第三十話 暮森林にて

 暮梨村の一帯は、北を山岳に囲まれた窪地となっており、そこから南下して河川を渡れば、広大な森〈暮森林くれしんりん〉が広がっている。

 話によれば、ザクロとネズミが住む住居から南に進んで、河川を渡ればその森に辿り着くという。


 そんな暮森林では一年に数回、歩く羅刹の屍──灰神かいじんが徘徊していることがあるらしい。

 灰神の多くは殺人衝動に駆られたこの世の厄災そのものだ。

 放置しておけば暮梨村に住む村人たちに大きな危害を及ぼしてしまう。


 それらを未然に防ぐのが、今のリンゴとミカンに与えられた役目であるらしい。

 母から与えられた大事な仕事であり、なにより人命にも関わっている重い責務だ。

 道中、彩李が言う。


「現在はリンゴ様の鮮花で生み出したツバメに暮森林を監視して頂いておりまして、もう間もなく一体の灰神がこちらへ到着するとのこと」


 妙に嬉しそうに『見せたいもの』などと言うものだから、心が上向くものであると思い込んでいた。


「見せたいものって……」


「いずれ、ネズミ様も戦うことになる相手にございます」


 その言葉に、ネズミは萎れて背負っているザクロを落としそうになった。

 ザクロは相変わらずネズミの髭を手綱のように掴んで離さないが、背中で大人しく眠りこけてくれている。もうネズミに痛みを与えることもない──はずだ。


 ところは暮森林くれしんりん、その木陰。

 三人は件の暮森林に到着して、広葉樹の陰に身を潜めた。


「お、早速いますね」 


 言うと、彩李が指で五十歩向こうを指し示す。


「「アン……シン……アン……シン……」」


 腐った身体を引きずって、森を歩く男が一人いた。

 開いた眼は白濁し、身体の至る所に蛆が蠢いている。破れた衣服は血に染まり、黒ずんだシミが点々とそこらに散っていた。

 青白くなった首筋と頬には白い花が何本も生えており、そこから花粉の如き黒い灰を舞い散らしている。

 生きている人間ではあり得ない、不自然なほどに肉体を痙攣させており、千鳥足で歩むその姿は。


 まごうことなき灰神かいじん──羅刹が死して、鮮花に肉体を乗っ取られた姿だ。


「「シン……アン……シン……ラズ」」


 意味のわからない言葉を吐くその口からは、男の声と女の声を同時に発声したような、心地の悪い二つの声を溢していた。

 ネズミは息を呑んで驚嘆する。実際に歩く姿は初めて見たが、想像していた姿の五倍は気味が悪い。視界に捉えているだけで呪われそうだ。


「あれと、戦うことに……俺も……」


 呟くと、身を屈める彩李があっけなく首肯する。


「左様でございます。いずれリンゴ様やミカン様と共にあれらと戦うお役目を任せられます」


「俺……刀を振ったこともないし、まだ鮮花も開けてないのに……」


「羅刹になった者の宿命でございます。戦えない羅刹は飛べない鳥と同じ」


 彩李の言葉の針に刺され、ネズミは眉尻を下げる。

 今の自分は飛べない上に鳴けない鳥だ。羅刹の宿命とは、なんと厳しいものなのか。


「はじまりますぞ」


 彩李が指差した先、何者かが灰神に向かって近づいている。

 長女リンゴだ。燦爛たる白刃を抜き放ち、颯爽と森を駆けていた。


「「アン! シン! アン! シン! ダカラ!」」


 灰神は白濁した瞳でリンゴを見つめ、瞬時に腐った肉体を突貫させる。

 辿々しく走る灰神から、より一層と黒い灰が吹き出し舞い散った。そして、灰神の周囲で葉や木片、石ころが目線の高さまで浮遊する。


「念動力か。おもんな」


 リンゴが退屈そうに吐き捨てた。

 鮮花の能力の中ではありふれた能力であると、ネズミの隣でウメも呟く。


「行くでッ」


 リンゴも自身の鮮花を開花させる。

 チチチチチチチチチチ

 喉が震え、鳥のさえずりと似た開花の音が森に響き渡る。すると、リンゴの右義足、その腿から三つの穴が開門し、ツバメが三羽、勢いよく飛び出して主人の周りを旋回した。

