第十五話 抱擁法

「ここで、ネズミ様に羅神教の修行法の一つを実践して頂きます。鮮花を開く糸口になるやもしれませんから」


 相貌を引き締めた彩李が、数名の村人に指示を出し、桜の木下に座布団を一枚敷かせ、その四隅に金属で出来た香炉こうろを配置させる。 


「ささ、こちらにお座りください」


 彩李に誘われ、ネズミは座布団の上に尻を預けた。


「なんか……緊張するなぁ。ここから何を……すれ……ん?」


 ふと頭頂部に視線を感じ、ネズミは頭上に視線を移す。

 すると、枝垂れ桜の枝の上に、ザクロが猫のようにもたれていた。

 白い髪と白い着物が陽光に照らされ、淡く光る桜の花とよく溶け合っている。

 ネズミと目が合うと、ザクロは人差し指を唇に当てて訴えるような眼差し送ってよこす。


 ──隠れんぼでもしているのか?


 準備を進める彩李に悟られぬように、ネズミは頭上に小さく頷いた。


「座ってるだけでいいんですか?」


香炉瞑想こうろめいそうという修行でして。今からしばらくここで──」


 彩李の言葉の途中で、突然、四隅に置かれた香炉から煙が上がった。

 誰かが火を着けたわけでもなく、元から火がついていたわけでもない。

 不可解な現象にネズミは目を瞬かせていると、彩李が緊張を帯びた眼で言う。


「ネズミ様の鮮花は、とてつもない能力を秘めているのやもしれません」


「そうなんです? 何もしていないのに驚かれても……」


「この香炉は紅子様が作成した特殊な香炉にございます。羅刹が近くに座していると、その鮮花の強さに比例して煙が上がる仕組みなのですが」


「思いの外、早かった?」


「はい。リンゴ様でも一刻(約三〇分)は煙が上がらなかったというのに……」


 嬉しい誤算。思わぬ収穫。ネズミはそう読み取った。

 近くにいる彩李と頭上にいるザクロに反応したのではないかと邪推するも、言わぬが花という言葉が頭に過ぎる。

 それに、興味を示した村人達がいつの間にか、ネズミと彩李の周りを囲み、眼を爛々と輝かせている。その熱を冷ますのはひどく申し訳ない。


「次の段階に進みましょう! そこの者、こちらへ」


 妙に急かしながら、彩李が一人の女性を呼び寄せる。

 年は二〇代前半、素朴な美しさと清純さを兼ね備えた、整った見目をしていた。


抱擁法ほうようほうを行う。良いな?」


 彩李が聞くと、女性は厳かに首肯して着物の襟元を整える。

 そして、ネズミの眼前で織り目正しく膝を付くと、


「ネズミ様、失礼致します」


 軽い会釈の後、突然、ネズミに勢いよく抱きついた。


「ファッ!?」


 混乱したネズミを置き去りに、首に腕を回し、首元に顔を深く埋めて甘い吐息を漏らす。胸も腰もぴたりと密着させるその所作は、まるで恋人にするようなもので──。


「い、彩李さん? こ、ここれは?」


「羅神教の修行の一つ、〈抱擁法ほうようほう〉です。ネズミ様もほれ、しかりと抱きしめてください」


 彩李は催促するようにネズミの両腕を取って、抱きつく女の背中と腰に回させる。

 ネズミも戸惑いながらも、女性の全身を支えるようにぎこちなく抱きとめた。

 ザクロに見られているという気恥ずかしさで、頭が沸騰しそうだった。


「こんな……修行があります……?」


「あります。鮮花は生命の拍動に敏感ですから、これが最も有効であると紅子様がおっしゃられました」


「そ、そうなんですね……なんか卑猥なような……」


「はるか昔はもっと卑猥でした。三代前の羅神様は、男女問わず性交を重ねたそうです。時には観衆の前で。時には墓場で数人の男女と激しく」


「墓場で!? それって……いや何でもないです」


 曲がった欲望を実現するため、修行という体裁を整えたのでは? そんな疑問を口にするのは流石に不敬に感じて、ネズミは口を閉ざした。

 それに、胸に当たる女性の柔らかな双丘と首筋に当たる官能的な吐息が、ネズミの思考をひどく曖昧にした。


「で、どうです? ネズミ様は今、何を感じていますか?」


「おっぱ……嬉し恥ずかしの感情で顔面が爆発しそうです」


「もっと素直にはっきりと、雄弁に表現してください。でないと、修行になりませんので」


 彩李の注文に、ネズミは顔で僅かに難色を示すも、周囲の村人と頭上のザクロの真剣な眼差しを受けて思い直す。恥ずかしがるだけでは誰の納得は得られないようだ。


「その……とてもムラムラします。名も知らない女性と抱き合って、気分がとても高揚しています。男って悲しい生き物ですね。さっきまで不安でいっぱいだったのに、こうして抱擁されただけで有頂天になっちゃって。もう一生このままでいいかも。超幸せです」


