第三三話 花か、己か
「行きます!」
憮然と待つモモに催促され、ネズミは威勢よく駆け出した。
モモも弾かれるように駆けて、間合いは一瞬にして二歩の距離。
「シャアア!」
互いに袈裟に斬りかかると、刃がぶつかり火花を散らす。
三合、白刃を重ねると、モモが感心したような顔をする。
それもそのはず、ネズミは圧し負けていない。
刀を握ったのが初めてなのだから、圧されて当然と思っていたが。
──やれる。紅子様の言う通り。
元々、神の能力によって凄まじい回復力と肉体の強化を施されている。
獣としての肉体も相まって、モモに勝る強靭さを最初から持っていた。
それに加えて、心に刻み付けた香梨紅子からの助言。
『初の闘争なのですから、あれこれ考えても何一つ実を結ぶことはないでしょう』
『え……じゃあどうすれば……』
『どれほど傷を負うと、堂々としていなさい』
それだけだった。それだけを心に留めて、堂々と刃をぶつけ合う。
それだけで神は勝ち筋があると豪語した。
「ガッ──キサン!」
白刃をぶつけ合う最中、モモが忌々しげに呻いた。
ネズミの腕力とモモの腕力。先に根負けしたのは、モモの方だった。
それを隙と見て、ネズミは大上段に斬りかかり、モモの頭部を強襲する。
「ぐッ──」
しかし刃が頭に届く寸前、モモは地面に倒れ伏すように屈んで、ネズミの腹に蹴りを浴びせる。
蹴られたネズミは、足で地面を削って強制的に後退。
二人の間に、また空間が開いた。
「褒めちゃらぁ。腕力ならザクロ辺りと良い勝負やろう」
「ありがとう、ございます……」
「だが、これはどうちゃ?」
試すように言うと、モモはゆらりと肩をを揺らして地面に手をついた。
そして、低い体勢のままゆらりゆらりと揺れ続ける。
それはまるで。
──蛇だ。
モモ自身の能力を想起させる、妖しく獲物を付け狙う所作だ。
ひたすら地面に低く、低く。直立している相手に下から刃を放つ特殊な戦闘術。
その動きに、ネズミは生唾を飲んで太刀を握り直した。
「キサンはどう切り抜けようとなぁ?」
言葉を地に這わせ、モモは変則的にネズミの元まで滑走する。
右に左に、モモの体軸がずれる。お互いの刃圏に入る寸前まで、ネズミの視線は左右に翻弄され続けた。
「くらァ──!」
肉体をしならせて放たれた、眼球を狙った強烈な刺突。
蛇が獲物に噛み付くような獰猛な一撃を、ネズミは寸手のところで回避する。
が、しかし、避けた刃がひるがえり、素早い袈裟斬りがネズミの腕を横断した。
「づァ──ッ」
鮮血が散り、視界が揺れる。たまらず神の助言に逆らい、ネズミは一歩下がってしまう。
「甘ちゃんが!」
罵る声と共に腹部に鋭い痛みが走る。モモはすでに刺突をネズミの腹に放っていた。
続けざまに逆袈裟に剣閃が走る。そして刺突、からの袈裟斬り。
次から次へと放たれる攻撃を、ネズミは半分もらい、半分弾く。
負った傷は次から次へと火花を散らして回復するが。
──まずい。
劣勢。圧倒的な敗戦色。堂々と打ち合いたいにも関わらず、鋭い痛みと血に染まったモモの刀身が、ネズミに怖気を押し付ける。
目前で繰り広げられる変則的な剣閃の舞が、ネズミの肉体を後ろへ、精神さえも後ろへ追いやった。
「ガッ──」
心が折れかけたそのとき、モモが放つ強烈な前蹴りがネズミを地面に押し倒す。
即座に立とうとするも、胸に鈍い衝撃が拡がり、地面に縫い止められてしまった。
「楽しくもないとなぁ。少しは歯応えがある思うたが」
うんざりするように言い放つモモは、倒れたネズミの胸を片足で踏んでいた。
立ちあがろうにも、身体の踏ん張りが効かない絶妙な位置だ。
ネズミを地に縫い止めたモモは、刀を持った腕を引き、刺突の構えに入る。
紅を滴らせる切っ先のその先は──丁度、ネズミの喉元だった。
「ダメッ!」「アカン!」
裂けるようなミカンとリンゴの悲鳴が背後で響く。
次には反射的に止めに入ろうと二人の足音が聞こえる。
しかし、その音は途中で途切れてしまった。
「まだ、闘争の最中ですよ」
香梨紅子が駆け出した二人に向かって静止するように片手を振り上げて窘める。
先刻のミカンとカリンの諍いがピタリと止まったように、姉妹達も静かに停止を余儀なくされ、香梨紅子の背後に並ぶように顎で促された。
「いやぁ、ありがたかね。母上の鮮花の支配の糸は強烈っちゃねぇ」
鮮花はより強大な花に従うようにできている。
この場にいるすべての羅刹が、何をおいても香梨紅子の命令を優先してしまう。
「キサンが死ぬまで終わらないらしいわ。焦るとなぁ? ドブネズミ」
モモの唇が凶悪に歪む。ネズミが胸に置かれた足に爪を立てて抵抗すると、断続的に足に力を込めて、ネズミの胸を強打する。
肋骨を折り、肺の空気を強制的に押し出すことで、ネズミから一切の抵抗力を奪い続けているのだ。
──止めてはくれないのか!
