第三九話 解放

「どうしても抜きたいなら、私の指を斬り飛ばして抜け」


 決意を込めた瞳に射抜かれて、ネズミの力はさらに萎んでゆく。

 今なら自分が刀を引けば、間違いなく奪い取れる。だが──。

 言われたように、ザクロの残った生身の指を斬り落としてしまう。

 そんなことは。


「できるわけがない」


 傷は回復する。落ちた指も、神の恩恵があるから再生するかもしれない。


 だが、ダメだ。


 ザクロの美しい指を。

 唯一残った生身の手を。

 握り飯を握ってくれた優しい手を。

 傷つけられるわけがない。


「私の指を落とす覚悟がないなら、まだ死ぬべきじゃない。死んだ後のことに心を配れるなら、どんなに生き恥に濡れようが死ぬんじゃねえ」


「────」


「他者を傷つけることを恐れるなら、誰に恥じることなく生きていろ。絶望から這い上がった奴だけが、傷ついた者を癒す花になる」


 心が折れる音を、ネズミは聞いた。

 この少女は自分より遥かに長く、自分自身と向き合ってきたのだ。

 花と、神と、惑う己の心と戦い、涙を降り積もらせてきたのだ。

 自分の刹那の衝動で、この降り積もって出来た大きな山を動かせるわけがなかった。


「ごめんなさい……」


 ザクロから身を引き剥がし、ネズミは弛緩して水面に尻餅をついた。

 ネズミが立てた水飛沫が大きな波紋を拡げ、清流と合わさって消えてゆく。

 それを呆然と見つめて、ネズミは溢すように言う。


「指、本当にごめんなさい」


「ネズミ……」


「地獄から逃げたかったんです。情けなく、惨めに。俺は俺から逃げたかったんです。弱い自分のまま、明日を迎えるのが……もう嫌だった……」


「わかるよ。私も自分の弱さが嫌で嫌でしょうがないよ」


「ごめんなさい……」


 そんな力のない謝罪を聞いて、ザクロは上体を起こし、火花を散らして傷を回復させる。

 一つ溜息を吐くと、濡れた髪を掻き上げて立ち上がり、俯くネズミの側に腰をかけた。


「ネズミ、私の話聞けるか?」


「はい……」


「あのな、私たちの喉奥に生える鮮花あざばなはな、強い花に迎合する寄生虫みたいなもんなんだ」


「寄生虫……」


「前に似たようなことを話したよな?」


「似たようなこと……」


 聞いてるやら聞いてないやら。茫然自失で復唱した単語は、か細く川の流れる音に掻き消えた。

 だが、ザクロは今はそれでいいと、ネズミの背中に手を当てた。


「知ってるか? 魚の体内に入って脳みそを乗っ取る寄生虫を。コオロギの体の中に入って、水場まで歩かせて溺死させる寄生虫なんてものもいる」


「そう……なんだ……」


「鮮花もそんな寄生虫と同じ特性を持ってるんだ。自分より強い花があれば、そちらに付き従うように仕向ける。本能的に付き従うように立ち振る舞うんだ。私たちの思考を奪って、そうするのが正解だって思い込ませてくる」


 背中を撫で続けて言葉をかけ続けると、ネズミの肩が震えて嗚咽が漏れる。

 それに構わず、ザクロは続けた。


「リンゴ姉だって、ミカン姉だって、私だってそうだ。香梨紅子に逆らおうとしても、鮮花が私たちの脳みそを誘導するんだ。命じられる前なら逃げることは出来る。でも命じられてから逆らうことなんて一度として出来なかった。でもお前は──」


 逆らった。少女の口から出たその言葉に、反射的にネズミの身が震える。


「逆らって……もう……お終いだ……」


「終いじゃねえよ。母上の命令を無視して、信者の目玉をほじくらなかった。それがどれだけ凄いことかわかるか? 自力でこの世の理をねじ伏せたんだぞ? 鮮花の支配に負けなかったんだよ、お前さんは」


 力説するザクロの眼をわずかに見て、ネズミはまた俯いた。

 少女の言っているのことが頭の中で溶かせない。羅刹になったばかりの自分にとってその価値を腑に落とすことなどできはしないと。


「わかんない、です。何が凄いのか……。今はただ、逆らった自分が情けなくて……」


「その感情は、本当にお前が芯から考えてることか? その後悔と自責は、本当にお前自身のものか? お前は人間の目玉をほじくりたい奴なのか?」


 問われてネズミは反射的に顔を上げた。

 やりたくない。やりたくないから逃げてきた。とネズミは頭を振って否定を示す。


「お前の鮮花が都合の良いようにお前を動かそうとしてる。『なんで香梨紅子に逆らった』『何で強い花に従わなかった』て、鮮花がお前を責めてるんだ。次はお前を思い通りにするように、必死にお前を絶望させてるんだよ」


