第三八話 ネズミ VS ザクロ

 ネズミがそこまで辿った記憶をザクロに打ち明けると、殊更大きく咽び泣いた。


「ううううぁああ……俺は、目玉を! 目玉をォオオ!」


 川のせせらぎを呑み込んで、辺り一面にネズミの慟哭どうこくが支配する。


「ほじくったのか……」


 傍で聞いていたザクロは息を呑む。あの仕事は香梨紅子が特に信頼を置くカリンとモモが率先してこなしてきた仕事だ。

 定期的に罪の自覚を促さないと、人間の生活は脆く崩れるという下らない憂慮から、時にカリンの能力〈人間の使役〉で信者を操り、罪をでっち上げて五戒の執行を行うのだ。


 それ故、暮梨村の運営において最も重要な仕事であり秘事なのだが、まさか新参者であるネズミに五戒の執行を手伝わせるとは、ザクロも予期していなかった事態だ。


 ──こいつに、えらく興味があるらしい。


 ネズミの開かない鮮花に香梨紅子が興味を示す何かがある。これほど徹底的にネズミに試練を課すのだから余程のものだ。

 そんなことをザクロが考えていると、またネズミの身が震えた。


「俺はぁ……ダメなやつなんです……」


「しょうがないだろ? 目玉をほじるなんてことしちまったんだ。泣いて当然」


「ほじくれませんでしたァ!」


 その答えに、ザクロは瞠目した。


「ほじくれなかったって、どういうことだ? 母上が命じたんだろ?」


「できませんでしたァ! アァアアア……神に逆らって逃げてしまったァ。男を突き飛ばして、一目散に逃げてしまいました!」


 香梨紅子に逆らう。それはここで暮らしてきた者の誰もが出来なかったことだ。それはつまり、鮮花の支配に抗えたということだ。


「マジ!? 嘘だろ!?」


「ホントォオオ! ウアアア! おしまいだァアアア!」


 反論はかろうじて姉妹の中でも出来る者はいる。しかし、母が強く命じれば、自分の意思を手元から落としてしまう。柏手かしわでなんかを一つ打たれると、全身から反抗の意思が削がれるのだ。

