「ほらあれ、すぐ泣く子」

「さすがに泣きすぎじゃね? 萎えるわ〜」

「女優でも目指してるのかな」

「「「ちょっとおかしいよね、あの子」」」


 私がおかしいなんて、そんなの自分が一番分かってる! お願いだからこっちを見ないで、関わらないで。私だって泣きたくて泣いてるわけじゃない!



ピピピピッピピピピッ


 朝、甲高い目覚まし時計の音とともにぼんやりと天井を見上げる。眩しい光が差し込んでいる。今日は予報を裏切って晴天らしい。これなら本屋に行く予定を早めて朝一で出かけよう。急いで身を起こし、支度を始めた。



 そろそろ中間テストの時期、最初に首席を取ってしまうと順位が下がるのが怖くてしょうがない。そんな事を考えながら参考書の棚に向かっていると、やけに見覚えのある後ろ姿が目に入った。

 スラリとした背を覆う長い黒髪、深緑のロングスカート、立ち読み中の小説を開いたり閉じたりしながらちびちびと読み進めるという若干挙動不審な動き。あれは完全に飛鳥さんだ。学校の外で会うのは初めてだったので少したじろぐが、勇気を出して声をかけた。


「飛鳥さん」

「さ、境くん!」


 驚きの声を上げた後急いで目元を擦る姿が本当に可愛くて、思わず心が弾む。


「偶然だね。何買うの?」

「あ、私は……映画を見に来たんだけどまだ時間があったから」


 飛鳥さんは少し視線をそらしながら本を棚に戻した。


「もしかして『銀河鉄道の夜』?  俺も気になってたんだ」


 夏目漱石の有名な小説「銀河鉄道の夜」を元にしたアニメ映画。映像の幻想的な美しさとより深掘りされたストーリーが話題の作品だ。

 彼女は戸惑ったように頷くと、恥ずかしいから一人で観るつもりだと言った。

 飛鳥さんが特殊なのは否定しないけど、映画館ならどんだけ泣いてたって許されるはずだ。そんな理由で一人を選ぶ必要なんてないのに。


「一緒に行ってもいい?」


 悲しそうな表情が気になって思わず提案する。俺も彼女と一緒に映画を見ることができたら嬉しいし、きっと楽しい時間になるだろう。

 でも……飛鳥さんは乗り気ではない様子だ。どう断ろうかと視線をうろつかせている。その煮え切らない態度が何でか気に食わなくて、早く行こうと言いながら手を取って歩き出した。


 ずっと俺は君を助けてきたのに、何で今更嫌がるんだ。もう飛鳥さんが泣き虫なことも周りの目を気にしていることも知っている。頼られていると思っていたのに、全て独りよがりな行動だったと拒絶されたように感じた。



「境くん。本当に一緒に見るの? ちょっと離れたほうがいいと思うよ」

「見るよ。ほら、一番後ろの端なら教室みたいに隠してあげられる」

「……うん、ありがとう」


 ようやく納得してくれたようで安心する。やがて映画が始まり、評判通り幻想的で美しい不思議な世界観に一気に引き込まれた。

 飛鳥さんはというと主人公がいじめられる序盤のシーンから既に涙ぐんでいて、ずっとタオルを握りしめている。そして映画の終盤、主人公が親友に語りかける。


「ねぇ、いつまでも一緒にいようね」


 けれど返事はなく、振り返ると誰もいない座席が広がっていた。混乱の中気づくと最初の丘に佇んでいて、主人公は走り出す。親友の死、本当の幸い、家族、さまざまなことが一気に動き出す中、旅を経て自分の存在意義を見つけていた主人公は力強く踏み出す。悲しさと困惑と少しの温かさが混ざったような、そんなラストだった。


 ふ、と現実に戻る。周囲から聞こえるすすり泣く音がこの映画の素晴らしさを物語っていた。

 そうだ、飛鳥さんはどうだろう。相当泣いてるんじゃないか? 隣を見やると、完全に顔を覆い隠して号泣している飛鳥さんがいた。泣きすぎて苦しそうだ。上映中必死に我慢していた分が今、溢れ出したのだろう。


(こんなに泣いている人、初めてみた)


