花の羅刹〜記憶喪失だけど異能力(謎)があるので、想い人と一緒にカルト村から脱走します〜
再図参夏
第一幕 暮梨村
壱ノ花 ー羅刹の世界ー
第一話 獣になった少年
春は過ぎ去り、初夏の陽光が肌を焼く。
その日差しから逃れるように、木陰で身を潜める男が一人。
少年が足元に視線を落とすと、レンゲショウマの花が申し訳なさそうに
この花は夏に差し掛かってくると、群を成して木陰に咲くものだが「生まれてきてごめんなさい」とでも言うように、花弁を下に向けて開くのだ。
そんな有様を見て、自分もそんな風に頭を下げて生きていくことになるかもしれないと、少年は心に深く影を落とした。
ときは
ところは大和大陸が東北の地、
豊かな森林に囲まれた村外れの川岸。
穏やかな水のせせらぎと共に、優しく鳥がぴちゅんぴちゅんと囀っている。
昼寝でもしたくなるような陽気だが、少年にとってそれどころではない。
「どうしよう……」
この目は随分と周囲を見通し、この耳はひどく川のせせらぎを拾う。
鼻の両脇から伸びる長い
少年は自身の肉体を見下ろした。
全身は隙間なく灰色の体毛が生え揃っており、手足の形も人間ではあり得ないほど歪だ。
体格も丸く、背骨も老人のように曲がっている。極め付けは尻から生える長い尻尾だ。こんなものが生えているならば、認めるしかない。
──
水面に映る自身の姿を確認して驚愕する。なぜ自分がこのような獣の姿に。何が起こっている。途方に暮れ、絶望に伏し、困惑に身を浸していると、
「どこ行った!?」
背後から怒声が響く。
しまった、追ってきたのか。捕まればどんな目に合うかわからない。
少年は恐怖して、急ぎ近くの茂みに身を潜めた。
「ほんとうに見たのか? 喋る鼠なんて」
「見た! 信じられねえかもしれねえが、俺とさほど背丈の変わらない大きな鼠が喋ったのだ。ありゃ何か化け物の
鈍い光を放つ鉈を持った二人の若者が、物々しくが近くを駆け抜けた。
少年は茂みの中で息を潜め、それをやり過ごすと、安堵の息を吐いて全身を弛緩させる。
同時に、自身の先行きを案じてひどく気落ちした。
「ああ……ほんとにどうすればいいんだ……」
起きたらこうなっていた。起きたら既に、獣の姿に成り果てていた。そんなことを一体誰が信じてくれるだろう。
少年は体毛で満たされた相貌を腕で覆って地面に崩れる。身を寄せる場所や頼れる人物に心当たりがあれば、わずかに救いがあった。心に一粒の希望を持てただろう。
しかし、さらに困ったことに──記憶がない。
自身の名前、家族の顔、友人の有無。そのすべてがごっそり抜け落ちている。
目覚めた場所も身に覚えのない狭い住居だった。寝具や
──ない、ない、ない。
人間ではない。記憶もない。寄る辺もない。自分の持ち物さえない。
唯一、頭の片隅に残されているものといえば、自分は比較的に年若い男であることだった。
何故かはわからないし、ひどく曖昧ではあるが、まだ結婚も煙草も許されぬ年齢であるという肌感だけが身に刻まれている。
その霞のような手がかりを得て、自身の記憶をどうにか探るも、頭を巡らせれば巡らせるほどに途方に暮れ、いっそ腹が煮える思いだった。
これはたまらん、と寝ていた住居から外へ赴き、顔でも洗うかと水場を探して彷徨っていたところ、幸か不幸か、第一村人を発見した。
思わず縋るように話しかけると、少年の顔を見た村人は途端に相貌を恐怖に歪ませ、
『化け物ぉおおッ』などと喚き散らし、一目散に逃げてしまった。
二足で歩く大きな鼠が人間のように喋りかけてきたのだ。無理もないのはわかっているが、少年の心を存分に抉る出来事だった。
そして、悲しみに暮れながら川岸を探り当て、水面に自身の姿を写していると、ぎらりと光る鉈や鎌を片手に、村人数人に追いかけられる始末。
「ハハ……」
少年は茂みから這い出て、川岸まで呆然と歩を進める。
水面に移る自身の相貌を再び見つめ、たまらず天を仰ぐ。
「ほんとうに、ひどい有り様だ」
自身のフカフカな顔を触り、フツフツと肩を揺らす。
いっそ笑えてくる、と水面に
人であるなら何処ぞの村で暮らしていける。記憶は無くとも仕事はできる。人並みの生活を送り、人並みの幸福を享受できる。
しかし、人の形を成さない喋る獣はどうなるか。殺されて終いか、見せ物小屋にでも幽閉され、惨めな生涯を過ごすことになるか。
痛ましい自分の行末を存分に巡らせていると。
「だぁッ、煩わしい!」
荒々しい怒号と足音が、川の向こう岸から鳴り響く。
少年は瞬時に、近くに生えた針葉樹の木陰に飛び込んだ。
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