第5話 冬

いつのまにか、季節は移り替わって、街路樹は葉を落とし街行く人たちはコートの 襟を立てて背中を丸めて歩いている。

街の中は、光り輝いて、人々は寒さに身を縮こまらせながらも、年の瀬の賑やかな街をたのしんでいるように見えた。


俺が週刊誌に載った騒ぎは、思わぬ余波を生んだ。

大学での騒ぎは一時の事で、週刊誌などは、もうすでにほかのスキャンダルを追いかけていたが、SUからは一度内定をもらっていたにもかかわらず、騒ぎのせいで内定を一度検討させてほしいと連絡が来た。

俺の中で何か怒りの様なあきらめの様な、暗い感情が渦巻いた。

誰を責めてもどうしようもないことはわかっていた。

行き場のない怒りと悔しさが、佳音への連絡を絶っていた理由の一つだった。

佳音に会えば、恨みつらみがとめどなく出てくるんじゃないかと、そんな自分が嫌だった。


ある日、大学で佳音を見かけた。

髪が少し伸びて、今までのボーイッシュな雰囲気ではなく、少し大人の女性の様な空気を纏わせていた。

俺は、息をのんだ。

彼女が俺に近づいてきて、にっこり笑って言った。

「迅、久しぶりね。」

きっとその時の俺は、何とも言えない顔をしていたと思う。

自分でも泣いてしまうんじゃないかと思った。

彼女の声が、優しく心に入ってきた。そして、俺の暗く渦巻いた心がほどけていくのが分かった。

「迅、一度話がしたいの。ずっと連絡していたけど、あなたはずっと私を避けていた。でも、あなたと話がしたい。

お願い、時間を作ってほしいの。」

「わかった。俺も佳音と話をしないといけないと思っていた。でも、連絡を取る勇気がなかったんだ。ごめん。

明日の夜、いつもの居酒屋でいいかな。」

俺はこの言葉を絞り出すのが精一杯だった。

「わかった。じゃ、明日のよるね。」

佳音はにっこり笑って去っていった。


彼女はとても強い人だ。俺にはかなわない。

その時に改めて思い知らされた。

そして彼女の人生の中にいるのは俺ではないと、実感した。


翌日はとても寒い日だった。天気予報は今年一番の寒さだといっていた。

空はどんよりと厚い雲に覆われていた。今にも降り出しそうな空模様だ。まるで、俺の心のように。

それでも街は年末の華やかなイルミネーションに彩られて、賑やかで楽しそうだった。


待ち合わせの居酒屋につくと佳音はまだ来ていなかった。

店内はそこそこ混んでいて、賑わっている。

俺は、カウンターに座り彼女を待つ。

いつも彼女と来ていたことを知っている大将が話かけてきた。

「久しぶりだな。彼女となんかあった?」

「え?…あ、いや。別に。」

「たまに来てたよ。彼女。いつも1人で、あんたの事待ってたんじゃない?

泣いてる日もあったよ。」

佳音が俺を待っていた…しかも、泣いてた。そうなんだ。

「若いうちはさ、色々あるよ。でもどんだけ凄い人間でも弱いところもあるし,その弱さを受け止めてくれる人が必要なんだよ。彼女さんの弱さを受け止める役はあんたなんじゃないのかな。」

大将からそんな話を聞いた俺は、佳音の辛い時に一緒にいてやれなかったことを、今更ながら悔やんだ。


「迅、おまたせ。」

佳音が店に入ってきて、横に座った。

大将はいつのまにか厨房の奥に入っていった。

「佳音、ごめん。俺…佳音の辛い時に、佳音を1人にしてしまった。」

「迅、いいの。私もずっと嘘をついていた。」

佳音の顔を見ると、なにかの覚悟を決めた表情をして、口を真一文字に結んでいる。

「私,ずっと前から橘教授に関係を迫られていたの。

橘教授の奥様と懇意なことは、以前言った通りよ。でも、奥様今、闘病中…意識不明でずっと眠っているのよ。ある事故で、頭を打ってそれ以来ずっと。もう、3年ほどになるわ。」

「え?そうなんだ…」

「橘教授、寂しいのよ。

奥様がそんな状態になって一年ぐらいした頃、教授が夜にピアノの前で泣いてらして。私、忘れ物をとりにきて見ちゃったの。お辛いんだなぁって、そっと慰めるつもりで背中を摩ってたら、急に抱きしめられて…」