 言葉が胸に刺さったのか、涙で瞼を腫らしたネズミの相貌にわずかな光が差し込んだ。


「絶望、したくないのに……してます。死んじゃいたいくらいに。いっそ、紅子様に首を断ってほしいと……」


「負けんなネズミ! 自分の花をねじ伏せろ! どっちが飼い主か教えてやれ!」


 急に大声を出したザクロに、ネズミは身体を撥ねさせる。


「うあぅ……どうすれば……」


「楽しいこと考えろ! お前は何が好きなんだ? お前は何がしたい奴なんだ? 目玉をほじくりたい奴なのか?」


「違い……ます……」


「あ? 聞こえねえぞ! 人間の目玉ほじりたいかって聞いてんだ!」


 撫でられていた背中をバシバシと叩かれ、ネズミはヤケクソ気味に声を張り上げた。


「違います!」


「よォオオし! いいぞぉ、その調子だァ!」


 ザクロは、まるで犬を褒めるようにネズミの頭を乱暴に撫で回す。

 そして、また背中を強く叩いてネズミを発奮させた。


「じゃあ、何がしたい? 何が欲しいやつなんだお前は?」


「俺は……俺は……」


 ネズミは逡巡した。自分は一体何を望むのか。何を欲してやまないのか。


「人並みの、幸せを……」


 口に出してみれば、曖昧な感触だった。

 ネズミ自身も満足できない答えに、ザクロが満足できるわけもなく──。


「何だ、人並みの幸せって! 具体的に思い描け!」


「なんか仕事して、うまい飯食って、充実した日々を……」


 やはり弱い。自分で口にすればするほど、内心の動機の弱さに、ネズミは声の調子を落としてゆく。

 顔を伏せそうになったネズミを見て、横に座っていたザクロはネズミの真っ正面に移動した。


「じゃあ、どんな自分になりたい? お前はどんな日常が欲しい? どんな明日が欲しい?」


 ザクロの鋭く輝く真紅の眼が、誤魔化すことを許さず。

 穏やかな口調が、ネズミの混濁していた思考を急速に回した。


「俺、俺は……」


 何を望んだか。何を求めたか。

 記憶をなくして目覚めてから、自分は一体何を願ったのか。

 自分に問い続けていると、頭の中で声がした。


『泣き虫小僧』


 その音の感触が、手触りが、ネズミの胸に波紋を拡げる。 

 霧がかかるような判然としない記憶だ。誰に言われたかも思い出せない。

 されど、輝かしい響きだ。自分にとって大事な、懐かしく、悔しい響き。

 そして、花が芽吹くような瞳で少年は言う。


「自分を誇れる、明日が欲しい」


 惨めな思いをしたくない。

 他者の罵倒を、評価を、値踏みする視線を、跳ね除けられる男になりたい。

 囚われたくない。縛られたくない。

 神の所作を伺わず、正しさに囚われず、誰の前でも背筋を張れる日々を送りたい。

 そんな思いが、言葉を吟味するより先に発露した。

 はっきりと、芯のある声で。


「奇遇だな。そんな明日を、私も欲しくて欲しくてたまらないんだ」


 ザクロは破顔して応えると、その場で大の字で寝転んだ。

 大きな水飛沫を上げて、水面に顔を浮かべて安堵の息を吐く。

 少年の心を救い取れた。その手応えに、思わず口元が綻んでいた。


「もう、死にたくないよな?」


 問われて、ネズミは小さく首肯した。


「はい……ご迷惑おかけしました」


「敬語、禁止な」


「……うん」


「声ちっちぇー」


「わ、わかったよ! ザクロ!」


「いいぞ。腹から声出すのが羅刹の流儀だ」


 それからも、二人は水面に身体を浸して語り続けた。

 何が好きで、何が嫌いか。何をして、何をするのが幸せか。

 そうして二人が帰路に着く頃には、すっかり夜の帷も下り切って、日の光が顔を出していた。


 共に歩く竹林の中、最後に少女はこう言った。


「今度はさ、二人で逃げようか」

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