第四十話 香梨大社にて

 そこはおしなべて室温の低い、仄暗い場所だった。

 文机に置かれた蝋燭の火が揺らめいて、女の影をそよがせている。女の周囲にはいくつもの書物が四方の棚に並び立ち、色とりどり冊子を纏って主人の目を楽しませていた。


 香梨大社こうなしたいしゃ──その書庫の間。香梨紅子はとある桐箱を文机に乗せた。


「さてさて、検めさせてもらいましょうかね」


 楽しみとばかりに紅子が桐箱の蓋をそっと開けると、そこには尻尾が収まっていた。

 ネズミが香梨大社に初めて連れてこられたとき、紅子に粗相をして手刀で切り飛ばされたネズミの尻尾。それを密かに紅子は手元に保管してあったのだ。


「おもしろき花でありますように」


 祈るように呟いて、紅子は尻尾の断面に指を侵入させる。


「ああ、やはり……」


 ゆっくりと尻尾から指を引くと、一枚の布の切れ端が尻尾の肉から引き摺り出される。

 大人の手の平よりやや大きい、その切れ端を紅子は指で摘んで広げた。


「身八つ口、女物ですね」


 女の着物の着付けというのは男と違い、胸高に帯をするため腕の動きを阻害してしまう。故に脇の部分(袖付けと脇縫い)の間に身八つ口と呼ばれる穴を用意しておくことで上腕部を自由に動かせるように工夫されている。


「何処へ行ったのかと思いましたが、まあ……こんなところに隠れていましたか。何処までも身勝手な女なのでしょうか」


 ネズミの尻尾の中に女の着物の切れ端。その異様な現象に、紅子は驚くでも疑問を抱くでもなく、むしろ嘲笑するように肩を揺らす。


 ひとしきりわらって、着物の切れ端を尻尾と共に桐箱に放って閉じると、紅子の視界の端で外気に煽られた蝋燭の火がゆらりと首を傾げていた。どうやら思索はここで中断しなければならないようだ。


「カリン、何用ですか?」


 背後に視線を移すと、開いた戸の傍で五女カリンが平伏していた。


「すみません。お邪魔でしたか?」


「良いのですよ。母に遠慮するものではありません」


 赦しを得て、カリンはそそくさと香梨紅子の前へ進み出た。


「ザクロとネズミが逃げました」


 その報告に、紅子は「ほう」と相槌を打って頬に手を当てる。


「これで何度目でしょうか?」


「七月に三度、今月で五度の脱走未遂です」


「元気があって結構ですね。フフフ、バレていないとでも思っているのでしょうかね」


 口元に緩やかに笑みを作り、紅子は怒りを露わにする様子もない。

 その様子に、カリンは怪訝に眉を顰めた。


「母上、良いのでしょうか?」


「何がです?」


「ネズミをお咎めにはならないのでしょうか? 奴は母上に逆らい、五戒の執行を放棄したというのに。それに脱走の件も、あなたはお咎めになっていない」


 ネズミが五戒の執行から逃げ出してから、一ヶ月が経とうとしている。

 逃げ出した時点で、ネズミに何かしらの制裁が加えられる。

 そう、カリンはほくそ笑んでいたものだが──。


「このまま好き勝手させるのでは、あなたの沽券に関わる。奴に何かしらの罰則を」


 その言葉に、紅子は文机に肘をついて「ああ」と得心する。


「良いのですよ。問題はありませんよ。外を駆けるのは元気な証です」


 言いながら、紅子はカリンの頭に手を伸ばす。金の髪に桜の花びらが一枚、それを手に取ってフッと吹くと、花びらはバチバチと火花を散らして燃え尽きた。


「刑の執行も滞りなく行えましたし、何も問題にはなってはいません。何よりネズミ自身が五戒を破っていないのですから。何も咎めることなどありません。私の知る範囲ではね」


「しかし──」


 喉まで出かかった言葉を、カリンは押し留めた。自分が母にここまで意見したのは、生まれて初めてかもしれない。今まで母の返答に二言を返したことなど、なかったというのに。