「え?それは…」

「その夜はそれだけだったわ。」

その夜はって事は…

「でも、その後教授がどんどん憔悴していくのがわかって。元々、私自身も教授への憧れがあったこともあって関係を持ってしまったの。

でも、去年辺りから奥様の容体が少しずつ良くなってきていて、もしかしたら意識が戻るかもって。私、悩んだわ。

奥様に元に戻って欲しかった。元気な姿になってほしかった。

でも、戻れば教授は奥様のところに戻ってしまう…」

佳音は苦しそうに話している。

俺は覚悟していたとはいえ、衝撃的過ぎてどう反応したらいいのか、わからなかった。

「その頃にあなたに出会ったの。

迅の優しさや明るさが私には救いになった。あなたといる時間は、幸せだった。

だから、教授とは別れようと、元の教授と教え子に戻ろうとしたの。その方が教授のためでもあると思って。

ねえ。迅。

これだけは信じて、花火の日からは教授と関係を持ってなかったのよ。」

そうは言われても、その後も教授と一緒に公演とか行ってたわけで…にわかに信じられない自分がいた。

「佳音は教授の事、愛してたの?」

「…わからない。憐れみだったのかもしれない。でも、愛されてる実感はなかった。それでも、一緒にいなきゃって、勝手に思ってた。」

2人の間にしばらくの沈黙があった。

耐えきれなかった俺が、口を開いた。

「ウイーンで何があったの?」

「…迅、信じて。私はもう教授に何も感情は無いの。でも、ウイーン公演の最終日、教授から部屋に来るように言われたの。2人きりは嫌だと断ったわ。でも、マネージャーが一緒だからと…部屋に行ったら教授しかいなくて…」

そこで佳音は声を詰まらせてしまった。

そんな卑劣な…

「だから、空港にあなたに迎えに来て欲しかったの。CDデビューの話は帰りの飛行機で聞かされたわ。今回の公演が終わったらレコーディングして卒業のタイミングで出るって。私のいない所でどんどん話は進んでた。

まさか、到着したらあんなに記者がいるだなんて思いもよらなかった。」

あの、空港での騒ぎも何もかも、彼女は知らなかったのか。

すべてがプロモーションのためだったんだ。

それでも、俺は言わずにいられなかった。

「佳音、あの時の騒ぎで俺の内定が取り消されるかもしれないんだ。」

「…え?それは、ごめんなさい。本当にごめんなさい。あなたにそんな迷惑をかけてしまったなんて…」

「…佳音が謝る事じゃ無いよ。佳音が悪いんじゃ無い。」

俺はそう言うしかなかった。

いや、奏音に恨み言のように言うべきじゃなかったんだ、そう後悔した。

「佳音はこれからどうするの?CDデビューしたらもっと有名になって、忙しくなって…」

「私,ウィーンへ行くから。向こうでもう一度きちんと歌の勉強をしようと思うの。CDデビューはしない。」

佳音は、俺の目を真っすぐ見て言ってきた。

俺は、その目を見ることができず、目をそらしてしまった。

「ねぇ、迅。私、あなたを傷つけた。きっとあなたは私の事を軽蔑してるわよね。だから、私を避けていた。」

軽蔑?軽蔑しているんだろうか?いや、そうじゃない。

ただ、事実を知りたくなくて、事実を知って自分が傷つくのが怖くて彼女を避けていた。そんな度胸のない自分が情けないんだ。

「でも、信じてほしい。あなたを本当に好きになったの。私はあなたの事を愛していたわ。」

愛していた…彼女はそう言った。

俺のほうを真っすぐ見てそう言った。

そう言われて、俺は彼女の事を愛していたのかと改めて考えたが、そもそもこの前からずっと考えていて答えが出なかったことだ。

もちろん、佳音の事を大切だと、一緒にいたいと思った。

ずっと好きだった。

でも今はどうなんだろう。その疑問が俺の心の奥のほうに棘のように刺さっていた。

彼女の声が、なぜか遠くに聞こえていた。俺は彼女に何もこたえられずただ黙っていた。


「ねぇ、迅。待っててくれなんて、都合のいいことは言わないわ。私は私の人生を歩く。だから、あなたはあなたの人生を歩いて行って。」

佳音からそう言われた時、そうかこれで終わりなんだと思い知らされた。

「わかった。佳音。」

重たい口を開いた俺は、本当はわかったなんて言いたくないのに、という本当の自分の声に蓋をして、そう答えていた。

いや、それしか言葉にならなかった。

俺はどうしたかったのだろうか。嘘をついていた彼女を許せない気持ちもある。でも、彼女を失うのはとても辛い。


「ねぇ、迅。あなたの事、私はまだ好きだよ。傍にいてほしい。

でも、今の私なら、近くにいたらきっとあなたを傷つけてしまうわ。

もしも、もしも、あなたと私が今後人生の道でもう一度出会うことがあって、その時にお互い1人だったら、その時は共に歩めたらいいのにね。」

佳音はそう言って、悲しそうな寂しそうなそんな笑顔をした。

その顔は、今でも俺の脳裏に残っている。

その笑顔を残して、彼女は1人店を出た。


俺はしばらくして店を出た。

いつの間にか雪が降りだしていた。

街の明かりが、きらきらと輝いて、目に眩しい。

サンタクロースの恰好をした男が「メリークリスマス!」と叫んでいる。

そうか、今日はクリスマスイブだった。

俺は雪が降る空を見上げ涙が溢れた。

今日、大切な人を手放してしまった。ぽっかりと空いた心に冷たい雪が降り積もって行った。




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