第二九話 寝相

 障子を照らす朝日が頬を温め、ネズミは優しい朝を迎えた。

 随分と晴れやかな気分だ。これほどすっきり起きたのは生まれて初めてかもしれない。


「ああ……良い朝だ……」


 気怠さもなく、寝ぼけもなく、頭にあるのは圧倒的な高揚感。

 焦りもなく、不安もなく、胸に沸くのは未来への期待感。

 神との抱擁の感触を思い出すと、余計に気分が上向きになる。


 昨日、紅子と抱擁を交わし、気がつけばその腕の中でネズミはぐっすり寝ていたらしい。ザクロの介護のために睡眠時間を削っていたせいか、半日にも及ぶ時間、神を自分の睡眠に付き添わせてしまった。

 ひどく迷惑をかけたことを謝罪すると、


『寝る子を抱くのは心地が良い。またこんな時間を設けましょうね』


 そんなことを言って、優しくネズミの頭を撫でてくれた。

 夜が更けて香梨紅子が立ち去った後、ネズミは食事も取らず、寝ているザクロの隣に布団を敷いてまた就寝した。

 圧倒的な母性に包まれた充足感だろうか。半日も寝ていたというのに、吸い込まれるように布団に倒れ込んだのを覚えている。


 幸い、隣で寝ているザクロの呼吸は穏やかで、容体も安定しているようだった。悪い夢にうなされて寝汗をかいていることもない。

 少女の奏でる愛らしい寝息と共に眠りに落ち、清々しい朝を迎えたのだ。

 ネズミは布団から身を起こし、自然とザクロの化粧台の方へと足を進めた。

 獣の身になってから、鏡を見るのが怖くてしょうがなかった。水面に映る自身の鼠の姿がトラウマとなり、鏡を視界に入れるのをひどく忌避していた。

 今は自然と向き合える気がする。


「…………良いじゃん」


 丸い漆塗うるしぬりのふち、その鏡面に自分を写せば、可愛らしい顔と対面した。

 クリッとした目玉と手触りの良さそうな灰色の体毛、立派に左右に分かれた六本の黒い髭。

 何を恐れていたのか。愛嬌のある良い顔だ。決して怯えられるような容姿ではない。

 なぜ初めて会った村人達は、『化け物だ』などと罵声を浴びせてくれたのか。抱擁法のために村を訪れた際、なぜあんなに冷たい視線が自分に注がれていたのか。

 理由は即座に思い浮かんだ。


 ──馬鹿なんだな。


 カリンも言っていた、無知蒙昧な猿どもめと。今なら全面的に同意できる。鮮花を持たない普通の人間たちだ。五つの戒めがなければ、秩序を乱して神を煩わせる、浅はかで残念極まる阿呆なのだ。神の抱擁を受けたことのない、惨めな生命なのだ。


 ──ああ、なるほど。もしかして。


 鮮花を宿したネズミに嫉妬していたのだ。神と一体になれないその身を呪い、特権を得たネズミに、怒りの矛先を向けていたのだ。

 少年はクツクツ嘲笑う。神に抱擁されたその思い出を抱きしめて、村の者たちを心の中で侮蔑し、軽蔑し、見下して。

 そうして口元を歪に曲げて、鏡の前で仄暗い笑顔を浮かべていると。


「イダぁい!!」


 突如、右頬に走った激しい痛みに思わず悲鳴を上げた。

 痛みの原因を探れば、寝ていたザクロがネズミの隣まで寝転がり、ネズミの長い髭を引っ張り掴んでいた。


「気に食わねぇ……グシャグシャにしてやろうかテメェ……」


 静かな怒りを込めて言った少女は、されど瞼を閉じていた。


「えェ、超怖い寝言?……か?」


 怒気が込もっていた割には穏やかな寝息を立てている。確かに熟睡しているようだが、ネズミの右に生える髭を、義手となった右手で掴んで離さない。

 ネズミは恐る恐るザクロの腕を掴み、指を開かせて髭の解放を試みるも。


「イダダダダ!」


 親指を開かせると、腕を引いてネズミを引き倒す。なんとか倒れた状態でザクロの腕を再度掴み、人差し指を開らかせると、親指がまた閉じてしまった。

 あれこれ格闘していると、ザクロが盛大に寝転がり、起き上がろうとしたネズミを一本背負いの如く板床に叩きつけた。


「がぁあああ! 死んじゃう!」


 寝ている癖にやたらと執念深い。溜まった鬱憤を晴らすような乱暴な寝相だ。

 そこでハタと気がつく。ザクロは無意識下で咎めているのだ。先程の自分が走らせた、人間を侮辱するような思考を。少女は事前に忠告してくれていた。カリンやモモのように他者を見下す者にならないようにと。