 そんなカリンの思考を読み取ったのか、香梨紅子はまた緩やかに笑った。


「よいよい。あなたもネズミの花に影響されていますね。随分と母に言葉を尽くせるようになりました。さあ、おいでなさい」


 戸惑うカリンは突如として抱き寄せられ、頬に柔らかな双丘が押し当てられた。

 耳に聞こえる母の鼓動がカリンの意識を曖昧にする。母から香り立つ艶やかな花の香りが、下腹部に緩やかに降りて、カリンの肉体を熱く火照らせた。


「まことによき子。心配して母に言葉をくれるのですね。大変、嬉しく思いますよ」


「母上……愛しております……あなたのためなら、僕はなんでも……」


 より密着して、カリンは母の肩に手を回す。

 母が、絶対的な神が、変わらず自分を愛してくれている。

 付き従い、良い子にしていれば、この愛を変わらず注ぎ続けてくれる。

 母の愛に浸り続けて溺死できるなら、それで本望、それが本懐だ。


 そしていつか、いつの日にか。

 自分の花が母の喉を通り、一つの花となることを──。


 母の温もりに包まれながら、カリンは都合の良い夢を見る。

 自分にとっての、母にとっての都合の良い夢を。


 だがしかし。


 ──ああ……あれはなんだ。なぜあいつが脳裏に過ぎる。 


 そんなカリンの悦楽に割って入る汚らしい獣がいる。

 今しがた母の口からも『ネズミの花に影響されている』と衝いて出た。

 香梨紅子の支配下にいる自分が、他の鮮花の影響を貰うとはどういうことか。

 その答えにカリンは即座に思い至った。


「母上、奴の花はあなたの──」


 その言葉は、母のすらりと伸びる美しい指に遮られた。

 カリンの唇に人差し指を押し当てて、紅子は怪しい微笑を浮かべる。


「大輪の花ほど、芽吹きが遅い」

 

      ✿

 

 紅子が思い馳せるは三ヶ月前、六月の涼しい夜のこと。

 カリンとモモが五戒に触れた信者を連れて大社本殿に訪れた。

 それだけなら何も珍しくはない。淡々とこなすだけのいつもの些事であったのだが──。


「母上、今回は母と子と、男一人。合計三人の執行になります」


 先んじて入室したカリンからの報告に、紅子は小首を傾けた。


「母と子? 珍しいですね」


「はい。母の罪を、子が黙認しておりましたので」


 紅子が香梨を継ぎ、羅神としての治世で初めてのことだった。すべての罰則をその身に受ける不閑却戒ふかんきゃくかいを犯した信者が出てくるのは。


「仔細は?」


「母親は妻帯者との子供を孕んでいたようです。母親と関係を持っていた男は我々が到着する頃には無断で割腹を行おうとしていたので、僕の能力で取り押さえております」


「そちらは珍しくもありませんね」


「はい。問題は……黙秘していた子供の方です。母の背信を誰に告げ口することもなく、半年にも渡って普段通りに過ごしていたようなのです」


 すべての信者は神である香梨紅子への絶対的な畏敬と忠信がある。

 例え、実の母が罪を犯そうとも、子が罪を犯そうとも、神が定めた戒めに触れた者は身内であれ問答無用で神の前に突き出されてきた。


 罪を犯した理性なき獣(罪人)が、怯えて名乗り出ないのならまだしも、理性ある目撃者が一ヶ月以上黙秘を続けていた事例は存在しない。

 母親と男は不邪婬戒ふじゃいんかい、後ほど神前で割腹させるとして。


「子供の方に、まずは話を聞きましょうか」


 紅子が言うと、即座にカリンは一人の少年を、社の中へと招き入れた。


「…………」


 入室した少年の見目は見るに堪えない、ひどい有様だった。

 顔は腫れ上がり血に濡れて、破れた服から赤黒い痣が点々と散りばめられていた。

 むせ返るほどの汗と血の香りを充満させ、落涙と鼻血で床を汚し、弱々しい足取りで神の元に歩んでくる。


「これは、どういうことでしょうか?」


 紅子の咎める声音に、カリンの肩が跳ね上がる。


「さ、先に少年を捕らえていた信者達が暴行を加えたようです。信者から不閑却戒ふかんきゃくかいを犯した者が現れた事実に、激昂してしまったようなのです。今も神に謝罪したいと、社の前に詰めかけております」


 その返答に、紅子は辟易するように小さく首を振った。


「少年と二人で話します。誰もここへ入れぬように配慮を」


「かしこまりました」 


 足早に退室するカリンとすれ違い、少年は崩れるように膝を折って香梨紅子の前で平伏した。


「紅子様……申し訳……ございません」


 それは紅子の予想とは反していた。半年に渡って神に不敬を働いた者だ。さぞ豪胆で不遜な態度で挑んでくると思いきや、震える声を必死に絞り出す、風前の灯火の謝罪。

 しこたま殴られて心を折ったのか、それとも相応の事情があったのか。 


不閑却戒ふかんきゃくかいに触れるとわかっていて、あなたは沈黙を貫いてきた」


「申し開きもございません。母の腹が膨れてきた頃合い、いよいよまずいと思ってはいたのですが……」


「母を差し出さなかった」


「はい……なんか、気が進まなくて……」


 気が進まない。そんな言葉を信者の口から聞いたのも初めてだった。

 そんな消極的な理由で自身の身を危険に晒し続ける者がいるだろうか。

 そんな曖昧な理由で五戒の罰則に抗える者がいるはずはない。


「得心行きません。あなたは不閑却戒ふかんきゃくかいの罰則の重さを自覚していなかったのでしょうか? あなたはこれから──」


「目玉を失い、舌を割られ、腹を裂き、血を抜かれる。つまりは……死にます」


 正しく、把握しているようだ。紅子は驚愕と共に少年に問う。


「知っていてなぜ? あなたをこのような目に合わせるとわかっていてなお、あなたの母は妻帯者と関係をもった。そんな残酷な母親を庇う必要が?」


 問われて、少年は力なく笑う。

 されど紅子の前で上げた少年の相貌は、花が芽吹くように色づいていた。


「それは──」

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