトップの選手。無名の選手とは訳が違う。あの走り方で結果が出なかったらと考えるとかなりのリスクで、私はとても賛成はできない」
文字通り、笑い事では済まされないということだ。軽く考えてはいなかったが、マイクの表情も真剣さが増した。
次の更新予定
ワールドレコード 柿井優嬉 @kakiiyuki
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