第二話 少女ザクロ
まずい、追加の追手か、と緊張に身を硬くし、少年は固唾を呑んで声がする方を凝視する。
その視線の先、およそ三〇歩離れたところに川を横たわる大岩がある。その平たい岩上に、打刀を腰に差した女が二人、何やら言い争いをしながら、大きな物を引き摺ってくる。
一人は年若い少女だ。首筋に掛かる透き通るような白髪と、死装束のような純白の着物。
目を奪われるほどの端正な相貌に鋭い真紅の双眸をおさめている。一目で気の強そうな性根をうかがわせた。
「
少女が忌々しげに聞くと、彩李と呼ばれた女は顎を撫で付けて微笑んだ。
「ザクロ様は一四歳。今年で一五の成人を迎えられますね」
応えた声音は嗄れていて、腰もひどく曲がっている。くたびれた
特に目を引くのは顎に刻まれた古い刀傷。その傷が老年のシワと相まって、黒ずんだ魚の骨のように見えてくる。
「だからこそ、成人を迎える前に、この彩李めをどうか安心させてくださいませ」
「うぜぇ! 首の一つや二つ、何度も落としてきたんだ。今更だろうが!」
「ならば、無駄口を叩かず、さっさとお見せください。これは〈
老婆が諭すように言うと、少女はこの世のすべてが忌々しいとばかりにため息を吐く。
「あーあーッ、心地良く昼寝してたってのによう! 〈
少女が灰神と呼んだその存在に、木陰から覗き見る少年は息を呑む。
「「ダッコ……シテヨ……」」
後ろ手に縛られ、力無く項垂れる二十代と思しき男性が一人。肌は生気の欠片も感じさせないほどに青白く、着物には点々と吹き付けるような赤黒いシミが散っていた。
「「ダッコ、シテ、ダッコ、シテ、ホシカッタダケ、ナノニ」」
うわ言のように呟く奇妙な怨嗟は、男と女が同時に発声しているような薄気味が悪い低声。
加えて、顔面の皮膚を突き破って色とりどりの花が群生しており、そこから甘い花の香りを放っていた。
そんな恐ろしく気味の悪い異形を前に、少女と老婆は平然と口論を繰り広げ続けている。
「
「ババアが野犬みてぇに睨むんじゃねえ! 愚痴の一つも受け流せないか!」
「往生際が悪いッ、さっさと花を摘みなさい! ほれ、せっかく弱らせていたのに!」
老婆が嘆くと同時だった。
周囲の木々が一人でに倒れ始めたのは。
──なッ。
隠れていた少年は腰を抜かす。木々がけたたましく音を立てはじめたと思った瞬間、半身を隠していた広葉樹が突如として両断され、ささくれ一つない見事な年輪を晒した。
まるで巨大な刃物が凄まじい速度で過ぎ去った。そんな有様だった。
少年が隠れていた樹木だけでなく、少女と老婆の背後の木々も次から次へと綺麗に両断されてゆく。
そんな暴力的な超常現象が巻き起こる中、少女はまるで恐れていないかのように、うんざりした顔を浮かべていた。
「ちッ、厄介な
大きく舌を打ち、少女は帯に差した打刀を鞘ごと抜き取った。すると、舞踊を舞うように鞘を大きく薙いで正面に掲げ、刀の柄をゆっくりと引いて抜刀した。
「
少女の口からつらつらと呪言が紡がれてゆく。抜いた刀身を陽光に照らしながら、ゆっくりとした所作で白刃を大上段に掲げはじめた。
「
少女が一通り唱え終わると、後ろに控えた老婆が満足げに首肯した。
「では、一思いに」
促されて、少女は裂帛の気合をもって異形の首に白刃を振り下ろす。
「ラァッ!」
鋭く風を切る音と共に、赤黒く濁った鮮血が散る。
ごろりと、花に彩られた生首が即座に地面に落下した。
「「ダッコ……ガ……スキデ……」」
落ちた首は掠れた声音で呟くと、枯れた
そこかしこに巻き起こっていた倒木の嵐もピタリと止んで、森林は元の静寂に包まれた様相へと戻ってゆく。
それを見届けるや否や、老婆が喜悦の声を上げて生首に飛びついた。
「オホウッウホホッ、まことに綺麗な断面でございます。この彩李めが死した際は、ザクロ様に首を落としてもらいましょうかね」
首の断面をねっとりと眺めながら肩を揺らして笑う老婆に、少女はうんざり
「勘弁しろ。気が滅入る仕事を押し付けるな」
「いやぁ安心しましたぞ。母君、
どうやらこの上ない賛辞らしく、老婆は誇らしいとばかりに少女の頭を撫で付ける。
少女はその腕を煩わしそうに払って、ため息と共にぽつりと漏らした。
「なあ、ババァ。楽しいか? こんなイカれた村にいて、楽しいことあったか?」
聞かれると、老婆は少し考えるように顎に触れ、次には腕に抱えた生首に視線を落とした。
「楽しい楽しくないではありませんよ。花を持って生まれた者の宿命です」
「つまらん答えだ」
「つまらないなどと言われましても……あっ」
突如として
「楽しいことと言えば、村の者らが騒いでおりました。なんでも化け物が現れたと」
その言葉に、覗き見ていた少年は身体をビクリと跳ねさせ、両断された切り株よりも低く身を屈めて、二人の言動に警戒する。
自分のことだ。緊張の糸が再び張り詰め、心臓の拍動が内側から鼓膜を叩き始めた。
「化け物? 灰神じゃなくてか?」
「どうやら違うようで」
二人の会話に注意を向けながら少年は悩みに悩む。勇気を出して名乗り出るか、気が付かれていない今の内に逃げ出すか。ここが唯一、自分の現状を打破する好機かもしれない。
しかし、少女と老婆は帯刀している。今しがた異形の者の首を落としたのを見たばかりだ。ただでさえ追われる身の上だ。更に状況を悪くしかねない。
木陰で少年が逡巡をめぐらす最中、老婆が呆れたように肩を竦める。
「まあ、ただの早とちりでしょう。聞くと、人の言葉を喋る大きな鼠が現れたとか」
喋る大きな鼠。
そう老婆が口にした途端、少女は自身の白髪を掻き上げて双眸を爛々と輝かせた。
「おもしろそうだッ」
明るい声音を上げると。
少女はおもむろに右手の皮膚を白刃で切り裂いた。
突然の少女の奇行に、潜む少年は思わず半身を起こして瞠目する。
少女は着物を汚すのも構わずに、だらだらと紅が伝い落ちる腕を掲げ、慈しむように呟いた。
「開け、
カチカチカチカチ
人の骨をかち合わせたような乾いた異音が断続的に鳴り響き、少女の喉が波打った。
すると、掲げた傷口から
血に濡れた赤黒い三匹の羽虫が、肉と皮膚を突き破って我先にと少女の腕から這い出てくる。
「喋る大きな鼠がいるらしい、手分けして探すぞ」
少女に告げられると、羽虫は身を一つ震わせて羽根を広げ、一目散に飛翔して辺りに散る。
その光景に少年が絶句していると、一匹の羽虫の軌道が、
「まずいッ」
少年の潜む地点と重なった。獰猛な羽音を立てて、少年目掛けて飛んでくる。
咄嗟に身を起こし、少年は素早く駆け出した。川を背にして森林の奥へ奥へと逃走する。
最早、それは本能だった。
スズメバチに追いかけられるならば、逃げる以外の選択肢がない。
「秘するも花、おもしろきも花だ。喋る鼠……友達になれたら、おもしろき花だ」
少女が溢した声に、少年は気がつくことはなかった。
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