ネズミは視線で神に訴えた。もうすでに勝負は決している。火を見るより明らかだ。
だが、神は静かにその場で傍観し続けている。この状態からまだ勝ち筋があると言うのか。
──違う、これは。
止めてくれるだろうと期待していた。それはひどく都合が良い。自分はいつだって都合の良い憶測に着地していた。それが薄氷の上であると頭の片隅では気がついていた。
神の言葉を胸に掲げて死闘に身を投じたのだ。殺す覚悟で太刀を握った身であるならば、自分も殺される覚悟を持つのが当然だ。
そんな思考に辿り着き、ネズミは観念するように全身を弛緩させた。
「終わりちゃな」
ネズミがこれ以上の抵抗の意思がないと見るや、モモは再び刺突の構えを取る。
その切っ先は変わらず、ネズミの喉元──鮮花の宿る場所。
「死ね」
凶刃がネズミの喉元目がけて放たれた。
その刹那──がちりと甲高い音が響き渡る。
「ぐぅうううううううううう!!」
刃の切っ先が喉に届く寸前、ネズミは歯で刃を受け止めた。
口を大きく開き、上下の歯で血染めの刀身を噛んで拘束している。
花か、己か。
生きたいという意志に突き動かされ、ネズミの肉体が活生した。
虐げるように足で踏まれて心底腹が煮えた。
こんな性根の曲がった女に、殺されてなるものかと。
「は?」
飼い犬が動物の骨をかじって離さない、そんな滑稽な姿を想起させる。
ひどく獣染みたネズミの所業に、モモは嫌悪を隠さず相貌を歪めた。
「往生際が──」
悪い。と刀に力を込めて、ネズミの口内に切っ先を深く突き入れようとした。
だが、動かない。押しても引いても、モモの刃は一切動かない。
唸るネズミの歯肉から血が溢れ出し、回復の火花を散らし続ける。
刃と歯の鍔迫り合いからも火花が散って、死闘は眩く色づいた。
「オオオオオオオオオオオオオッ!!」
「グウウウウウウウウウウウウッ!!」
互いに空気が揺れるほどの絶叫を上げて、力比べに突入する。
突いて殺したい、モモの凶刃。
噛んで生きたい、ネズミの獣歯。
二人の視線が交錯し、膨張する殺意からも火花が散る。
──さっさと死ねちゃ!
──いいや! あんたが死ね!
憎悪に塗り固められた攻防戦は、やがて優劣が明らかになった。
「キサンッ!」
じわりじわりと、ネズミの上体が浮き始める。
その勢いをもって、すかさず胸を踏むモモの足を、白骨刀〈紅雀〉で刺傷した。
「ッガアアアア!!」
ふくらはぎに刀身が沈み込み、たまらずモモが叫声を上げる。
ネズミが勢い良く刀身を引き抜くと、さらにその痛みによる動揺がわずかな隙が作った。
「ゥゥゥゥゥッ」
ネズミは唸り、すかさず神の手袋でモモの白刃を掴んで肉体を起こし始めた。
モモも負けじと渾身の力で刃を押すが、ネズミの口元から嫌な音が鳴る。
ぱきり、かちり。モモの得物が悲鳴を上げて、ネズミの口元でヒビが入ったのだ。
そのヒビは徐々に駆け上り、刀身の根本まで走り抜ける。
「──」
ネズミが好奇とばかりに、完全に肉体と起こした次の瞬間。
甲高い音と共に、モモの刀は硝子のように砕け散った。
──今だ。
明々白々な決定的な隙。
ネズミの膨張した殺意が、紅雀を握る右手に込められる。
どこを斬るか。モモの首がガラ空きだ。
憎悪に身を任せ、少女の首に目がけて紅雀を横薙ぎに払おうとした。
しかし、だがしかし。
時が止まったかのように、ネズミの思考は逡巡に落ちる。
殺すのか? 本当に? それはお前が望んだことなのか?
