第四三話 予行
そのため、祝福を込めて村の者総出で生活必需品を作って若者に分け与えてやるという。
食料、衣服、履物、家具、そして新たな家屋までも新しく建築してしまう。
すべてを与えられた若者たちは、九月に行われる〈成人式〉で一斉に恩返しを行うのだ。
具体的には、千人にも及ぶ村人全員に料理を作って振る舞う。
ある者は朝から晩まで握り飯を握り続け、ある者は鍋料理を一日中配膳する。
しかもそれが三日間続くというのだから、大変な重労働だ。
そんな成人式の最終日には、香梨紅子が若者一人一人を祝福するために村を訪れるので、一旦手を止めて出迎えの準備に取り掛かる。
香梨紅子の歩く道を花弁で飾り。
香梨紅子に失礼がないように村人全員が参列しているか確認にし。
香梨紅子の歩く道に塵一つないように目を凝らして掃き掃除。
息つく暇なく働き詰めだそうだ。
仔細を聞いたネズミは、若者に少し罪悪感が芽生えた。家屋まで貰うのだから、それ相応の労働かもしれないが、これから行うネズミたちの仕事と比べれば、随分と自分は楽をさせてもらっている気がしてならなかったからだ。
「そうです。そのようにして、紅子様と共に村を練り歩くだけでございます」
ところは
成人式初日、日も登り切らない早朝から、ザクロとネズミは彩李の指示の元、二日後に控えた成人式最終日に向けて練習を行なっていた。
ネズミは一本の太刀を両手で持って前に掲げ、ザクロは竿に吊るされた手持ち灯籠を前に掲げる。そして、ゆっくりと目の前を進む彩李の背後に付いて歩く。
それだけの練習、それだけのお役目。二日前に指導を受ければ誰にでもできてしまう簡単な仕事だ。
今現在、村の中で若者たちが駆けずり回っている最中、ネズミは一歩、二歩とゆっくり歩く練習をするだけ。本当にこれだけでいいのかと首を傾げたくなる。
「あの、本当に歩くだけですか……?」
「はい、それだけでございます。当日は後ろでリンゴ様を筆頭に、姉妹が
彩李は手に持っていた見事な枝振りの桜の小枝を二本、ザクロとネズミにそれぞれ口に咥えさせた。
「ミカン様にこしらえて頂いた桜でございます。見事なものでしょう?」
「はってほひ、ひひほひ?」
「はんて?」
口が塞がったまま無理やり喋ったザクロに、ネズミは尋ね返した。それに彩李は苦く笑って桜の小枝を取り上げる。
「本番は当然ながら、前を歩くのは紅子様ですので、そちらも礼を欠くような真似はおやめください」
「はい……」「へーい」
「成人式中は
「へーい」
「本番では一言も発さず、桜を落とさぬようにお願いします。あなた方は黙ってさえいれば神秘的な見目をしております。故に、その威厳を崩さぬようお勤めください」
「はい」「へい」
神の歩くその両脇に、花を咥えた白い髪の少女と二足で歩くネズミが従えば、さぞ幻想的な光景であろうと、彩李は満足気に笑う。
その様子に二人は複雑な心境を巡らせる。成人式当日は、何処かに隠れ潜んで雨が降るのを待ち、機会を見てまた脱走を敢行しようと画策していたところであった。それなのに、その逃げたい理由を作った張本人の傍に侍らなければならないとくる。
一度は成人式への出席そのものを無視しようかと思案した。しかし、ここでサボりを決め込めば無理矢理にでも出席させようと、カリンやモモまで脱走を阻もうと動き出してしまう。最悪な場合、彩李さえも敵に回しかねない悪手中の悪手だ。
ネズミは肩を落としてザクロに視線をやると、ザクロは手で壁を作った。
「リンゴ姉が言うには、雨が降るのは成人式の後だ。お役目が終わったらすぐに走ろう」
その提案にネズミは小さく頷くが、胃が焼けるように痛んでくる。二日後、どんな顔をして香梨紅子と対面すれば良いのか。
『母上は忙しい、汚らしい獣に構ってやる暇などない』
と、カリンに突っぱねられてから、はや一ヶ月。
すっかり意気消沈し、なあなあで今日まで過ごしてしまった上、咎められないのを良いことに、こっそり脱走未遂を繰り返す日々。
致し方ないとはいえ、無礼、非礼、失礼の三本柱を抱えて、薄氷の上で震えているのがネズミの現状だ。
「はぁぁぁ、気が重い」
「ネズミ、刀が下がっていますよ」
突如、肩を落として腕が下がったネズミの背に、柔らかく手が添えられた。
「──ッ‼︎」
三人の身体が大いに跳ねる。ネズミは瞠目し、恐る恐る背後を振り向いた。
「べ、紅子様」
香梨紅子その姿が、優然とその場に佇んでいた。
慌てて平伏しようと膝を曲げたネズミに、紅子の手が瞬時にそれを制止させた。
「平伏は結構、そのまま歩いてくださいね」
風に靡く目元の白布を指で抑え、口元に薄く微笑みを讃えながら、ネズミの腕を掴んで歩かせる。
「良い日和ですね、ネズミ。朝焼けの美しいこと」
「は、はは、はい」
しとしとと、ゆっくり三人は石畳を歩く。
背後で見守る神に、背筋を正されながら、ゆっくりと。
──まずい。
