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飛鳥さんと出会ったのは二ヶ月前、入学式のことだった。かなり頑張った結果特進科に首席で入学することになり、誇らしさと少しの気恥ずかしさに包まれて臨んだことを覚えている。
新入生代表としてありきたりな挨拶を読み上げていたとき、ふと前を見るとひときわ目を引く女の子が視界に入ってきた。圧倒的な美を前に緊張して慌てて原稿に視線を落とす。
それはちょうど、両親への感謝を述べたとき。それまで穏やかだった彼女の顔が、次第に伏せられていく。何度か目元を擦る仕草をしたと思ったらすぐに前髪で隠されてしまい、表情は完全に読めなくなった。
突然の変化に危うく言葉が詰まりそうになる。
(どうしたんだ? まさかつまらなすぎて寝た……?)
まるで感情が溢れ出してくるのを隠すかのように彼女は俯いたように見えた。だが、それはいいように考えすぎな気もした。
俺は不思議に思いながらも、なんとか挨拶を終えた。
入学式が終わりそれぞれのクラスへ移り、自分の席に座る。出席番号10番、境大和。窓側から2列目の最後尾というベストポジションだ。
特進科の首席ということで周囲の視線を感じながら少しカッコつけて窓の外を眺めていると、突然教室の空気が変わった。一瞬ざわめきが収まり1人分の足音が近づいてくる。
気になりつつも、振り返るのはカッコ悪いと思い飛行機雲を眺めていると、まだ持ち主が来ていなかった隣の席に人が座り視線が遮られた。しかたなく前を向こうと顔を動かしたとき、艶やかな黒髪にピントが合う。まさかと思い顔を見ると、壇上から見つけたあの綺麗な子がそこに居た。
彼女の佇まいはまるで凛とした美しさそのものだった。背中まで流れる黒髪は艶やかな輝きを放ち、その美しい髪がふと風に揺れたとき、教室の窓から差し込む陽光がほんのり反射しまるでライトで照らされているようだった。
表情にはほとんど感情が浮かばずクールな印象を漂わせる。その落ち着いた姿にどこか高嶺の花のような威厳すら感じた。
誰もが思わず振り返るような美しさ。それが、飛鳥さんだった。
飛鳥さんに俺と同じようなイメージを持った人は多く、彼女はいつも1人だった。隣同士だからとペアになることもあったが、最低限の受け答えに変わらない表情が人との関わりを拒んでいるように見えた。
そんな日々が続いた一週間後、国語の授業中。その日は「走れメロス」を一文づつ読み上げていくという内容だった。既に何周かして、ついに盛り上がるシーン、メロスとセリヌンティウスがお互いの罪を告白し許し合うところの担当が飛鳥さんに回ってきた。時計を見ると俺の番が回ってくる前に授業が終わりそうだ。
俺の分まで頑張れ、と彼女のほうを見たとき、キラキラと光る雫が落ちたように見えた。不思議に思い覗き込むと、なんと飛鳥さんは小さく震えながら顔を伏せ、涙を堪えていた。頬は赤く染まり、必死に唇を噛みしめている。その唇は微かに震え、彼女がどうにか感情を抑えようとしていることが伝わってきた。
涙が堪えきれずに、彼女の長い睫毛に滲み始めているのが見える。クールでどこか近寄りがたい印象の彼女がこんなにも無防備に泣いているなんて想像もしていなかった。
「え……」
まるで自分だけが知ってはいけない秘密を見てしまったような、そんな感覚に囚われていた。
思わず出た声に反応した飛鳥さんが振り向き、目が合う。彼女の瞳が零れ落ちそうなほど見開かれ、瞳の代わりに涙が零れ落ちる。怯えと、恐怖と、恥と後悔。色々な感情が詰まった涙だった。
そんな状態で声を出せるはずもなく、沈黙が続く。クラスメイトがチラチラと振り返りだした。幸い彼女の目元は前髪で隠れていて見えないが、泣いていることがバレるのも時間の問題。
俺は飛鳥さんの涙を見てしまったことへの驚きとこの追い詰められた状況に心臓が暴れ出し、完全にパニックになってしまった。
「せ、先生!」
なぜだかそんな単語が口から出る。飛鳥さんがぎゅっと目をつむるのが見えた。
「あ、あの……トイレ! トイレ行きます!」
制止の声も聞かず教室を飛び出す。何が正解なのか全く分からず混乱したままだったが、聞こえてきたチャイムの音にひとまず危機を乗り越えたことを教えられた。
その後飛鳥さんと相談して、彼女の〝秘密〟を守る手伝いをすることになった。話の中で、入学式の時も泣きそうになっていたと飛鳥さんは小さな声で打ち明けてくれた。
その一言で一週間ずっと引っかかっていた胸のつかえが消えた。けれど不思議なことに、代わりに胸の奥で何かがそっと動き出した気がした。彼女が見せた少し恥ずかしそうな横顔が、妙に頭から離れない。
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セリヌンティウスは言った。「私を殴れ! 私も疑った。おまえはきっと逃げたのだろうと思った。私もおまえを疑った!」
当たり前の感情だと思う。自分を担保に親友が自由の身になり帰ってこないという絶望的状況で、彼も心が揺れたのだろう。それでもなんとか信じようと気持ちを立て直し罪を告白するその姿は十分に尊いものだ。
私も境くんを疑った。いや、疑ったなんて生ぬるいものじゃない。彼はきっと私が泣き虫だってことをみんなに話して、嘲笑の的にするんだろうと勝手に決めつけた。
目が合ったときは胸がドクンと跳ねた。またやってしまった、恥ずかしい、どうしよう。
過去の嫌な記憶が蘇り、震えるばかりで何も言えない。彼の視線の先にいる私の無様な姿が今まさに言葉にされるんだと思うと頭が真っ白になって、必死で目をぎゅっと瞑るしかできなかった。せめて周りの視線が見えないように。彼の口から飛び出す冷たい言葉を聞かずに済むように。
でも境くんは裏切らなかった。私はセリヌンティウスではなく、友達でもないただのクラスメイト。彼には私の秘密が秘密であるという認識すらなかった。それでも私のために声を上げ、恥を忍んで一芝居打ってくれたのだ。
これが私と境くんが出会った時の話。皆にからかわれながら戻ってきた境くんと再び目が合ったとき、胸がドクンと跳ねた音がした。今度は、心地良い恥ずかしさを感じた気がした。
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