 リンゴが手で指示を送ると、ツバメは走る主人を追いかけ、風を切って飛翔する。


「「アン! シン! ダ!」」


 灰神も負けじと、浮遊させた大量の石と木片を豪速球で飛ばし、リンゴの肉体を強襲した。

 一つでも急所に当たってしまえば致命傷は必至。

 しかし、リンゴとツバメにとっては遅過ぎたようだ。


「遅いでッ」


 次から次へと飛来する森の凶器群を、ツバメは跳弾のように跳ね飛んで叩き落とす。

 鮮花で生み出したツバメは、異常な身のこなしをもって灰神を圧倒する。

 しかも、そのクチバシは上質な太刀と同程度に丈夫なようで、硬い飛来物を幾度もクチバシで弾いているにも関わらず、調子を落とすことなく飛び続けている。


 そんなツバメと連携し、リンゴも舞うような剣技を振るっていた。

 一つ──二つ──三つ。木片を義足で蹴り上げ、尖った石を打刀の側面で叩いて逸らす。灰神の操る無数の飛来物は、リンゴに傷一つ付けることなく役目を終えてゆく。


「返すで──ッ」


 一つ、また一つ。リンゴとツバメで弾いた飛来物が、逆に灰神の肉体に着弾した。

 打ち返しているのだ。しかもわざと鋭利な物を選んで、次々に灰神の肉体に突き刺していく。


「「アン! シ──ッ」」


 胸元に大きな木片が突き刺さり、たまらず灰神が後退した。

 死してもなお、戦況を観る頭は残っているようだ。


「そら、ボンクラ」 


 リンゴが退屈そうに嘲った直後、たじろぐ灰神の片膝が崩れ落ちた。


「「アン──ラズ──ッ」」


 小さく呻く灰神、その背後で、優雅に浮遊する一羽のツバメ。

 リンゴは飛来物を弾きながら、こっそり三羽の内一羽を灰神の背後に忍ばせておいた。

 後は拍子を合わせてツバメに指示を送り、リンゴが弾いた石を背後のツバメにも弾かせる。そして、その石の着地点は灰神の膝裏──つまり。


「膝カックン、得意やねん」


 灰神の体勢が崩れるや否や、浮遊していた全ての石と木片が地に落ちた。どうやら駆ける道に障害はなくなったようだ。

 遠くで見守るネズミが瞬きをする間もなく、リンゴは既に灰神との間合いを三歩の距離まで詰めていた。


「「アン……」」


 灰神が姿勢を立て直すために立ち上がろうとしている。

 しかし、鋭く眼光を瞬かせたリンゴが白刃を上段に振りかぶっていた。


「「シン……」」


 灰神の白濁した瞳が、腐った相貌が、自身の死を悟ったように固まる。

 そして、悲痛に歪んだ。死体の癖に、泣きそうな顔をする。


「ほんま堪忍な」


 リンゴは短く謝罪すると、舞うように肉体を一回転させて刃を放つ。

 振るった白刃が陽光を反射し、灰神の瞳に白く焼きつく。

 そして一筋、死体の首に線が引かれた。

 その赤い線がゆっくりと時間をかけて上下に広がると。

 死体の首が、腐った胴からこぼれ落ちた。


「終わりましたな。ネズミ様もあれを目指さなくてはね」


 彩李が満足げに言うと、ネズミの頭に『無茶』の二文字が踊り狂う。


「他の仕事をお願いします」


「いやいや、何も急にリンゴ様のように戦えとは言いません。明日、ネズミ様がどこまでできるのか、紅子様の前で模擬試合を行いますので」


 ネズミの相貌が硬直した。模擬試合となると生きた相手と戦うことになる。

 それはつまり──。


「俺は、誰と戦うんですか……?」


「恐らく、姉妹の誰かと」


「ぉぉぉ、なるほどねぇぇ」


 ネズミは天を仰ぎ見て木漏れ日に顔を照らす。初夏の日差しをもってしても、緊迫で冷えた身体はちっとも温まらない。

 なんと気が進まないことかと腹の底で嘆くと、背中で身体を預けるザクロの寝息が、ネズミの首筋を優しく撫で、掴まれていた両髭がそっと解放された。

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