花か、己か。どちらが殺したい? どちらが──。
──いやだ。
心で思ったが最後、ネズミは紅雀を振るうことなく、その場に佇んだ。
あれほど憤怒を抱え、思考と肉体を熱していたというのに、背中から温度が抜けていき、足も地に縫い止められたかのように重くなる。
「いやなんだ」
落とすように呟くと、ネズミの瞳から雫が落ちる。
殺したい、わけがない。女子を手にかけるなんて、死んでもいやだ。
それがネズミの決断だった。神の意思でも、鮮花の意思でもない。
己が決めたことだ。
「……キサン、なんのつもりや?」
刀が砕けた衝撃で、たまらず後ろへ下がっていたモモは、呆気に取られた顔をする。
間違いなく刀が砕けた瞬間、ネズミは紅雀を振ろうとしていた。だが、今も首は繋がっている。その自分の状態を、受け入れられないとでも言うように、その鋭い
「どういうつもりがちゃッ、聞いとるが!」
「これ以上は、できません……」
そのネズミの言葉が、行動が、態度が、モモの相貌を噴火させた。
「私に! 私にィ──! 私に向かって! 情けをかけようがか!?」
発奮したモモは、ネズミに強烈な前蹴りを喰らわせて吹き飛ばす。
倒れたネズミに馬乗りになり、憎しみを込めて拳を撃ち下ろした。
「羅刹である私にッ! 香梨紅子の娘である私にッ、情けをかけようたが!」
大粒の涙を流すネズミの頬を、額を、眼球を、拳で砕いて叩き続ける。
回復の火花が散る中、ネズミはとめどなく涙を流す。
拳の応酬を受けてもなお、抵抗する気力がすっかり枯れていた。
「殺す殺す殺す殺すッ!! キサンは私に恥をかかせようたッ!」
容赦なく拳が降り注ぎ、火花が絶え間なく舞い続ける。
両の眼は潰され続け、回復の火花で視界が覆われる。
痛みを感じ取る感覚はすでに麻痺し、ただ拳の衝撃で脳が揺れるだけだ。
このままだと殺されるのかもしれない。殺されていいわけがない。
だが、どうしたって体に力が入らない。おまけにあの幻聴まで聞こえてきた。
『お母さんを許して』
落とした記憶の中の啜り泣く声。
許されたいのはこちらだと言うのに。空気も読まずに頭の中にしゃしゃり出てきた。
もう腹も煮えてこない。もう思い出せなくとも良い。ただこの地獄が終わって欲しいのだ。
「ァ──」
火花の間隙を縫って、特別大きく振り上げられた拳が見えた。
終わる。この苦しみから解放される時だ。
あの紅に染まる拳が振り下ろされれば、きっと意識を手放す一撃となる。
その後、殺されるならば、さぞ楽に逝けるのだろう。
「キサンだけは」
息を切らして見下ろすモモの眼は、浴びた返り血を押し流すように落涙が滴っていた。
それを見て、ネズミは朦朧と拳が振り下ろされるのを待った。どれほど泣かれようが、どうしたってやる気がないのだからしょうがない。
さっさとしてくれ、と催促が口から出かかった。
そのとき。
「生かしておけな──」
突如、モモの吐く怨嗟が、鈍い音と共に途切れた。
次に聞く音は、自分の頭が砕ける音だろうと思っていた。
最後に見る景色は、血に濡れた少女の拳であろうと思っていた。
しかし、変わりにネズミの視界に飛び込んだのは。
鋭く伸びる、美しい女の脚。
「吹き飛べェええええええ!」
白き髪の少女──三女ザクロの渾身の咆哮。
家で大の字で寝ていたはずのザクロが、モモの顔面に蹴りを浴びせていた。
モモの肉体はネズミから引き剥がされ、後方へと勢いよく弾かれる。
「よくも私をいじめたなァ! 覚えてるぞ! 身動きできない私を散々
地面を転がるモモに怒鳴り散らし、弾かれるようにザクロは疾走する。
急いで起き上がったモモは、ザクロを視界にとらえて咆哮する。
「ザクロォオオオオオオ! 何しようとかキサンはァアア!!」
「煎餅みたいに平たい顔面になるまでテメェを蹴ってやんだよォ! 醤油に浸して七輪の上に乗せたらァア!」
「邪魔しやがってこのクソ女がァアアア!!」
突然のことに茫然自失するネズミを背後に、咆哮をぶつけ合う少女達の乱闘が始まる。
顔を踏み、拳で殴打し、腹を蹴る。目を覆いたくなる血みどろの泥試合が繰り広げられた。
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