第四二話 這いつくばる二人②

「わかりました。もう好きにしなさい」


 しとりと、ミカンが溢したのは三日後のことだった。

 時刻はよいの五つ(二〇時)。ところはザクロの住居。

 川魚と山菜が浸る水炊き鍋を囲み、四人で夕餉を共にしていた。 


「鮮花の本能に逆らい続けるなんて、正気じゃないよ。ほんと、馬鹿みたい」


 そんな事を言って、ミカンが箸を口に運んで頬を膨らませる。


「ほんとうにごめんなさい……」


 箸を動かす手を止めて、ネズミが申し訳なさそうに耳を垂れて謝罪をすれど、目も合わせてくれなくなってしまった。


 あれから、ネズミとザクロは懲りずに暮梨村の外へと走り続けていた。本日一〇度目になる脱走の失敗と相成り、いつものように森で這いつくばっているところを、いつものようにリンゴとミカンに保護してもらったところだ。


 流石に回数が多すぎた。脱走に失敗して、激しい抑鬱状態に襲われて寝込んでいると、献身的に世話してくれたのは常にミカンだ。

 食事を口に運んでくれたのもミカン。漏らした下を片付けてくれたのもミカン。

 落ち込みすぎないように座学を兼ねた世間話をしてくれたのもミカン。

 そんなことが一〇度目にもなると、流石に気の長いミカンといえど、限界だったのかもしれない。


「ネズミ、頼む」


 ミカンの心情を察したのか、ザクロが焦りの色を濃くしてネズミに目配せする。ネズミはそれに素早く反応して、ミカンの正面に移動した。


「ミカンさん、いつもありがとうございます。俺、ミカンさんに本当に感謝しています」


 ネズミは深々と頭を下げ、ちらりと伺うように上目遣いをした。

 ミカンはなんだかんだで甘い。特にネズミに強く当たれないのをネズミもザクロもよく知っている。今まで自身の容姿を卑下していたネズミだが、ここしばらく自分の丸い顔から放つ可愛げを有効利用するようになり、ミカンと揉めたときは持ち前の愛嬌で乗り切ってきた。


 のだが──。


「好きにしなさいって言ったでしょ? もう、介護してあげないんだから」


 どこまでも冷たい眼が降り注いだ。


「ネズミ、終わったな私たち。お前の愛嬌も通じなくなった。なす術がない」


 悲嘆に暮れたザクロが、隣に座るリンゴの袖を縋るように掴んだ。


「唯一の世話焼きに見捨てられちまった。もうリンゴ姉に頼る他ない。頼む、私たちがまた動けなくなったら、食事と下の世話をしてくれ」


 その身勝手な懇願に、リンゴは呑気に煮汁を啜っていた唇を盛大に綻ばせる。


「ええで。二人とも厠に寝かしといたらええんやろ?」


「終わったわ。松竹梅で言うなら梅の下の下の対応だ。生活水準が地の底だ」


「うん……」


 ネズミとザクロが青ざめていると、再びミカンに問われる。


「それでも、やめない?」


「やめない」

「やめません」


 二人して即座に答えると、ミカンは肩を落とし、リンゴはコロコロ笑う。


「よっほど、走るのが楽しいんやね」  


「はい」


 ネズミは思わず口を綻ばせる。そうだ、楽しいのだ。絶望の淵から何度も浮き上がっていると、次第に多幸感がネズミの心を占めるようになった。

 床に伏せる日々から回復すると、食事が、睡眠が、何気ない姉妹との会話が楽しくてしょうがなくなった。

 鮮花が与える絶望から健全な精神に浮上する感覚は、何気ない日常を愛するきっかけをネズミに与えてくれた。


 何より、ザクロと共に逃走に没頭している瞬間がたまらなく幸せだ。木漏れ日が差す森の中を駆け抜けていると、周りの景色が煌びやかに色づき、頬を撫でる緑風が爽やかな開放感を与えてくれる。