「ザクロさん、ごめんなさい。調子に乗りました。さっきの俺は間違っていました! 惨めな阿呆は俺の方でした!」


 その場で膝つき手をついて、床に頭を擦り付けた。

 すると、精一杯の謝罪が功を成したのか、ザクロの握力が少し弱まった気がした。

 これを逃す手はないと、ネズミはザクロの腕に飛びついて振り解こうとする。

 が、しかし、そうはさせじと空いたもう一方の生身の左手が、ネズミの左の髭に素早く伸び、瞬時に掴み取って寝転がる。ネズミはまた勢いよく床に叩きつけられる羽目になった。


「だァッ、お終いだもう! 一生このままだッ!」


 すっかり戦意喪失したネズミは、絶望を嘆き、悲嘆に暮れた。

 もはや、両髭を掴まれて身動きが取れない。ザクロの寝相はより一層と激しさを増し、ネズミもろとも床板を転がり続ける。

 転がれば転がるほど、両頬に走る激しい痛みによって更に戦意を奪われ、ネズミを失意のどん底へと叩き落とされた。


「いっそ殺せぇ!」


 熊に喉笛を噛まれた鹿も、こんな気分なのだろう。

 ただただ、この地獄から抜け出したい、はやく楽にしてほしい。

 二人でくんずほぐれず地獄の回転を以って板間を転がっていると。


「おやおや」


 ネズミの願いが届いたのか、玄関の戸が緩やかに開け放たれた。


「起きてらっしゃいますね、ネズミ様」


 天の助けか、あるいは羅生界の糸が結ぶ縁というものだろうか。

 伊紙彩李が梅干しのような笑顔を浮かべて板間に上がり込んで来る。


「これは、何をなさっておいでなのですか?」


「助けてください! ザクロさんが俺の髭を離してくれないんです!」


「あらあら、まあ……」


 ザクロと転がるネズミの悲痛な訴えを聞き届けて、彩李はしゃがんでザクロの両腕を拘束してその場に固定した。


「ありがとうございます!」


 ネズミがその協力に感謝したのも束の間、彩李が訝しげな顔をする。


「ここからネズミ様が解放されるのは……不可能でございます」


「ちょ、諦めるの早!」


「ザクロ様はミカン様の次に怪力でいらっしゃいますから、私ではこの拘束を解くことは叶いません」


「じゃあ、ハサミかなんかで髭を切ってくれません?」


 彩李はネズミの提案に「うーむ」と首を傾げて思案した。

 何を迷うことがあるのかとネズミが口を開きかけると。


「長い髭を切るという行為。それは少々縁起が悪いことでございます」


「え、なんでです?」 


「羅神教は長い糸を縁起物としています。羅生界の光輝く糸のように、細長いものは生命の源流であると尊ばれております。故に、蜘蛛の巣でさえ中々壊すことは致しません。髪の毛や髭を切る際も、冷水で身を清めてから瞑想や祈祷を行うのが常でございます」


「え、でもこのままだと凄くつらいんで……切ってから冷水やら瞑想をするのはなしですか?」


「なしでございます。ザクロ様が起きるのを待つしかありますまい」


「そんなぁ……」


 しばらく悲嘆に暮れたネズミは、そこでふと初日の出来事を思い出す。


「そういえば先日、紅子様に長い尻尾を切って頂いたのですが、紅子様にお願いすれば」


「このような下らぬ些事に、紅子様の手を煩わせてはなりませんぞ」 


 ネズミの思いつきに、彩李の厳しい声音が重なった。その眼はいつも孫を見るような朗らかなものではなく、躾のなっていない犬を見るような、そんな厳しさが込められていた。


「で、ですよね。ごめんなさい……調子に乗りました……」


「紅子様は羅神様にございますから。冷水を浴びずとも長い糸を断ち切ることができます。ですが、あまり頼り過ぎるのは関心いたしません。我らは身の程を弁えなければなりません」


「はい、気をつけます……」


 すっかり意気消沈したネズミは力無く耳を垂れた。それに僅かばかりの罪悪感を覚えたのか、彩李はネズミに苦く笑いかける。


「では、こうしましょうか」


 言うと、彩李はザクロの襟首を掴んで引き寄せ、手際良くネズミに半身を起こさせてその背中に密着させた。


「おぶっていればよろしい」


 背中にザクロの柔らかい温もりが当たり、ネズミはつい顔が綻んでしまう。


「なんか……照れくさいですね……」


 散々、抱擁法であらゆる人間と密着してきたのにも関わらず、相手がザクロとなると妙に心が浮ついてしまう。


「ホホホ、ザクロ様にもネズミ様にも、よき縁が結ばれておりますね。よきかなよきかな」


 微笑ましいとばかりに首肯して、彩李はザクロの両足をネズミの脇に挟ませ、背中を支えて立ち上がらせた。 


「実はネズミ様にお知らせがございました。そのためにここへ参った所存で」 


 言いながら、彩李はそそくさと玄関に足を向ける。


「見せたいものもございますので、共に暮森林くれしんりんに参りましょう」


 彩李の嬉々とした声音に、ネズミは首を傾げて老婆の背中を追った。

 

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