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とある陸上競技場で、これから百メートル走が始まる。
「さあ、四レーンはニック・ライアン」
場内が一気に盛り上がった。
「すごい歓声です。これがオリンピック後、初のレース。いったいどんな走りを見せてくれるでしょうか」
ライアンは気負ったりすることもなく、落ち着いた様子だ。
時間が来て、八人の選手たちは位置に着いた。
一瞬の静寂の後、「パンッ」とスタート音が鳴り響いた。
「スタートしました。横一線の状態。ライアンはどこで前に出るか。いや、それよりも何でしょうか? あれは。体をくねらせた、非常に変則的な走り方をしています。ライアン、現在トップではありますが、二位以下とあまり差はない。あっ、かわした。二レーンのウイルソンが追い抜きました。そして、そのままゴールイン! 敗れました、ライアン二着! 変わった走り方で伸び悩み、最後はかわされました! 実に五年ぶりの敗戦です! 百メートルのトップを走り続けてきたニック・ライアン、敗れましたー!」
観客は、ライアンの走り方と敗戦の両方の驚きで、静まり返った。
ライアン本人はというと、やはり残念そうだったものの、そこまでひどく落胆した様子ではなかった。
にぎわうレストランの一角で、二十代の陽気な四人の男たちが、楽しそうに食事しながら会話をしている。
「おい、見たかよ? 昨日の百メートルのニック・ライアン」
「ああ。もうガックリきたぜ。俺はワールドレコードの期待もしてたっていうのに」
すると、今しゃべった二人とは別の一人が笑いながら言った。
「いやいや、ガックリより何より走り方だろ。何なんだよ、あれは。みんな、目をつぶって思いだしてみろよ」
そして四人は一斉に目を閉じて黙ったが、耐えられないといった感じですぐさま「ギャハハハハ」と大爆笑して、テーブルをバンバンと叩いたりした。その店は庶民的で、マナーにうるさかったりはしないけれども、馬鹿騒ぎな状態で、さすがに眉をひそめる人も多かった。
その男たちとさほど離れていないテーブルに、キャサリンがいた。笑い声が響く間、彼女は伏し目がちで、つらい気持ちを抑えているような表情をしていた。
「どういうことかは聞いたわ、マイクに」
屋外のひとけのない場所で、キャサリンはライアンに強い口調で話した。
「でも、考え直して。あなたには素晴らしい才能があるわ。あんな走り方をしなくても、トレーニングを積めば、世界記録もきっと塗り替えられる!」
「悪いけど、走り方を元に戻す気はないよ」
キャサリンの真剣な訴えがまるで伝わっていないと思えるくらい冷静にライアンは答えると、何事もなかったかのように、キャサリンに背を向けて歩きだした。
「待って!」
ライアンは振り返らず、足を止めるだけした。
「私のことも考えてよ。私の周りの人はほとんどが、あなたと付き合ってることを知ってるのよ。みんな、私を見て陰で笑ってたわ。ねえ、お願い!」
一瞬間があったものの、ライアンは顔を向けると、やはりそっけなく、一言だけ口にした。
「悪いけど」
そして去っていった。
ライアンは陸上競技が恋人のような男だ。だが、現実の交際相手のキャサリンにも人並み以上に優しく大事に接していた。それが、このあまりに冷たいライアンの態度に、キャサリンは信じられないといった表情でその場に立ち尽くした。
陸上競技場で、また百メートル走が行われようとしている。
「さあ、三レーンはニック・ライアン。オリンピック後の二レース目です。前回敗れた汚名を返上できるか。そして、再びあの変わった走り方をするのでしょうか」
選手たちはスタート位置にしゃがみ、足と手をセットした。
パンッ!
「スタートしました。ライアンはやはりあの走り方です。ロドリゲス、ジョーンズ、続いてライアンですが、ここから伸びてくるか。いや、伸びません! ロドリゲスが一着でゴール! ライアンは……結局四位。前回よりさらに順位を下げて、惨敗です!」
カフェで、携帯電話の画面を凝視している者がいる。それはジャックで、正面に座っているポールに話しかけた。
「なあ、見たか? この新聞社のサイトの、ニックについての記事」
「うん。かなり辛らつに書いてあるね」
「でも、納得はできるぜ」
ジャックに、ライアンを心配する様子は見られない。そしてコーヒーを口にすると、続けて言った。
「それよりキャサリンの奴、ニックに愛想を尽かしたらしいぜ」
「まあ、そうだろうね。友人でも恥ずかしいのに、恋人ならなおさらだもの」
穏やかな性格のポールが、初めて見せるような冷たい表情で話した。
二人は同じく何かを決心したような雰囲気を醸しだしていた。
陸上競技場で、ライアンを含めた八人の選手が百メートルを走っている。ライアンの位置は真ん中辺りで、走りに勢いはなく、もはやオリンピックチャンピオンであるということは微塵も感じられない。
「ゴール! ライアン、五位! これで三連敗! 金メダル後、勝てません! そして相変わらず、見ているこちらが恥ずかしくなってしまうような奇妙な走り方でした」
ライアンはこれまで同様に派手に悔しがったりはせず、淡々と現実を受けとめているようだった。
練習場で、ライアンは依然としてあの変わった走り方でトレーニングをしている。
「ニック」
休憩状態になったライアンのもとにトレーシーが近寄ってきて、しゃべり始めた。
「お前の対する世間の評価はもう散々だ。それどころか、見向きもされなくなりつつある。だが、今さら走り方を戻せとは私は言わない」
情よりも理を重んじるトレーシーにしては意外な言葉だ。やけに落ち着いているし、自分を曲げないライアンに根負けしたように見えた。
しかし、続きがあった。
「ただ、その走り方を続けるのなら——」
トレーシーの目が鋭くなった。
「勝つことだ」
そう言って、ライアンに覚悟を問うように少し沈黙した。そしてまた話しだした。
「お前も当然わかっているだろうが、ジム・ワグナーが今絶好調で、先日には九秒五九の自己ベストもマークした。今度の大会での直接対決であいつを打ち負かせば、これまでの挽回になるはずだ」
トレーシーはさらに、まったく表情を変えることなくライアンに告げた。
「言ってなかったが、お前が金メダルと獲ってから、私にコーチをしてほしいというオファーがいくつも舞い込んでいる。もし次のレースも敗れるようなら、そのなかの一つを受けて、そちらに専念しようと思っている」
つまり最後通牒なわけだ。
「とにかく、結果を出すことだな」
その二人の様子を、離れた位置からマイクが見ていた。彼は心の中で語った。
ニック。お前は絶対にやってくれると俺は信じているぞ。でなければ、今まで失ってきたものがすべて無駄になってしまうんだからな。ワールドレコードをたたきだすんだという執念、必ず実らせてくれよ。
マイクは自らのこぶしをぐっと握った。
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