第三一話 模擬試合
翌朝、布団で寝ているザクロを置いて、ネズミは
一晩過ごしてすっかり覚悟は決まった。模擬試合とは木刀で打ち合うのだと彩李から聞いている。ならば死ぬことはない。それに、最初から勝てる勝負ではない。誰が相手だろうが早々に気絶させられてお終いであると。
役立たずの烙印を押されてもしょうがない。正真正銘、それが自分の実力なのだ。今更心を惑わせる必要もない。
──気絶というの名の、二度寝ができると思えば気が楽だ。
ひどく後ろ向きな展望を掲げ、ネズミは竹林参道を抜けて香梨大社の門前に辿り着く。
すると、既に香梨紅子を前に四人の姉妹が勢揃いしていた。
しまった、待たせてしまっていたか。と慌てて駆け寄ると、次女ミカンと五女カリンが香梨紅子を挟んで
「いきなり闘争というのは酷ではありませんか! 彼は剣術の心得もないと言うのに!」
「黙れミカン! 母上に向かって意見するなど!」
「どうか温情をッ、模擬試合であると母上自身が口にされたのです! 羅神の身であるあなたが、
どうやら自分のことで口論しているのだと察すると、ネズミは気まずさで居た堪れなくなる。ミカンの激昂から読み取るに、本日行われるのは模擬試合などという生易しいものではないようだ。
「すべては母上のお考え次第だッ、神に罪を問うなど言語道断だ! 恥を知れ!」
カリンが詰め寄って、ミカンに力任せに掴みかかった。
互いに稲妻のような血管が額に浮き出し、眼から火花を散らせる。
「お心変わりは戒めに触れない! それがわからぬ阿呆は黙っていろ!」
「カリン、あなたこそ黙りなさい! 私は母上と話してるの!」
「神の御前で喚くなうつけがッ。お前の図々しい姉の面を引き剥がしてやろうか!」
「上等ォオオッ、やれるもんならやってみなさい! その生意気な口に拳をねじ込んで心臓引っこ抜いて厠に捨ててやるから!」
怒号を飛ばし合い、荒々しくお互いに額をぶつけ合う。二人のあまりの剣幕にネズミが慌てふためいていると、紅子から呆れるような吐息が漏れる。
「静かにしなさい」
しとりと一滴、紅子の苛立ちがこもった一言が注がれると、ミカンとカリンの動きがピタリと止まった。
自主的に喧嘩を止めたというより、水車が石を噛んで停止した。そんな不自然な強制感がある止まり方だった。
「「申し訳ございません。母上」」
ミカンとカリンは神から三歩後退して、他の姉妹と同様に平伏の形を取った。強い花に惹かれる鮮花の性質が存分に発揮されている。ここで最も強い香梨紅子の命令は即座に優先されるのだろう。
その有様にネズミが圧倒されていると、紅子から手招きされる。
駆け足で姉妹の脇を通り抜け、神の眼前まで進み出ると、
「で、ネズミ」
「は、はい!」
「どうですか? あなたの心を問いていなかった。闘争法に身を投じて見ますか?」
全容を把握していないネズミは逡巡して、香梨紅子に問い返す。
「その、闘争法というのは模擬試合とは違うん……ですよね……?」
「ええ。真剣を使って斬り合います」
「しん……けん……なるほど……」
ネズミの六本の髭が枯れるように萎れてゆく。来て早々に甘い考えが打ち砕かれた。やりたいわけがない。ただでさえ勝ち目がないのに、生命を絶たれる危険がある。
「いずれ、あなたも
助言の形を取った念押しだ。そもそも自分に拒否権はないようだ。
「俺には、その──」
言いさして、ネズミは硬直する。
何を言えばこの場を切り抜けられる? 覚悟も実力もないとでも言うか? 女子に刃を向けられないとでも言うつもりか? 木剣にしてくれないかと縋ってみるか?
何を言ったところで言い訳がましい響きを持つ。羅刹に覚悟や男女などは関係がない。身内であれ、容赦なく刺し合う世界にそんな言い訳がまかり通ると思えない。
両手を忙しなく開いては閉じるネズミを見かねて、紅子は口元を綻ばせる。
「強制はしません。あなたが決めなさい」
「へ? 俺が決める?」
驚き、ネズミの口から間抜けな声が漏れる。断る選択肢があるとは思わなかった。すべては神が決め、自分は従う他ないと思っていた。
「ですが、あなたには倒したい相手がいるのではないですか?」
「倒したい、相手……ですか?」
「モモに、一矢報いたいのでは?」
名を出された途端、神前で片膝をついていたモモが盛大に口を歪め、ネズミを挑発的な眼で射抜いた。
『来いよ、ドブネズミ』
口を開かずとも言っていることがよくわかる。嗜虐を旨とする少女に射すくめられ、ネズミは怖気で縮こまる。が、背中を紅子の手に支えられて強制的に背を正された。
「平常時であれば、技量と経験の差で圧倒されるでしょうが、私が助言と助力を尽くしましょう。であるならば、勝ち筋は充分にあるでしょう」
神の後押しまでされてしまった。いっそ命令してくれれば良いものを、あくまでネズミの口から引き出したいらしい。戦う、その一言を。
ネズミが盛大に目を泳がせていると、紅子が耳元に唇を寄せ、娘達に聞こえぬように落とした声音で囁いた。
「ここで一矢報いれば、あの子もあなたに対して高圧的な振る舞いをできなくなるでしょう。あわよくば、いっそ──」
殺したいとは、思いませんか?
ネズミが眼を見開いて、瞳で紅子に問う。なぜそんなことをいうのか。
先日、あれほど優しく抱擁してくれたというのに、なぜ、今、そんな残酷なことを。
「羅神教の説く羅刹の究極の心根とは、欲望や願望の実現のために〝没頭〟している状態にあります。特別に
どうですか? と再度ネズミの耳元で神が囁く。
殺したいと思ったか? 消えてほしいと思ったか? 思わなかったと言えば嘘になる。
ネズミが惨めになるような言葉選びを、モモは巧みに選び取る。
ネズミをひどく傷つけるような言動を、モモは好んで実行する。
そんな者を疎ましく思わないわけがない。いなくなってほしいと、思わないわけがない。
今後もここに居続ける限り、モモと接触する機会は山ほどあるだろう。
それはひどく気が重い。誰かの背に隠れて震えていると、死にたくなるほど惨めな気分になるのだ。
ましてや女の背に隠れて怯え続けるのか? 男として恥ずかしくないのか?
「あなたの手で、憂いを断ち切る好機ですよ?」
神の誘惑に、ネズミの瞳が闇に沈む。
香梨紅子が言うのだから、間違いない。これが最良の選択だ。
自分に立ちはだかる障害を、自分の手で取り除ける好機なのだ。
それに──。
ネズミの脳裏を過ぎるのは、ザクロが新しい腕を付けて帰宅したときのことだ。
モモが引きずって運び込んだザクロの肉体──それが纏っていた着物には複数の刺し傷があった。
竹林で斬り合っていた時より明らかに数が増えていた。
あれはモモの蹂躙の足跡だ。
ザクロが動けないことを良いことに、凶刃を振るって虐待したのだ。
「やります」
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