第三話 鮮花
なんとか羽虫の追跡から逃げ切った少年は、手頃な茂みの中に飛び込んで身を震わせる。
──あれは、なんだったんだ。
腕から羽虫を産み出していた、白髪の少女ザクロ。
首を落とされていた、
自分に起きている現象さえ理解が追いつかない状況で、さらなる理解不能な事態が投下された。誰か懇切丁寧に説明してほしい。
しばらく、少年が目に涙を浮かべて茂みの中で項垂れていると、
「そこに誰かいますね。出てきなさい」
背後から、若い女の声。
しまった! 見つかったか。上手く隠れたつもりが、自分の肉体の縮尺を把握していなかった。頭の上に生える丸い獣の耳が、茂みからはみ出ていたか。
「時間の無駄だ。さっさと出てきなさい」
諭すような女の声音に、少年は観念して両手を挙げ、ゆっくりと立ち上がり振り返った。
「ほう、これは驚いた。その姿……教えとは異なる……」
そう口にしたのは年の頃は十三、四ほどの少女だった。
行灯の光を思わせる輝く金髪に、大人びた美しい顔立ち、瞠目して少年を上から下へと見回す瞳は川底のような深い青だった。
見目はまったく違うのに、どこか白髪の少女ザクロと似た、鋭い雰囲気を醸し出している。
「こんにちは。僕はカリンと言います。君は?」
カリンと名乗る少女は、二足で立った鼠を恐れるわけでなく、朗らかな微笑を浮かべた。
「あ、あ、こんにちは……オ、オレは……」
天女と見紛うカリンの風体に気圧され、少年は声を上擦らせる。
木漏れ日に照らされ仄かに輝く白い着物と相まり、おいそれと言葉を交わして良い存在に思えず、つい口が硬くなった。
しかし、少年は頬を叩いて自身に喝を入れる。相手は好意的に接してくれている、この姿を見ても怯えたりしていない。事情を察してくれるかもしれない。一縷の望みがあると踏み、少年は意を決した。
「あの、その、オレは名前が……思い出せなくて。家族の顔も忘れちゃってて……」
「ふむ。ここが何処かは?」
「すみません、それもわかりません……」
申し訳なさそうにする少年に、カリンは興味深そうに「なるほど」と頷いて見せる。
「恐らく
少年が先ほど川岸で耳にした単語が、カリンの口からいくつも飛び出した。
「あの、ラセツって? アザバナってなんでしょうか?」
「なるほど、それも忘れていると。鮮花というはですね、羅刹の──」
「見つけたぞ!」
カリンの言葉を遮って、横から怒号が飛んできた。少年は慌てて声がする方に首を向ければ、先ほどの鉈を持って少年を追っていた村民が、人手を七人に増やしてこちらへ荒々しく駆けてくるではないか。
「そいつに近づいては危険です! カリン様!」
「おのれ、化け物め!」
村人たちは、少年からカリンを庇うように二人の間に身を滑らせた。
「違うんです! 俺はこう見えても人間で!」
理解を求めようと少年が叫ぶも、
「ほれ! しゃべったッ、なんと面妖な!」
「ええい! 貴様、カリン様に何をするつもりだった!?」
ますます剣呑とした空気になり、若者どもが喧々轟々と怒鳴り散らす。これでは自分が何を言ったところで、舌先三寸で人を謀り、油断したところで喉笛を噛み切る化け物と思われて終いだ。
──もう逃げるしかない
鉈の刃先を威勢良く突き出してくる村人たちから一歩二歩と下がり、後ろへ勢いよく駆け出そうとする。しかし、村人に庇われているカリンの相貌を見て、少年は思わず動きを止めた。
「煩わしい……よくも僕の口を遮ったな。無知蒙昧な猿どもが」
天女のような微笑から一転、カリンの表情が憎悪に歪んだ。
青い瞳は眼前に立つ若者を侮蔑するように見据え、艶やかな美しい唇から禍々しい怨嗟が溢れ出した。
その言葉に驚愕し、若者達が振り向いた瞬間──。
ヒヒヒヒヒヒヒヒヒ
猿の引き笑い。少女の喉が脈動し、そんな異音がけたたましく鳴り響く。
羽虫を産んでいた白髪の少女と同じ現象。されどその音の響きはまるで違う。
まるで人の生命を、人の生涯を嘲笑うような呪言に、少年は感じた。
そんな悪寒で身を硬くしていた次の瞬間、村人達は一斉に膝から崩れ落ち、糸の切れた人形のように地面に沈んでしまった。
「な、な、え……」
どうしたことかと少年が目を瞬かせていると、カリンは表情を戻して朗らかに言う。
「これが
そう言って、倒れた村人達に「立ちなさい」と声をかけると、七人は黙って素早く立ち上がり、虚な瞳で呆然と佇む。
「ごく稀に、人間の喉奥に〈
言いながら、カリンが指でクイっとを地面を指し示すと、七人の若者達の内の二人が犬のように四つん這いになった。
そして、地面をそのまま四つ足で素早く駆けて、カリンの前で行儀良く肩を並べる。
「僕の鮮花の力は〈人間の使役〉です。まあ、猿回しみたいなものですね」
低く並んだ二人の背中に腰を下ろしながら、金髪の少女は得意げに言う。
たじろぐ少年に、また微笑を浮かべると、今度は余ったもう五人に「登れ」と一言。
すると、村人達はまさに猿のように近くの木に登り始める。右手左手、両足に腰のバネを巧みに使ってよじ登り、五人は太い枝に辿り着くと、『待て』をもらった犬のように鎮座する。
その様子が、目を逸らしたくなるほどに獣じみていて、ひどく惨めな有様だった。
少年は理解した。カリンの喉から鳴ったあの音、あれがなぜ恐ろしいと感じたか。
──この人の方が、オレなんかよりよほど化け物だ。
今はこの少女の微笑さえ、こちらを嘲笑っているように感じる。一つ喉を震わせるだけで、人間を犬のごとく歩かせ、猿のように木に登らせることができる。人が人をそんな風に隷属させる力。それは同じ人間が扱って良いものに思えない。
そんな内心を知ってか知らずか、少年の怯える顔を見て、少女は努めて穏やかな笑みを作った。
「種類は違えど、君もこれと似たようなことができるはず」
「お、俺が、こんなことを……?」
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