 ネズミが語り終わると、何故か周囲で拍手が巻き起こる。

 腕の中にいる女性も一層とネズミに密着し、彩李も大いに手を叩いて喜んでみせた。

 当の本人は、まったくもって意味がわからず、その異様さに恐怖さえ感じていると。


「羅刹の喉奥に宿る鮮花、それは人々の祈りから生まれる奇跡の花と呼ばれております。皆の祈りの結実が、ネズミ様のような素直で愛されるべき者に与えられたことを、皆が喜んでおるのです」


「そ、そうなんだ。どう思えばいいか良くわかりません……」


「羅刹は人々の安寧を支えるために存在しています。故に、あなたが命の温みと重みを胸に抱いたとき、どのような感情を抱く者なのか。それを皆知りたかったのです」


「なるほど? ただただ、スケベな本音を漏らしただけなんですが?」


「他者に抱く感情の全ては愛情に繋がります。肯定的な感情の発露を見て、あなたの好ましい心根が伝わったのでしょう」


 そういうものなのかと、ネズミは半ば強引に自分を納得させた。


「それで、ネズミ様。そうして女と抱き合っていると、喉の奥が疼いてはきませんか? 乾いたり、痒くなったり、痛みが走ったり」


 問われて、ネズミは喉元に指を当ててその感触を確かめる。


「まったく」


「そうですか……。むかし、抱擁法の最中に勝手に鮮花が開いた羅刹がおったそうです。ネズミ様の鮮花も都合良く開いてくれればいいものを」


 どこか咎めるように彩李が言うと、抱きついていた女が空気を読んだのか、名残惜しそうにネズミの肉体から離れて彩李の背後に控えた。


「クソゥ、ずっと抱きついてくれていたらいいものを! なんか切ない気持ちですッ」


「素直に表現しろとは言いましたが、余計な願望まで口に出さなくてよろしい」


 窘める声をおぼろげに聞きながら、ネズミは頭上のザクロを盗み見ると。

 口を押さえて必死に笑いを堪えていた。

 桜の花々の隙間から見えるその光景が、とても愛らしく。


「…………」


 ネズミは心がひどく温まるのを感じる。知らない女に抱きつかれるより、はるかに胸が高鳴っている。抱擁法の成果なのか、その愛らしい笑顔を知っている気がした。


 旧知の仲だったのか、失った記憶の中の既視感にネズミは歯噛みする。ザクロとの思い出がすんなりと出てこない頭の箪笥に、鉄槌でも振り下ろしたい気分になった。


「ネズミ様、どうされました? ぼーっとしている暇はございません。まだまだ抱擁法を続けてもらいますよ。ほれ」


 彩李の合図と共に、小さな足音が駆けてくる。

 一〇歳に満たないであろう元気そうな女児が、ネズミに勢いよく飛びついた。


「ネズミ様! フワフワァ!」


 がしりとネズミは抱きつかれ、女と同様、おっかなびっくり女児の背中に手を添える。


「先ほどと同様にお願いします」


 彩李の催促に、ネズミは気を取り直して眼前の生命に意識を集中した。


「子供の軽さと柔らかさに怖くなりました。俺の抱擁で潰してしまわないかと。それと、木の幹にしがみつくクワガタみたいな子だなっと思いました」


 感想を述べると、女児はあっけなく離れて何処かへ駆け出してゆく。


「ほれ、次の者!」


 数打てば当たるだろうと、彩李は次から次へと村人を呼び寄せてはネズミと抱擁させる。 


「尊敬の念が浮かびました。畑仕事をしていたのか、土の匂いと汗の酸っぱい匂いがします。お疲れ様でした」


 男も女も、年齢さえも関係なく抱きつかれ続けて。


「畳に直で寝てます? 全身の筋肉が硬くなっちゃってるし、布団で寝て欲しいなぁ。それと、ボケて動物の糞でも触りました? 手から排泄物の香りが……」


 五〇人を超えた辺りから、徐々にネズミの感想もいい加減なものになり、彩李に盛大に溜息を吐かせた。


「一応お聞きしますが、喉に疼きは?」