 しかしここは映画館。同じ列の人が通路に出たそうにしているし、いつまでも居座るわけにもいかず飛鳥さんの手を引いて連れ出した。映画の上映を待つ人たちが集まっているソファー地帯へ行き、そこで待つように言って飲み物を買いに行く。



 飛鳥さんの隣に腰掛けお茶を差し出すが、まだ引きつったような泣き声がする。しばらくここで待機かなと思いながら彼女の様子をうかがっていると、話し声が聞こえた。


「ねぇ、あの子めっちゃ泣いてる」

「今ホラーやってないよね?」


「さっき見かけたとき可愛いって思ったんだけどな。俺すぐ泣く女まじ無理だわ」

「めんどいよな。泣けば何でも許されると思ってそう」


 思ってもみなかった言葉たちに驚き固まってしまう。今すぐここを離れるべきか、いや、映画館から離れたらもっと不審な目で見られる。どうすればいい? 飛鳥さんにはこの声が届いているのか? だとしたらどう感じているんだろう?


「おねーたん、大丈夫? 何で泣いてるの?」


 親と見に来たのであろうまだあどけない子供。純粋な心配と好奇心が詰まったその言葉はきっと、飛鳥さんの心に深く突き刺さってしまった。


 飛鳥さんは俯いたまま立ち上がり駆け足で去っていく。髪で顔を隠して、タオルで必死に涙を拭いて。ただ見たい映画を見に来て、感動して涙を流しただけなのになぜこんなことになるのか。

 今になってやっと、飛鳥さんが泣き虫なことを隠す意味がわかった気がした。



 雨は予報よりずっと遅れて降りだした。車窓を滑り落ちる雨粒が街の光を歪ませている。ぼやける風景も指先も、全て雨のせいにしたかった。



 私は幼い頃から泣き虫で、しかし泣く以外の時はとても静かな子供だった。悲しいときも嬉しいときも、まるで感情を表現する方法が涙しかないかのように泣いていた。


 小学校高学年になると少しは泣くことを制御できるようになった。でも、それでも国語や道徳の時間になるとどうしても涙が止まらなかった。いくら拭っても溢れてくる涙に先生は困った顔をし、クラスの雰囲気も悪くなっていった。

 何度も言われた。目立ちたがり、ぶりっ子、泣き虫、変な子、ヒステリー女――そう言われるたび涙があふれそうになって、また嫌われて、その繰り返し。地獄だった。


 私だって泣きたくない。人に迷惑をかけたくないし、嫌われたくもない。

 そして何よりも、泣くと何も言えなくなってしまうから。女の子が泣けば何が理由でも相手が悪く見られるし、引き離されて会話もできない。泣きながら上手く話すことなんてできないし、言いたいことも伝わらない。自分の思いを伝えようとするたび感情が高ぶって涙が出るこの壊れた体が、ずっと嫌いだ。


 今だって、何人も乗っている電車内で涙が止まらない。自分でも自分が分からない。映画はとても感動した。泣いてしまうのもいつも通り。話題の映画を見ると決まって泣いてしまうけれどやっぱり大画面で見たくて、一人でこっそり映画館に行き終わった後はトイレにこもる。それが私のルーティーン。

 でも今回は境くんが一緒に見ようと誘ってくれて、とても嬉しかったし怖かった。私は可愛くないほど泣いてしまうから。


 映画デートに淡い憧れはあれど自分には無理な願いだとずっと思っていた。実際泣きすぎて気を使わせてしまったし、周りの目に彼は戸惑っている様子だった。これ以上境くんに恥をかかせたくなくて――いや、私が耐えきれなくて、飛び出してきてしまった。



 「銀河鉄道の夜」の主人公、ジョバンニは旅の中で本当の幸いを見つける。それは明言はされていないけれど、自己犠牲や誰かのために行動することだと思う。

 私はずっと、涙が出ないことが本当の幸いだと思ってきた。涙が出ることなく冷静に過ごせれば、きっともっと楽に生きられると。でも、それは私にとって本当の幸いなのだろうか。


 もしこの涙がなければ、私と境くんが親しくなることもなかったのではないだろうか。境くんが私を気にかけてくれるのも直ぐに泣いてしまうからこそ。涙がなかったら私たちがここまで深く関わることはなかった。

 そう考えると、もうどうしていいのかわからなくなってしまった。

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