第三七話 ネズミ回想

「今、なんて……?」


 香梨紅子こうなしべにこの社内、辺りを覆う岩肌がネズミの声を低く反響させた。


五戒ごかいの執行を本日行うのです。昨日、どうやら村で盗みを働いた者がいたそうです」


 香梨紅子のその言葉がネズミの耳を打ち、身体を硬直させる。


不偸盗戒ふとうちゅうかい、他者の持ち物を奪うべからず。この禁を破りし者、自らの両目を抉り取り、二度と他者を羨むことなきよう励むべし。覚えていますね?」


「……は、い」


 声が震えた。目玉を抉り取る罰則は本日ここで行われると言うのだ。


 ──人が目玉を抉る場に、立ち合えと?

 ネズミの足元がふらつく。なぜ、どうして、自分が。与えられるお役目とはまさか。


「苛酷に思えるかもしれません。ですが、あなたの鮮花を開く手段でもあります。強い精神的な負荷は、鮮花が開くキッカケになるかもしれません」

 ネズミの腕を持って身体を支えながら、紅子が諭すように言う。


「その、俺は──」


 いやです。その一言が喉から出てこない。自分の鮮花が言葉を堰き止めているのか、はたまた自分の臆病さ故なのか。

 混乱と焦燥で意識を彷徨わせていると、ほどなくして盗みを働いた信者が社の中へと引っ立てられた。


「離せッ! 離してくれ!」


 年は三〇台前半、手を後ろ手に拘束された男が、引き摺られ泣き叫んでいる。


「まだ俺は子供の成長を見ていたいんだ! 頼む!」


 顔は涙で濡れ、声は擦れ、二人の信者に両脇を支えられてなんとか歩かされている有様だ。


「神の御前だ! 頭を垂れろォ!」


 信者達の背後からカリンが怒声を放つと、台座の前に座らされた男は「ハッ」と顔を上げ、香梨紅子を視界に捉えた。


「べ、紅子様……」


 泣き腫らした顔が、晴れやかな笑顔になってゆく。それが流れ星を見つけた子供のような嬉々とした相貌で、ネズミを絶句させた。自分も神の前でこんな顔をしているのではないかと。

 男は神に向き直り、綺麗に足を揃えて正座をし、


「神よ……どうか私にゆるしをう機会を……」


 深々と、冷たい石の床に頭をつけて懇願する。


「良い日和です。新しい花を迎える良き縁日です。悲しむ必要は、ありませんよ」


 香梨紅子は男の前に屈み、顔を上げさせ、その頬を撫でた。


「眼を失えど、子に優しく触れ続けなさい。愛の言葉を口に出し、これまで以上に愛情を注ぐのです。子と多くの対話を、自身の思考の花との対話を、これからゆっくりと持てるのです。その時間に恵まれる機会を、不幸などと思ってはなりません」


