第四一話 這いつくばる二人①
「ネズミ、生きてるか……?」
「ぁぁぁぁぁ。ぃきてぁ」
ネズミが口を開くと、弱々しい掠れ声を絞り出した。
その声は可愛らしい鳥のさえずりと木々のざわめきにかき消され、ザクロの耳には一切届かなかった。
「なんて……?」
「ぅぅぅぅぅぁ。ぉれはぁぁぁ」
「これは……復帰までに時間かかるな……」
香梨大社から三里ほど南に進んだ
時刻は正午を回る頃、都合八度目になる暮梨村からの脱走は失敗に終わり、激しい抑鬱症状で身動きが取れなくなってしまっていた。
──ああ、何度味わってもしんどい。
『今度は二人で逃げよう』
約一月前、ザクロに言われた当初は、随分とネズミは浮かれたものだった。
透き通るような白い髪の美少女に手を引かれると、途端に心が浮つき、自分の歩む先には明るい未来が待っているのだと、なんの根拠もなく確信できた。
神に逆らった自責は何処へやら、むしろ背徳感も相まって興奮を覚えるほどだった。
しかし、世の中そう上手くはいかないものだ。仲良く暮梨村からの脱走を試みてみれば、三里先から前へ進めないのだ。
香梨紅子の社から遠のけば遠のくほどに不安が心を支配し、足取りは次第に重くなり、呼吸も浅く短くなった。
視界がボヤけて瞼を開き続けることをやめたくなり、『帰りたい』と心の中で一瞬でも唱えれば、膝から崩れ落ちてその場で蹲ってしまう。
ネズミは鮮花の異常性を身を持って痛感した。神の身元から離れたくないあまり、宿主に苦しみを与え続ける悪辣極まる怪物だ。
「ネズミ……自分を強く持て……鮮花に負けるな……」
白昼の木漏れ日を浴びながら、微睡むザクロがそんなことを言う。ベッタリとした粘度の高い絶望に襲われ、頭を押さえて蹲るネズミとは違って、心地よく日光浴を楽しんでいるように見える。
自分とは対照的に随分と余裕を見せるザクロに、非難がましい視線をネズミが送ると、少女の桜色の唇が笑みに綻ぶ。
「言っただろ? 私は何度もこれを味わってる。何度も脱走を失敗してるって……だから」
慣れの問題、そうザクロは言う。
確かに、ネズミを襲う鮮花からの精神攻撃は少しずつ緩和されているようで、最初に逃げ出した日などは一週間ほど鬱々しい気分が収まらなかったが、現在は多くの失敗を経たおかげか、一日と待たずして普段通り過ごせるようになっていた。
ポツリポツリと二人で話していると、徐々に気分が上向き、手だけはどうにか動くようになってくる。
いつまでも同じ場所で寝転がったままではしょうがないと、ザクロとネズミは這って自宅へ向かうのだ。動かない身体に鞭打って、なんとか両手の力だけで進んでゆく。この情けない帰宅の道程は、もはや恒例行事となっていた。
そしてしばらく這っていると、決まって彼女たちが見つけてくれる。
「ミカーン、阿呆どもがおったで」
「もぉうッ、あんだけやめろって言っておいたのに!」
長女リンゴと次女ミカンが足早に駆け寄ってくる。
この脱走劇を始めてからというものの、二人には随分と世話になっている。二人が
「いつも……すみません……」
「あんたらほんまに懲りんねぇ」
リンゴは苦く笑ってネズミの両足を脇に抱えて地面に引きずり、ミカンは眉根を寄せながらザクロを乱暴に肩に担ぎ上げて帰路につく。
そうして、決まってミカンとザクロの激しい口論が幕を開ける。
「だから、待ってって言ってるでしょ!」
「鉄は熱いうちに打てって言葉、知らねえのかよ!」
「無計画すぎるって言ってんの! ただ二人で馬鹿みたいに走って逃げるだけって、そんなの通用すると思う? してないでしょう!」
「だーかーらーちょっとづつ進んでるっつうの! 先月は一里、今月は三里まで進んでる! お姉ちゃんならこの成長を褒めて伸ばせよ!」
「無謀を褒める姉はここにはいません!」
「何回おんなじ喧嘩すれば気が済むんだよ! どんだけ説教くれようがやめねえかんな!」
「あーあ! 身動き取れなくなったあんた達を迎えに来てるのは誰ですか? 食事の世話は誰が見てますか? もう見捨てようかなぁッ!」
「見捨てるな! どんだけテメエの意に沿わなくても妹だけは見捨てるんじゃねえ! お姉ちゃんだろうがよぉッ。優しく介護しろバカがよ! 血は繋がってなくてもなぁ、姉妹の絆は本物だろうが!」
「ああッ! また話題逸らしてェ! あんたと話してると頭おかしくなる!」
白熱した舌戦は次第に本題から逸れはじめ、家族とはなんぞや、姉妹とはどうあるべきかという話にもつれ込む。次第に話を
「心配してるこっちが馬鹿みたいッ 無駄だってなんでわかんないの!?」
ミカンが吐き捨てるように放った言の葉が、ネズミの胸を刻んで通り過ぎる。
確かにネズミも自問を回すことがある。今やっていることは実を結ぶだろうか。無駄な足掻きではないだろうか。いずれ大きな皺寄せとなって取り返しのつかないことになるんじゃなかろうか。
