ワールドレコード

柿井優嬉

1

 満員の観客で埋め尽くされた立派な陸上競技場。その人の多さの割に歓声は少ない。彼らの目はトラックに向かい、集中しているのだ。そこには鍛え抜かれた体の八人の男たちが、横一列に並んで立っている。

 八人はわずかに前進して、しゃがんだ。これからオリンピックの陸上の百メートル走の決勝が始まる。

「さあ、男子百メートルの決勝がスタートしました。早くも四レーンのニック・ライアンが一歩リード。速い! 速い、速い! ライアン独走! 誰もついていけません! 今、一着でゴール! 金メダル! やりました、ニック・ライアン! 直前のケガで出場できず、涙をのんだ前回大会から四年。ついに念願のオリンピックの金メダルを手に入れましたー!」

 優勝した黒人選手のニック・ライアンは雄叫びをあげた。

「やった、やった! やったー!」

 観客席の人々は皆笑顔になったが、そのなかでも一組の若い男女がひときわ激しく喜んだ。

 ライアンは他の選手たちと健闘を称え合うと、観客の大声援に小走りで手を振って応えていった。


 心地のよい、秋の晴れた日。大勢の人が行き交う広い通りを、二十代の男女が並んで歩いている。オリンピックのときに観客席で派手に喜んだ二人だ。

「なに? 話って」

 男のほうが訊いた。彼の名はマイク。さわやかで、知り合いの誰からも慕われ、頼りにされることの多い、好青年だ。

「うん、私の考え過ぎかもしれないんだけど、彼……」

 口を開いた女性は、何やら暗い表情をしている。

「ニックのこと?」

「うん」

 マイクの問いかけに、女性はうなずいた。彼女の名前はキャサリン。マイクに劣らない清い雰囲気で、髪の長い美人である。

 二人は交際していると言えば誰もが納得しそうなほど似合っているが、純粋な友人関係だ。キャサリンが付き合っているのはニック・ライアンであり、彼女からの相談をマイクは聞いてあげているところなのである。

「ずっと目標にしてた、オリンピックでの金メダルを獲れたじゃない。もちろん私もすごく嬉しかったけど、その後思ったのよね。目標にしていたものを手に入れたってことは、言い換えれば、目指すものがなくなったってことでしょ? また四年後っていうのもあるんだろうけど、まだ先の話だし、精神的にどうなのかなって。この前デートしたとき、心なしか上の空で、あまり元気がない感じだったから、気になってるんだ。私、彼にはずっと輝いていてもらいたいし。どう思う?」

 不安そうにキャサリンが話し終えると、マイクは心配するどころか、反対に笑みを浮かべた。

「燃え尽き症候群ってやつの心配だね。それなら大丈夫。目標なら、十分過ぎるほどのものがあるよ。ワールドレコードさ」

「ワールドレコード?」

「うん」

 マイクは自信ありげに返事をした。

「現在の百メートルの世界記録の九秒四七に対して、ニックのベストは九秒五四で、まだ少し差があるから、それほど騒がれてはいないけれど、それを更新できるのは将来的にもニックしかいないんじゃないかと一部ではささやかれているんだ。その現在の記録は三十年以上も前につくられた記録でさ。もはや人間の限界じゃないかとも言われてるんだけど、記録保持者のルーベン・マッカーシーっていう選手というのが、頭角を現してきたと思ったら、あっという間に当時の世界記録を上回り、さらに記録を伸ばし続けて、九秒四七までいったんだ」

 そこでマイクは眉間にしわを寄せた。

「ところが、その九秒四七を出した直後に不慮の事故に遭って、現役のまま亡くなってしまってさ。そういうこともあって、かなり神話的に扱われているランナーなんだ。ニックはそのマッカーシーと、体つきから走るフォームまで非常に似ているらしく、『マッカーシーの生まれ変わり』と言う人もいて、だから余計にコアな陸上競技ファンの間では期待する声が大きいんだ」

 キャサリンを安心させるように、マイクは再び微笑んだ。

「ニックの口から直接は聞いてないけど、絶対に意識はしているはずだよ。デートのときはきっと、久しぶりに心からくつろげる時間だったから気が抜けたようになっちゃっただけで、ワールドレコードに標準を合わせた練習をもう開始してるかもしれない」

「そう」

 キャサリンの表情もゆるんだ。

「それならよかった」

「あっ」

 マイクが前方を見て、何かに気づいた。

「ジム!」

 彼らの少し先を歩いていた、がたいのいい男に声をかけた。彼はジム・ワグナー。ライアンと同じく陸上の百メートル走の選手で、オリンピックでは決勝でライアンに敗れた。がさつな雰囲気で、お世辞にも容姿はいいとは言えない。整った顔で清潔感もあるライアンとは対照的というイメージだ。陸上の実力もさることながら、特に女性からの人気という点においても、圧倒的にライアンのほうが上である。

 マイクは彼から離れた位置のまま、からかうように尋ねた。

「どうしたんだよ、今日、トレーニングは? 休みか? それとも、もう引退したんだったか?」

「なにー!」

 ワグナーは腹を立てた表情を見せた。

「おいおい、冗談だよ」

 マイクはおどけながら冷静になれよといったジェスチャーをした。もちろんワグナーも本気で怒っているわけではない。

「チッ。いいか、ニックに会ったら言っとけ! オリンピックでは負けたが、次に顔を合わせるときは絶対に負かしてやるから、覚悟して、せいぜいトレーニングを積んどけってな!」

 そう言うとワグナーは背を向けて、元々進んでいた方向へ歩きだした。マイクは離れていく彼に、最後にもう一言声をかけた。

「お前こそしっかりトレーニングを積んで、ニックをおびやかしてくれよ! それによってワールドレコードが近づいてくるんだからさ!」

「うるせー。俺は引き立て役になんかならないからな。よく言っとけよ!」

 ワグナーは真剣に言い返したけれど、負け犬が逃げながら吠えているような滑稽な姿にも見えた。

「ハハハ」

 笑顔にマイクに、後ろにいたキャサリンが話しかけた。

「じゃあ、私行くね」

「あれ? ニックに会っていかないの?」

「うん、いいわ。安心したし、約束に遅れちゃうと困るから」

 キャサリンは微笑み、マイクは彼女が本当に安心したことを見て取った。

「そう」

 そしてキャサリンは手を振って離れていった。

「今日はありがとう。じゃあね」

 マイクも同じように手を振り、二人は別れた。

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