ネズミの頭は鮮花との闘争に追いやられた。さきほど腕を掴まれたそれだけで、ネズミの心に静謐な温もりが手を伸ばしていた。自身の鮮花が安堵している。愛されていると。
花か己か。惑う正気を手繰り寄せ、ネズミは奥歯で頬の肉を噛んで自身に痛みを与える。
そうしていないと、鮮花に負けてしまうからだ。少女と共に駆けた日々が、忘我の果てに追いやられてしまうからだ。
「──母上」
沈痛に顔を歪めるネズミを横目で捉え、ザクロは香梨紅子に鋭い視線を向けた。
「ご丁寧に気配まで潜めてお散歩でしょうか?」
「フフフ、そうですね。それもありますが、あなたの顔も見にきたのですよ?」
紅子の変わらぬ微笑みに、ザクロは眉尻を吊り上げる。
「あらあら、光栄の限りですね。〝こいつ〟のときと良い、私のために随分とご足労おかけしてますねぇ」
言ってザクロは、母に義手を掲げて見せる。
「外界の音はあなたにとって毒でしょう? 今年はどんな風の吹き回しですか?」
「娘のために尽力するのは母の喜びですから。労をかけているなどと思っていませんよ?」
「あーらら、おかーちゃんに愛されちゃってまぁ。嬉しいなぁ、あなたの娘でよかったなぁ」
ザクロの憎しみを込めた皮肉に、紅子はただ微笑みを浮かべるだけだった。
「ネズミ、随分とザクロと仲良くしてくれているみたいですね」
急に矛先を向けられたネズミは「ふぁいッ!」と返答。驚いて刀を取り落としそうになる。
「あなたの影響で、ザクロも随分と元気な様子で」
「ああ……その、紅子様、遅くなりましたが先日は失礼しました……」
「五戒の執行のことですね? いいのですよ。〝次に〟上手くやれば、良いのですから」
ああ、やはりだ。やはりこれほどの存在だ。神と羅刹に二言はない。一度舌から零れれば、呑み込む事はないのだろう。自分は見逃されてはいない。野放しにされてもいない。
〝次〟があるのを待ったれていただけだ。それが来た時はいよいよ、お役目から逃げることは許されない。
ネズミが身を強張らせて生唾を呑み込むと、紅子の手がその背を撫でつける。
「最近は、ザクロと共に走っているそうですね」
「えッ、ぁぁぁ、そのぉお、お、お気に障ったでしょうォオカ……?」
「子は野を駆け、遊ぶもの。気に障ることなどありはしませんとも。ですが」
言葉を切って、ネズミの大きな耳に唇がそっと寄せられた。
「二日後、あなた達も十五の成人を迎えます。それでもウロチョロと落ち着きがないようでしたら、窘める──必要が出てきますねぇ」
ムカデが背中を這うような怖気が、ネズミとザクロを襲う。
まるで二人が逃げられないことを確信しているような言い様。
しとりと告げられた、二人の運命の刻限。
「そうならないように、残された時間で存分にお遊びなさい」
それを最後に、香梨紅子はネズミの背から手を離して社の方向へと歩き去った。
しばらく神の背中を見送った後、ネズミは全身を弛緩させてその場に座り込む。
「どどどど、どうしよう! 俺ら今年で十五!?」
「今十四だからな……暮梨村では成人式の日に一斉に十五歳になる」
「どうしよ!?」
「どうも何も、やることは決まってるだろ」
あわあわ狼狽えるネズミに、ザクロは肩をすくめた。
「刀持って歩くだけだろ?」
ちらりと傍に控える彩李を見て、ザクロは一応の体裁を繕う。この老婆の前で堂々と脱走の打ち合わせなどをすれば、また永延と小言を貰うだけだろうと。
「お二人とも、よもや紅子様の機嫌を損ねるようなことはしておりませんな?」
「さあ? 母上がどんなことで機嫌を損ねるかなんて、推し量れるものじゃないだろ?」
ザクロの言葉に嘘はない。故に、戒めには触れていない。
だが、老婆の沈黙がやけに肌に痛い。
「彩李……さん?」
ただならぬ空気の重さに、ネズミは生唾を飲み込む。
彩李の相貌が徐々に陰り、ねっとりとした憎悪の色を帯びはじめた。
否、殺意と言っても過言ではない。
鋭い視線に縫い止められて、ザクロの顔に鬱々とした悲壮が宿る。
「彩李、お前は母上の近くにいると必ずそうなっちまうな。やっぱり熱心な信者なんだよなお前も。その目をするお前は、私は嫌いだ」
「……申し訳ございません。あなた方のように、鮮花の本能に抗おうとした試しがないもので。非礼をお詫びいたします」
深々の彩李は頭を垂れて、ザクロとネズミに陳謝する。その腰を曲げた肉体からは今もなお、人を射殺すような殺気を放っていた。
ネズミは息を呑む。あの神に付き従っていれば誰でもこうなるのだ。あの神から離れなければ、自分もいずれ、神の正しさに逆らえなくなる。
重苦しい沈黙の末、朝焼けが次第に白く裾野を広げ、三人の影を細く伸ばしはじめた。
それを合図に、誰からともなく足が帰路に向き、その日は解散と相なった。
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