第3話 小糠雨
居間にはには当主、嫁、娘、義娘の四人以外に各家族の使用人たちが集まった。使用人の数は地位によって決まるので、勿論紗季には一人しかついていない。
名前をアヤという、今年で古希を迎える老婆だった。彼女は母の召使でもあり紗季が幼い頃から面倒を見ている、紗季がこの家で唯一心を鵜許せる存在だった。アヤは紗季の顔を心配そうに伺いながら枯れ柳のように立っていた。
「話は聞いたぞ」
遅れてやってきた当主が席につく。紗季には目もやらずに髭を触りながら喉を鳴らした。この男は先代の影が垣間見える紗季を忌み嫌っており、常に機嫌が悪かった。紗季の父がいなければもっと若くして当主になれていたからだ。
当主は席に座って葉巻を吸った。黒煙が立ち、後ろに立っている細女の顔にかかった。彼女は咳き込むこともなくその運命を受け入れている。
「怒りを越えて呆れしか出んわ。そこまで私たちが憎いか」
長い沈黙の後、当主は地獄より深い声でそう呟いた。麻里香は少し退屈そうに、それでいて闇オークションを見守る富豪の目で怯える紗季を見つめる。
「違います!」
「誰が発言して良いと言った!口を慎め、売女の娘が」
当主は麻里香と同じ目でこちらを睨む。怒りと同時に妖力が漏れ出して契約した妖狐が姿を現した。
広々とした居間に紫煙と共に妖狐が浮かび上がった。リン、と鈴の音が鳴る。これは狐が威嚇をするときに鳴る、どこまでも透き通った地獄の音だった。
二尾(ふたつお)の白狐はグルリと紗季を見るや否や声をあげて笑い出す。
『ヤ。これは十朱の遺愛の子女。これまた命冥加な女なこと』
『カラカラ』
『ケラケラ』
『捨てよう、捨てよう。桶は桶屋、刀は鞘。鬼子は鬼山で良いでしょう』
狐が話すと尾が笑う。居間は下手を打って狐の機嫌を損ねるのを避けるため、誰一人として身動きを取らなかった。この一匹が場に出ただけで支配されてしまったようだ。一度でてしまった手前、当主は狐を戻すことはできないのでそのまま紗季を睨み続ける。紗季は久しぶりに見た妖狐の顕現に圧倒されて口を閉じることができなかった。
『ヤイ、柱石。聞いているのか』
『カラカラ』
「…どういう事だ」
『ケラケラ』
『その子は鬼子だ。忌々しい』
『カラカラ』
『我々の目の届かない山へ捨てて来い。狭霧山が良い。彼処の山には黒鬼がいる。ホラご覧、一尾(ひとお)も恐れているだろう。嗚呼なんて労しいこと』
妖狐は麻里香の方をグルリと見てまた笑った。彼女が契約している妖狐は一つの尾を持つので、彼女の妖狐が紗季のことを嫌っているということを言いたいのだろう。
紗季はこの家では珍しく、全く妖術の才がなかった。その上妖狐にも嫌われており、妖と契約するどころか巫女にもなれない。挙げ句の果てには嫉妬の対象だった先代当主の娘だ。蔑まれるのも無理はない。
十朱は人よりも妖狐の地位の方が高い。上座には常に当主ではなく初代当主が契約した九尾の石像が置いてあるし、常日頃から狐の機嫌を損ねないように十朱の人間は息を張り詰めている。
よって、二尾の白狐が言った言葉は今ここで勅令になった。
「分かった。お前の通りにしよう。籠を用意しろ」
当主の一言で使用人は一斉に立ち上がって慌ただしく居間を出ていく。…アヤを除いて。紗季はゆっくり時間をかけて、とんでもないことになってしまうことに気がついた。顔を忽ち青ざめて手の震えを震えている逆の手で押さえた。
「紗季様、」
「アヤ。大丈夫です。心配なさらないで」
「ですが」
「私は大丈夫。いつかこのような時が訪れることを覚悟していました。…荷造りを致しますので、手伝ってくださる」
外では雨が降っている。薄く霧がかかって、襖を開けると肌を指す寒さが襲ってきた。アヤは頷くのを随分渋ったが、紗季が「アヤ、貴方にしか頼めないのよ」ともう一度手を握って笑うと音を立てずに首を縦に振った。
小糠雨がどうも紗季の未来を祝福しているようで、少し駆けて部屋に戻ることにした。
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