第三六話 川岸にて

 頭上を泳ぐ桜の花弁が一枚、ひらりと湯呑みの中へ舞い落ちる。

 自宅の縁側に腰をかけるザクロは湯呑みを傾け、花弁ごと飲み干して息をついた。


「おっせーなぁ」


 すっかり日も落ち、月が桜を照らす頃合。ザクロは目覚めてネズミの帰宅を待っていた。

 義手を付けた大手術のせいでしばらく昏睡と覚醒を繰り返していたが、今は生まれ変わったように頭がはっきりしている。どうやら義手が肉体に馴染んでくれたらしい。


 しかし、いつも傍にいてくれたネズミが、夕餉の時刻となっても戻ってきやしない。せっかく一緒に食事ができるまで回復したというのに。


「探すかね」


 呟いて、右手を掲げてカチカチと喉を脈動させる。自身の鮮花あざばなを開いて羽虫達を義手の中で生み出した。

 すると、義手から六つの穴が開く。飛び出したのは真っ白な六匹の羽虫だ。


「うおッ。お前ら数増えてるな」


 義手を取り付けられる前は三匹が限界だった。今は数を倍に増やし、以前とは比べ物にならないほどに元気な羽音を立ててザクロの周りを旋回する。おまけに宿主の髪のような真っ白な甲殻に生まれ変わっている。


 香梨紅子が娘達のために作成した義肢は確かな効果があった。心境は複雑ながらザクロはそれに少し安堵する。


「元気良いなお前ら。その調子でネズミを探してきてくれ」


 六匹の羽虫はザクロの前で静止し、コクリと頷いて四方に飛び去っていく。

 どうやら知能まで向上しているようだ。


 ──生身の腕を失った甲斐があるというものだ。


 思った瞬間、ザクロは傍の湯呑みを持って、力任せに地面に叩きつけた。


「んなわけあるか!」


 割れた破片と共に、少女の怒号が飛び散る。

 生身の腕と引き換えに、羽虫が三匹追加された。そんなのものが割に合うはずがない。

 安堵した自分は自分ではない。自身の鮮花あざばなが『そういうことにしておけ』と『母に感謝しろ』と少女を説き伏せようとしたのだ。


「厄介な寄生虫だ! 人様の喉奥に居座って、狂った母親に迎合しろだ!? 娘の腕を落とす親になぜ! なぜッ!」


 怒りで涙も出ない。ただただ腹正しい。自身の花が、弱さが、何より香梨紅子が憎たらしくてしょうがない。


 なぜ腕を落として義手を取り付けるか? 香梨紅子の作る義肢は特別だ。取り付ければ、鮮花の能力を最大限に引き出せるのもまごうことなき事実だ。羅神教では生命を産み出す能力は大変貴重で崇拝の対象となっている。それを存分に扱えるようにと、母としての配慮だと聞かされている。


 だが、ザクロが思うに最大の理由は、香梨紅子が『痴態である』と判断したからだ。いちいち刃を立てて自傷しなければ能力を発揮できないなど『羅刹として目に余る腑甲斐なさ』とでも思ったのだ。羅神の娘として、神の美意識に反することが許されなかったのだ。


「この──ッ」


 頭に血が上り、割れた湯呑みを踏んで八つ当たりをしたところで、ネズミを捜索していた羽虫が一匹戻ってきた。

 憤怒の表情でザクロが羽虫を睨め付けると、睨まれた羽虫は申し訳なさそうに頭を下げた。

 やはり知能が向上している。『ごめんなさい』とでも言うように顔を伏せて、こちらを居た堪れない気持ちにさせてくる。


「…………はぁーぁ」


 ザクロは大きくため息をついて、羽虫に向き直った。


「お前に怒ってるわけじゃないよ。その、これからよろしく」


 言われた羽虫は雰囲気を明るくし、元気よくザクロの周りを旋回して、竹林の方へ飛び立った。ここまで態度に表されると、随分と可愛く思えてくる。


「はいはい、そっちだな」


 縁側に置かれた行灯と打刀を持参し、頭上を飛ぶ羽虫の尻を追って竹林へ進入する。

 しばらく羽虫と竹林を泳いでいると、川のせせらぎに混ざって、微かに啜り泣く声が聞こえ始めた。


「ネズミー!」 


 呼ぶと「はうっ」と、はっきりと息を飲む音が聞こえる。

 音を頼りに歩を進めると、竹林を抜けて川のほとりに辿り着いた。そこには背を丸めて蹲り、涙を流す獣が一匹。ザクロを視認するやいなや、慌てて顔を伏せて背中を向けた。


「なんだなんだ。どうしたんだ? なんで泣いてんの?」


「うぅ……」


 随分と弱っている様子だ。目元は赤く腫れ、顔の毛並みは随分と乱れている。口周りが黄色く汚れており、やや吐瀉物の匂いが漂っている。


「なんでぇ……見つけちゃったんですかぁ……うぅ……」


 そんなことを呻きながらまた大粒の涙を流す。男として、女に泣いている姿は見られたくなかったのだろう。わざわざ川の近くまで来て泣き声を掻き消していたのだから。

 その様子を見て、ザクロはネズミの傍に膝を着き、そっと背中に手を当てた。


「母上に、何かされたのか?」


 聞くと、怯えるようにネズミの背中が波打った。


「俺、俺、俺はぁあああ!」


「あーあー。大丈夫だ、大丈夫」


 ひどく動揺して悲鳴を上げるネズミに、ザクロは背中を摩って声をかけ続ける。

 そうしていると、ネズミがほんのわずかに落ち着きを取り戻しはじめた。


「俺はぁ、ダメなんですぅ……」


「何がダメだ? 何があった? 母上に殴られたか?」


「うぅ……」


「あれきついよな。私も何度か経験あるよ。痛すぎて嘔吐もすれば、下も漏れるし」


「殴られてはぁいませぇえええん……」


「違うのか。もっと早く否定してくれ。恥の掻き損だ」


 言いながら、ザクロは少し羨ましく感じていた。自分が他者に憚ることなく大声で泣けていたのはいつまでだったか。思い出せもしない。


「泣けるってのは良いことだ。私らなんて泣くより先にキレ散らかすから。上手くは言えないけど、泣ける方がむしろ強いと思うよ」


 その言葉にネズミはわずかに顔を上げて喉を詰まらせた。


「俺はぁ……ひっぐ……お、おしまいだぁ……」


「何があった?」


 問われたネズミは身を震わせて答える。

 本日、何が起こったのか──。

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