今更かもしれない。しかし、今からでも香梨紅子に付き従う方がいいのかもしれない。付き従っていれば、まだ自分の鮮花を食ってもらえるかも──。
そう考えた途端、ネズミは頬の肉を噛んで自身に痛みを与える。
花か己か。惨めに神の足元に擦り寄ろうとする思考は、自分ではない鮮花の思考だ。
──神の近くにいて良いわけがない。きっといつか、壊れてしまう。
外の世界で病に苦しんで死ぬかもしれない、飢餓に苦しんで死ぬかもしれない。
だが、ここに居続ければそれらを待たずして自分の鮮花に殺される。今まさに香梨紅子の花に食ってもらおうと、ネズミの思考に割り込んで、都合よく宿主を操ろうとした。
──寄生虫なんぞに負けてやるか。
ネズミが両手を顔に叩きつけて喝を入れていると、わずかに振り向いてその様子を見ていたリンゴの口から笑みが漏れる。
「ミカン、その辺でええやろ? どんだけ言うてもやめへんのやから、怒鳴り散らしても意味ないで」
リンゴの諭すような声音に、ミカンは柳眉を吊り上げて歯噛みした。
その音にネズミがたじろぐと、腹に煮える怒りを抑え込んでくれたのか、ミカンは眉根を指で揉みながら大きなため息を吐く。
「見込みがあるなら、私もここまで言わないよ。ネズミちゃんの近くにいれば、確かに母上の鮮花の支配力が少し弱まる。ザクロに言われたときは確かに納得したし、私も身に覚えがあったけど──」
言うと、ミカンは引きずられるネズミに首を向ける。
「何度も見たでしょ? 母上が強く命令すれば、私たちは母上のための都合の良い傀儡になる。母上に本気で『ザクロとネズミちゃんの脱走を止めろ』って言われたら、私たちはあなたたちを力づくで止める羽目になる……それが嫌なの」
悲痛に滲んだ言葉を受けて、ザクロとネズミは流石に閉口した。
ミカンの言うことは正しい。二人のしていることは脆い地盤の上で行なっている不確かな実験に過ぎない。衝動に任せた無謀な試みだ。
それは承知の上で繰り返してきた脱走未遂であったが、ミカンの憂慮が肥大する一途であるならば、少々やり方を改める必要がある。
そこまで考えて、ネズミが口を開きかけると。
「それはないんちゃう?」
リンゴがあっけなく言う。
「もうとっくに二人の脱走未遂はバレとる。バレとる上で母上から咎められないちゅうことは『逃げれるもんなら逃げてみい』ってことやろ」
「リンゴ姉……今、ちょっと説得できる雰囲気だったのに」
「ええやんか。好きにさしたらええんちゃう? やれるだけやらしてみ。ほら」
言うと、リンゴが朗らかに笑って顎でネズミを指し示す。
「ネズミはんの顔、明るくなった思わん?」
姉妹がネズミの顔を注視すると、ネズミは照れ臭そうに鼻を掻いた。
「エへへ。おかげさまで、なんか最近すこぶる元気な気がしてます」
「いや……目が死んでるのよ。毛並みも萎れてるし」
ミカンに呆れるように言われ、ネズミはリンゴから放られた手鏡で仰向けになった自身の顔を写し出す。
確かに言うとおりだ。脱走を失敗した日は眼球が充血し光がない。いつものふわりとした毛並みも荒地に咲く花のように萎れ、健やかさをまるで感じない。
一通り自身の写みを確認して、ネズミは死んだ眼のまま口角を上げて微笑んだ。
「いやこれはほら、今日も脱走に失敗したんで、ちょっと死にたくなってるだけです」
「あはははははは!」
ネズミが言うと、リンゴが地面に手をついて膝を叩く。
この長女は結構良い性格をしている。共に過ごす時間が増えていくにつれ、悪い類の冗談をネズミに振るようになった。
「ねえ……ネズミちゃんをオモチャにして遊ばないでくれる?」
「あはははは。すまんすまん。ネズミはん打てば響いてくれるもんやから、つい、ぷははは」
ひとしきり笑うと、リンゴは眼を拭ってネズミの両足を担ぎ直した。
「やけど、活き活きし始めたのはほんまやで? ザクロと一緒に脱走しはじめてから、なんや身体が大き見えるわ」
「だろ? おどおどしてたのが堂々としはじめたよ」
ザクロが誇らしげに賛同すると、ネズミも自身を振り返る。
言われてみれば、
「紅子様に背を向けて脱走未遂を繰り返してますから。なんか色々細かいことは気にしてられないというか」
「良いことだよな? 細かいことを些事とするのは。羅刹らしくなったよ」
誇らしいとばかりにザクロが言って、ネズミに慈愛を帯びた眼を向ける。
ザクロが語るに──羅刹らしいとは、その刹那に生きることだ。
楽しければ大いに笑い、腹が立ったら誰よりも激昂する。
未来を案じず、過去を振り返らず、素直な心根で自分自身の心に忠実に生きる。
それが〝羅刹らしい〟生き方であると言う。
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