第5話

「紗季さん」



 声の主は丹色だった。腰まで届く白髪の、隙間から覗く藍玉の君。彼が雨の十朱家の庭に立っていたのだ。阿島傘を指して立つ姿が本物の白蛇のように思える。不気味なまでに美しい彼は、藍玉をまっすぐ紗季に向けた。

 紗季はあまりに美しいので妖狐がからかっているのかと一度思ったが、すぐに彼だと分かって顔に喜色を浮かべる。



「!丹色様」



 紗季は慌てて靴を履き替え、彼の元に駆けた。彼に経緯を伝えなければいけなかったのだ。義妹の怒りを買ってしまい、黒鬼の住む狭霧山へ向かわなければならないことを。もう二度と会うことができないことを。愛している、どうかアヤをよろしく、と。



「近寄るな、」



 距離にしてはあと数歩。丹色は髪を逆立てるほどの怒色を含んで叫んだ。普段の時

雨のような顔と一変して、真っ黒な顔でこちらを睨む。



「紗季さん。貴女がそんな人だとは思わなかった」

「…え」

「麻里香さんから全て聞きました。酷い青痣ができていたのはご存知か」

「そ、そんなわけありません。麻里香様は受け身をとっておりました」

「言い訳とは。見苦しい上限りない」



 何を言っているかうまく理解ができなくて、上辺だけの反論をした。それでも話がわからない。彼は一体何の話をしているのか、誰の話をしているのか。



「彼女の話から薄々勘付いておりましたが、紗季さん。貴女彼女のことを虐げているのでしょう」



 雨が、強くなった。慌てて出てきたので傘を持っていないので刺すような寒さが息巻いてこちらに迫ってくる。息が短くなって視界が白くなってきた。漸く理解したのだ。嵌められたことに。



「事実無根です。私は麻里香様にそんなこと…」

「本家の出ではないからという差別をしたことは?力の差に嫉妬して暴力を振るったことも?彼女が夜な夜な泣いていることも、私は知っている」



 白蛇は古来より神の使いとして崇められてきた妖だ。それと契約した丹色は謂わば神そのものであり、感情を昂らせると天が揺れる。雨雲がより一層厚くなって空を覆い隠した。傘の影が彼の顔に落ちて、何よりも恐ろしい。



「私は貴女のことを愛しておりました。紗季さんの直向きに真っ直ぐな姿に何度救われたか……しかし、いえ、だから。家族に暴力を振るう女性ということが耐えられない」



 丹色の家族は蜷局のように親族一同の繋がりが太く強固だった。それ故、家族に手を挙げるということが理解できないのだろう。

 紗季は息もできなくなって、細い声で「違うのです」と漏らすことができない。



「麻里香さんだけではございません。使いの人が何人も漏らしていました。『紗季様は当主様の実娘の麻里香様を憎んでいらっしゃる』と。現場を目撃した者もいたな。池泉に突き落とした瞬間や、罵る姿も」

「ご、誤解です。誓ってそんなことしておりません」

「前会った時貴女は言っていたでしょう。仏も神も信じず、現人神(わたし)のみを縁にすると。もしや、私に誓うのですか。なんの意味もないのに」



 もう修復のしようもない程信じられていないということが分かった。信じられていない、というより彼は裏切られた気持ちだったのだろう。


 丹色に会う時の紗季は常に笑って、春の昼みたいに優しかった。丹色のことを心から慕っており、手を重ねただけで顔を赤く染める姿は愛らしい。不遇な境遇だという同情も「大したことでは御座いません。丹色様、それよりも都のお話を聞かせてくださいまし」と跳ね返す強さは微かに憧れていた。……それも全て、実の妹に対する暴力の上に成り立っていたのに。



「今夜は婚姻の手続きをしに参りましたが、本日のことを伺って気が変わりました。貴女を野放しにすると、麻里香さんがどうなってしまうか」



 なぜか次に続く言葉がわかって、紗季は思わず遮りたくなる。しかし彼の冷たい瞳に射抜かれて指ひとつ動かすことができない。冷や汗が垂れて、雨と同化した。





「十朱紗季との婚姻関係を破棄し、十朱麻里香と婚姻関係を結無ことをここに宣する」





 白蛇がギロ、とこちらを覗いて。麻里香と同じ声で笑った。

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