 言うと、紅子は懐から白い匙を取り出した。男はその匙が視界に入ると、また恐怖の色を強くする。


「ああ……私は……今から……」


「今から、新しい花(心)をどうか、見せてくださいね」


 男は手を縛る縄が解かれると、差し出された白い匙を握らされる。

 震える手でその匙を両手で受け取りながら、目の前に立つ神を仰ぎ見て、次に側で震えるネズミを見た。


『助けてくれ』


 そう目で訴えているようで、つい口を衝いて、


「紅子様、あの──」


 何かを頼もうとした。だが、何を頼めばいい? やめてあげてほしいと言うのか? 言ってやめてくれるか? 無理だ。神に異を唱えることなど、自分にはできない。

 ネズミが瞳を彷徨かせて逡巡していると、香梨紅子は緩やかに微笑む。


「さあネズミ、手伝ってあげなさい」


「ぇ──!」


 紅子は瞠目するネズミの手を取ると、泣き腫らす男の手にそっと添えさせた。


「自分の力だけで目玉を掬い取るのは大変難しい。本来、モモやカリンが率先してこの役目を担ってくれるのですが、そろそろあなたにも覚えさせなければね」


 ネズミは小さく呻いて、否定の意を目で訴える。

 しかし、そんなことはしたくないという一念が、なぜだが口から出てこない。神の意に沿わない行動を、肉体が強く忌避している。


「これから、この役目はあなたの仕事にしましょうね。大丈夫、心配せずとも、きっと上手くできますよ。上手に出来たら、母は嬉しく思います」


 香梨紅子の赤い唇から、しっとりとネズミの未来を告げられた。

 これからは、目玉を抉る仕事。これから、男の目玉を抉る手伝い。

 あまりに凄惨な自身の前途を、ネズミは上手く咀嚼できない。

 男の手に自身の手を添えていると、震えがネズミに伝わって、同時にネズミも震え上がる。自分が震えているのか、男が震えているからそう感じるのか。互いに目を合わせて、恐怖の色を交換し合い、眼から涙が溢れ出した。

 いつまでも動かない二人を見かねたのか、香梨紅子はそっとネズミの肩に触れる。


「ネズミ、そうしていると、彼の恐怖や不安が伝わってきますね。不安と恐怖の奥底にある感情は、何かわかりますか?」


「わ、わかりません……」


「怒りです。どうしてこうなったのか? 自分はなぜこんな思いをしなければならないのか? なぜ将来を案じなければならないのか? そんな奥底に湧き上がる怒りが根底にあるのです。では、怒りの根底には何が?」


「わかりません……」


「祈りです。怒りとは祈りなのです。わかってほしい。理解してほしい。恵まれた明日、より良い未来が欲しいという祈りに他なりません。怒りだけでない。あらゆる感情が、あらゆる事象が、細き羅生界の糸で〝祈り〟へと繋がっているのです。羅神教の教えの根底は祈りにあるのです」


 言うと紅子は、膝をついてネズミと目線を合わせて声を落とす。


「理解してあげてください。祈ってあげてください。彼がこれから目玉を失い、自身の心と向き合う時間が、どうか実りのあるひとときであると。私もここで共に、祈りましょう」


「べ、紅子様が……私のために祈ってくださる……」


 答えたのは男の方だ。目玉を失う恐怖は何処へやら、歓喜の声をあげて表情を明るくした。

 その感情の所作を見てネズミは更に混乱した。どれほど男が晴れやかな顔をしたところで、

 ネズミ自身も窮地であることは何も変わらない。


 ──なぜ自分が、なぜ。


 鮮花が開かないからか? 獣に成り果てたからか? 期待に応えられなかったからか? モモを殺せなかったから?


「では、真言しんごんを唱えましょう」


 焦燥で身を焦がすネズミを置き去りに、香梨紅子が音頭を取る。それを受けて匙を握る男も、背後で控える信者たちも静かに瞑目した。


「「「おん堕母羅尼だぼらに修羅秘理定業しゅらひりていぎょうおん抱児羅尼だごらに修羅秘儀胎蔵しゅらひぎたいぞう」」」


 滑らかに声を揃えて低く唱え続けた。ネズミを除いたすべての者の低声が、静謐な社の中を這い回る。


「「「座石碑切来ざこくひぎりき宇羅忌娑婆訶うらいみそわか法花司切木ほうかしぎりき天羅日娑婆訶あまらびそわか天上陽転てんじょうようてん業羅枝平定ごうらぎへいじょう五行陰転ごぎょういんてん衣羅喰明浄いらばみめいじょう悲蔵宿願ひぞうしゅくがん蔵羅恵誓願ぞうらえせいがん宙天業服ちゅうてんごうふく胎内願たいないがん羅合花識誓願常らごうかしきせいがんじょう」」」


 皆が声を揃える中、神は立ち上がり両手を広げて男を祝福する。


「世界のすべては生命の祈りである〝〟が絡まり合う悲蔵ひぞうの世界。肉体は蔵。蔵に収まるは秘蔵の花、鮮やかなる花。花と読んで心とも。これからきっと新しきはなが芽生える良い縁が起こります。さあ、匙を目に突き入れ、自身を救い取りなさい」


「はい、紅子様」


 真言を唱え終えた男は、徐々に白い匙を左の眼球に近づける。ネズミの手もそれに引っ張られて、男の目にゆっくりと──。

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