 そしていよいよ、鮮花が鬱々とした気分を脳に送り届けて、ネズミの足を止まようと反抗をする頃だ。

 膝を折りそうになったそのとき、前を走るザクロの背中が、風に靡く白い髪が、ネズミの心に活力を送り続ける。


『止まるな』『前だけ見ろ』『私は止まらない』


 そんな声なき声で、ネズミの心に火を灯し続けるのだ。

 絶望と渇望、解放と羨望、あらゆる感情が頭の中で闘争を行う。

 それは苦しいものではなく、確かに生きているという実感が胸を打ち、ネズミをまた逃走と闘争へ駆り立てる。

 最終的には絶望に負けてその場に倒れる羽目にはなるのだが、それはそれ。川底から浮上する快楽を知っていれば、耐えられるというものだ。

 自分自身の生に没頭し、熱狂できる。それが堪らなく楽しい。


「あかん、ネズミはんがまたラリってもうた」


 ネズミが天井を振り仰いで笑い出すと、リンゴは箸を止めて心配そうな顔をする。


「最近コイツいつもこんな感じだよな。なんかを思い出しては笑ってる。おかわりくれ」


「独特だよね、ネズミちゃんって。はい」


 呆れていた態度は何処へやら、ザクロが茶碗を差し出すと、ミカンが快く白米をよそう。

 喧嘩するときは吹き荒ぶ嵐のように争う姉妹であるが、仲直りするときは瞬きをする間も無く一瞬で済んでしまう。これもまた『羅刹らしい』と言うことなのだろう。

 そうして、皆で雑談に花を咲かせていると、


「次逃げるなら、雨の日にしなさい」


 突然、ミカンがそんな事を言う。


「母上は耳が良いから。もし追われても、雨音が煩いし、足跡も水で流れる」


 箸を動かす音に消えそうな低声だったが、ザクロがそれを聞き逃さなかった。


「どうした急に? なんでそんな……」


 問いかけると、代わりにミカンは真剣な視線を送ってよこす。それに応えるように、ザクロは茶碗を置いて顎に手を当てた。


「雨か。確かに母上はこの村から全部のセミを追い出すくらい、煩いのは苦手だが……」


 思案するザクロを流し目で確認すると、次にはリンゴが口を開く。


「次の雨は成人式やな」


「成人式……三日後だな」


 姉妹の間で突然と張り詰めた空気にネズミは閉口していたが、言葉の間隙のを塗ってわずかに抱いた疑問を恐る恐る掲げる。


「なんで雨が降るってわかるんです?」


 聞くと、ザクロが腕を組んで応える。


「リンゴ姉はツバメを産み出せるからか、空の機嫌がわかるらしい。それに姉妹の中でも特に羅生界の動きに敏感なんだ」


 羅生界──ネズミも一度だけ紅子から与えられた鮮花を食したときに見た光景だ。

 輝く糸が織りなす、鮮花の見ている世界をネズミは思い出す。生きている物すべてが刺繍で出来た糸の塊に見える、生きた心地のしない世界だった。


「羅生界って、雨が降るとかもわかるんですか?」


「せやね。はっきり見えてはいないんやけど、なんとなく雨が降るとか、風が強くなるとかはわかってまうな」


「おお、すごいなぁ」


 ネズミが呑気に感心していると、ザクロが小首を傾げてミカンに向き直った。


「どうして急に助言をくれた? 見込みがないって言ってたじゃねえか」


 聞かれて、ミカンは少し考え込んでからバツが悪そうに自身の髪に触れた。


「私たちの名前、いつか母上に食べられるために、果実の名前つけられたんだって、昔からなんとなく察しててね。母上が食べてくれるなら、嬉しいかもって。母上と一つになれるなら、羅刹として本望なのかもなって思う自分もいたんだ」


「……ほう」


「でも、ネズミちゃんと初めて会ってから、なんか胸がモヤモヤしはじめた。生きたいって気持ちが強くなってさ、なんか落ち着かなくなった。今まで、自分で何一つ決めてこなかったなって。母上の言う通りにするだけで、何も自分からしてないって……思っちゃって……」


 辿々しいながらも、一生懸命に言葉を紡ぐミカンにザクロは優しく笑いかけた。


「そんなこと考えてたんだな。ミカン姉は心の底ではまだ私たちを説得しようとしてるんじゃないかって思ってたよ」


「それらしい理由をつけて色々言ったけど、結局、私は二人に嫉妬してたのかもね。自分の意思で母上の元から離れようとしてる二人の強さに」


 ミカンの告白に、ネズミは目頭に込み上げるものがあった。そんな葛藤を抱えながらも甲斐甲斐しく世話をしてくれたのかと思うと、感謝で頭が下がる思いだった。

 そんな熱視線を送っていると、ミカンが照れくさそうに手元の茶碗を見つめる。


「だからまあ、お姉ちゃんとしての矜持ってやつかな。嫉妬しているだけじゃ情けないからね。少しだけ後押ししようかなって、まあ、そんな気まぐれが起きただけよ」


 誤魔化すように白米を掻き込むミカンに、ザクロが嬉々として絡みつく。


「なぁなぁ、ミカン姉もリンゴ姉も私たちと一緒に逃げようぜ」


 誘うザクロに、ネズミも大いに首肯すると、ミカンは眉を寄せて激しく首を横に振った。


「それはごめん、逃げるなら別行動の方が良い」


「わお……バッサリ……」


「散り散りに逃げた方が成功率は上がるよ。人数が増えれば増えるほど追われる危険が増える。四人で行動すればそれだけ目立つからね」


 ザクロとネズミが容赦なく袖にされるのを見て、リンゴが含んで笑った。


「まあ、二人ではじめたことやんか。二人で仲良く逃げたらええよ」


「じゃあ、リンゴさんとミカンさんはどうするんですか? そっちも二人で逃げるんです?」


「さあ? どうやろうね。あんたらの旗色を見て決めよかな」


 リンゴがなんとも読めない顔をネズミに向けて言った、そのとき。

 玄関の板戸を何者かが叩いた。


「……誰だ?」


 ザクロは部屋の隅に置かれた打刀を提げ、玄関の戸まで進む。

 そしてゆっくり戸に隙間を作ると、


「おや、皆様お揃いで。仲がよろしくて結構」


 伊紙彩李いかみいろりが朗らかに笑んで、提灯片手に土間に上がり込んできた。

 招き入れたザクロは、彩李の肩に乗った桜の花弁を払ってやりながら訝しげな顔をする。


「どうした? こんな時間に訪ねて来るなんて」


「はい、ザクロ様とネズミ様にお伝えしたい事がありまして」


 うッとネズミは呻いた。こういう前置きのある言い方は、嫌なことの前触れだ。


「紅子様のご要望でして。成人式にネズミ様に刀持ちを、ザクロ様に灯籠持ちをお願いしたいのです」


 ザクロは一つ舌を打って、うんざりしたように天井を振り仰いだ。


「釘を刺してきやがったか」

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