 それだけ、香梨紅子の鮮花には強大な支配力がある。支配の糸が全身に絡みついて、神の命令を実行する傀儡と成り果ててしまう。そのはずだった。


「逆らったとき、どんな感じだった? どんな風に頭で考えた?」


「うあう……目玉をほじんのヤダって……怖いって……その一心で……」


「母上の命令より、恐怖が勝った? ますます、やべえなお前。凄いことだぞ」


「どこがアアア! 神に逆らったのにィ!」


 わんわんとネズミは泣き喚き、頭を抱えて地面に小さく小さくうずくまる。

 ザクロはまた大丈夫だと背中を摩ってやる。


 ──落ち着いて話せる状況じゃねえな。しばらく泣いてもらって、それから聞いてもらうか。


 そう頭で巡らせていたザクロは、ネズミの微かな変化を見落とした。

 背中の震えが突如として治っていた。あれほど怯えていたというのに。

 それに気がついた刹那、ネズミの手が視界を横切る。

 ザクロの帯に差していた打刀、その柄に素早く伸びてくる。


「────ッ!」


 ネズミから身を離し、刀を遠ざけようとした。

 しかし次の瞬間、強い衝撃がザクロを襲い、川の浅瀬に押し倒される。


「カハッ! 何してんだお前ッ」


 抗議の声に一切構わず、ザクロに馬乗りになってネズミは刀の柄を掴んだ。


「お願いします。死なせてください」


 ザクロは瞬時に手を重ねて、刃を抜かせまいと必死に抑えにかかる。


「お前ェ! すげえ力、ガァ!!」


 ネズミの引く力に圧されて、刀身の四分の一が鞘から露出した。


「舐めんなお前ッ、私だって力じゃ負けねえぞ!」


 ザクロも負けじと刀身を鞘に収める。力はほぼ互角。

 抜いて死にたいネズミ。納めて死なせたくないザクロ。

 やがて腕力の比べ合いは拮抗し、焦れたネズミが懇願する。


「ザクロさんお願いします……どうしたら……死なせてくれるんですか?」


 ネズミの大きな眼から涙が溢れて、水面に濡れたザクロの顔に落ちる。

 落涙が口にも垂れて、しょっぱい味がザクロの口内に染み渡った。

 その味が、無性に苛立ちを覚えさせる。幼い頃、自分が流してきた涙と同じ味だ。


「……敬語とさん付けやめたら、言う事聞いてやるよ」


「ザクロ、死なせてくれ」


「やなこった、ブわぁくゎッ」


 ザクロが心底馬鹿にしたように笑うと。ネズミの相貌は苛立ちに染まった。

 その皺が寄った眉間を見て、殊更ザクロは挑発的な笑みを作る。


「なんだ? 死にたいくせに一丁前に怒ってんのか? なら刀なんか置いて殴り合うか?」 


「嘘ついていいんですか?」


「良いわけねえだろ。でも良いことにしてんだよ。冗談一つ言えないなんて面白くねえだろ」


不妄語戒ふもうごかいに触れますよ?」


「私を咎めるか? 罰したいか? ならお前が母上に私を突き出せ」


「できるわけ……」


「じゃあ、お前は不閑却戒ふかんきゃくかいに触れるよな? すべての罰則をその肉体受けることになる。私を告発すれば、命を繋げられるぞ」


「今死にたいって言ってんのにッ、そんなことするわけない!」


「じゃあ、お前が私の舌を縦に割れ。それで今日、くり抜けなかった目玉の分を、母上はチャラにしてくれるかもな」


「そんなことしたくない!」


「へえ、じゃあどうすんの?」


 ザクロの問いに、刀を引き抜こうとするネズミの力がわずかに弱まる。

 その隙をついて、ザクロは柄を握るネズミの手を引き剥がそうとするも。


「俺が死ねば良い!」


 させじと、弛緩した力をネズミは手繰り寄せる。


「がッ! クソ!」


 ザクロが慌てた顔で狼狽すると、ネズミの力が調子づき、ずるずると刀身が三分の一露出してしまった。


「俺が死ねば、あんたの罪は誰も知らないッ、だから死なせろ! っていうかさっきから死にたいつってんだろうが! 何回言わせんだ! どうすんの? じゃねえよ!」


「女を川に押し倒す野郎の話なんか聞かねえよッ、バカがよォ! マジで死にたい奴がこんな馬鹿力出せるかッ!」


「死にたいから必死なんだよ! さっきから見下しやがって!」


 憤怒に任せてネズミが更に刀を引くと、ついには刀身の半分が露出した。


「クソッ、このままじゃ──」


 抜かせてしまう。ザクロは焦燥に濡れた思考を必死に回した。

 殴って突き飛ばすか? 部が悪い。ネズミが手を離さない限り、刀も一緒に抜けてしまう。

 髭を引っ張るか? ダメだ。片手を離した瞬間に刀を奪い取られてしまう。

 じゃあ、こいつが止まる方法、それは恐らく。


「スゥウウウウッ」


 深い呼吸の後、ザクロは決意を固める。

 相手が本気でぶつかってきたとき、こちらも身を切る覚悟を見せなければならない。

 ザクロはネズミの手に重ねていた左手──唯一残った生身の手を、じりじりと移動させる。

 その目的地は、半身が露出した刀身。


「何して……?」


「見りゃ、わかんだろうが」


 ザクロの美しい指がしっかりと刀身を掴むと、指の間から紅が滴った。

 溢れる鮮血は刀身を伝って鞘の峰へとするりと落ち、鞘を下って水面を赤く汚す。

 それを見るや、ネズミの力が一気に弱まった。


「なんで、そんなことを」


「どうしても抜きたいなら、私の指を斬り飛ばして抜け」

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