伍ノ花 逃走
第三五話 言伝
「お母さんを許して」
母が言うのだ。少年と目も合わせず、自身の膨れた腹を摩って。
「抱っこして」
男が言うのだ。夜な夜な村人が寝静まった頃、こっそり母に抱かれて。
「許すよ」
少年は言う。妻帯者との子供を授かってしまった酷い母親に。
神に無断で子を身籠った母の罪を、少年は呑み込んだ。
罪を見過ごすことが、最も重い罪と知りながら、少年は口を噤んだ。
何をしている? なぜ母を神に差し出さない?
自分の血が、目玉が、舌が、命が、惜しくはないのか?
何度も自問した。何度も足を社の方へと向けそうになった。
息子の命を危険に晒すと承知して、男に抱かれる母を。
父が亡くなってから一度も少年と目を合わせない母を。
庇う必要がどこにある?
だが、いやだ。お断りだ。少年は何度も自分の胸を叩いた。
うんざりしているのだ。間違いを許されぬことに。
村の者は皆、神の名を借りて〝正しさ〟を説く。
神に習って生きることが、生命の在り方であると、我が物顔をするのだ。
頭上を見上げるばかりで、こちらを見ていない。
目を合わせて話していても、心を通わせている感触がない。
少年もそうだ。自覚している。
振る舞いの一つ一つに、神の所作を伺うような心根があった。
神ならどう考えるか。神ならどうするか。何をしても頭に過ってしまう。
それがどうしたって、イヤなのだ。首を絞められているように息苦しいのだ。
どれほど自由で呑気そうに振る舞っても、猫に追われる
他者の視線を恐れて、背骨が真っ直ぐ立たぬのだ。
いっそ獣になれたら、すべてから解放されるのか。
神を仰がず、罪を知らず、生きることだけに没頭する獣となれば。
自分は救われるだろうか。
あの気高い白き髪の少女のように、笑えるだろうか。
父を看取ってくれたあの時のように、誰に憚ることなく、泣けるだろうか。
✿
緩やかな夕風が渦を巻いて、玄関に桜の花弁が吹き溜まる。
それをネズミがさっと竹箒で掃いてやると、それらが散り散りになって竹藪に駆けていった。
「聞きましたよ。よく戦っておられたと」
ザクロの自宅の縁側で茶を啜りながら、
「え……いや、みっともなく泣きじゃくっただけですが」
誤魔化すようにネズミが
「良いことです。姉妹もたくさん泣いて成長してきたのですから」
モモとの闘争から三日後のことだ。ザクロはあの激しい殴り合いから、再び深い眠りと短い起床だけを繰り返す日々に戻ってしまった。その介抱にネズミが変わらず勤しんでいると、様子を伺いに彩李が訪れてきてくれたのだ。
「ザクロ様は特に、姉妹の中でも泣き虫でありました」
「あら、気の強いザクロさんが?」
「そりゃもう。寝小便をすれば泣き喚き、泣き虫羽虫と罵られては泣き喚く。可愛らしい子供でしたよ」
本人が寝ている側で本人が伏せておきたい過去を聞いてしまった。その気まずさに、ネズミは縁側の障子を開いてザクロの身を確認する。相変わらず穏やかな寝息を立てていた。
その愛くるしい寝顔に安堵して、ネズミは無遠慮な老婆にため息を一つ吐く。
「そういうのって、あまりズケズケ言わない方がいいんじゃ? 思春期の女の子はそういうの嫌がりますよ?」
「しかし、あれはいつからでしょうか。ある日を境に泣くことをピタリとやめなされた」
「……あれ? 俺の話聞いてます?」
「老体ゆえ記憶も曖昧ですが、突然、ザクロ様は努めて強くなろうとしはじめたのです」
止まらぬ思い出話に花が咲き、ネズミは観念して「へえ」と相槌を打つ。ザクロへの配慮より好奇心が勝ってしまった。
「何がきっかけなんですかね?」
「聞いても答えてくれなかった気がします。ですが、『悲しみを拭えるほどに強くなりたい』と時折漏らしていらっしゃいます」
ああ、それはまさにザクロらしい。ネズミは曖昧に納得した。
「男子三日会わざれば刮目して見よ、などと言いますが、女子は三日とかからずに変わってゆくものですね……本当に……」
その変化は前向きであるはずなのに、彩李の声音が徐々に悲哀の色に染まってゆく。
「そう、なんだ」
辿々しい相槌を振り絞ってから、ネズミは誤魔化すように掃き掃除に戻った。どうにも質問を重ねて良い雰囲気には思えず、気まずい空気が毛先にねっとりと纏わりつくのだ。
そこからしばらく長い沈黙が続いた。流石に話題も尽きたのだから、普段ならお開きの流れだろう。だが、彩李はまだ何かを言いたげに視線を移ろわせていた。
ネズミも黙って次の言葉を待った。彩李が言いたいことに心当たりがあったからだ。
「ネズミ様……」
彩李が茶を飲み干す頃合。一瞬の逡巡の後に、意を決したように彩李が口を開いた。
「紅子様からの言伝がございます」
彩李が重々しく言うと、ネズミの全身に焦燥感が走る。
もしや、とは思っていた。特に用事もなく居座る老婆ではない。ならば、切り出しづらいモノを自分に運んできたのではと。
「紅子様の……」
モモと死闘を繰り広げたあの日、退屈そうに社へ帰ってゆく神の背中が、ネズミの瞼に焼きついている。今度こそ落胆させてしまったのではないか。そうであるなら、やはり見限られたか。
緊張で強張るネズミを見て、彩李はさらに重苦しく言う。
「ネズミ様、あなたに……あなたに、お役目が命じられました」
「お役目? 俺に仕事があるんですか?」
「はい。とても重要なお役目でございます」
ネズミは胸を撫で下ろす。あの日、モモの首に刃を通さずとも、神に価値ある者であると実力を示せたらしい。きっと見所があったのだ。
「よかった……見捨てられてはいなかったんですね」
「本日、暮れ六ツ(一八時頃)に大社へ向かい、仕事の仔細を紅子様からお聞き下さい」
恐らく、事前に聞かされていた森の警備だろう。
「わかりました。頑張ってきますねッ」
ネズミが張り切って力こぶを作って見せると、彩李は気落ちするように肩をすぼめる。
未だに能力の開花を行えないネズミを、森の警護に駆り出すのが心配なのだろう。
──今度こそ、期待に応えるんだ。
神の期待に応えられるような働きを見せれば、彩李も認めてくれるはずだ。
わた雲に陰る夕日を見つめて、ネズミは胸を高鳴らせた。
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