「まったく……」


「お疲れのようですし、次で最後にしましょう」


 彩李が最後に誘ったのは、矍鑠かくしゃくとした老爺だった。年は七〇を超えているだろうに、筋骨が太く恰幅かっぷくも良く、背骨を真っ直ぐに立てて快活に笑っていた。


「ネズミ様、お疲れですね! はははッ、よろしくお願いしますね!」


 やたらに声が大きい。相貌にも覇気が宿っており、ネズミは存分に気圧された。

 居住まいを正す隙も貰えず、荒々しく抱き寄せられ、今まで抱擁した誰よりも力強く全身を締め上げられる。


 粗野で無遠慮な振る舞いに、ネズミは呆れまじりに老爺の背中に腕を回す。

 それと同時だった──視界が明滅して、鋭い頭痛が走る。


『やめて! 息子を殴らないで!』


 張り裂けんばかりの女の絶叫が、ネズミの頭の中を木霊した。


『お願い! すべて告白します! だから息子だけはッ』


『痴れ者め! 最早、お前の罪などどうでもよい。お前の息子はとんでもないことを!』


 次には腹部に鈍い痛みが走り、口の中に血の味が拡がる。じわりと額から汗が滲み、焦燥で背中が沸騰した。


「あんた……よくも……」


 憎悪が込められた呟きは、自分自身の舌先から転がっていた。

 なぜそんなことを言ったのか、なぜこんなにも腹が煮えているのか。ネズミは自分が理解できなかった。


「ネズミ様ッ!」


 彩李の慌てた叫声と、周囲から張り裂けんばかりの悲鳴が上がった。

 今何が起こっているのか。自分が今何をしているのか。思考が白濁としてよくわからない。


「ネズミ様ッ、どうされたのですか!? お気を確かに!」


 彩李が声を上げて、ネズミの腕を必死に掴んでいる。まるで自分が老爺によからぬことをしようとしているような、そんな焦りが伝わった。


 しようとしていた。


 ネズミは老爺の胸ぐらを掴んで押し倒し、馬乗りとなって拳を大きく振りかぶっていた。その凶行を自覚してなお、ネズミは止まる気が起きなかった。


 ──やるべきだ。こいつをしこたま殴らなければ、腹の虫がおさまらない。 


 ネズミが憤怒を帯びた瞳で獲物を射抜くと、老爺は怯えて小さく悲鳴を上げる。

 老爺が逃れようと必死の抵抗を行うも、それは叶わない。

 香梨紅子に強化されたネズミの腕力から逃れることは、通常の人間では不可能なことだ。


 煩わしいとばかりに、ネズミは腕にしがみつく彩李を振り払う。

 もう邪魔する者はいない。真っ直ぐな殺意を抜き放ち、とうとうネズミの拳が放たれた。

 老爺の顔面に拳が炸裂する──その寸前。

 ネズミの肉体に強い衝撃が加わり、その場から大きく吹き飛ばされた。


「何してんだぁああッ! 落ち着けバカ野郎が!」


 枝垂れ桜の上で寝そべっていたザクロがネズミの暴走を止めるため、地に降りて体をぶつけて、ネズミを組み伏せたのだ。


「あのジジイに何をされた!? 私達の怪力で人間なんて殴ったら殺しちまう!」 


 殺しても良いと、先ほどまで思っていた。

 なぜかはわからない。何をされたかもわからない。


「俺は……」


 ただ、そうしたくて堪らなかった。


「わかりません。ただ無性に腹が立って。今も──」


 殴りたい、そう言おうとしたネズミは咄嗟に口を噤んだ。

 ザクロの悲痛に歪む相貌を見上げて、途端に頭が冷えてゆく。

 しばらく見つめ合っていると、徐々に自分のしようとしたことに戦慄を覚えた。


「俺は……なんてことを……もう少しで人殺しを……」


「二度としないと、約束できるな?」


 ネズミを睨めつけるザクロの双眸が、今にも流れ出そうな涙を堪えていた。

 これほど悲しませるなら、僅かに燻る憤怒の炎にも水をかけられる。


「ごめんなさい。二度と、しません」


「ほんとうだな?」


「はい……絶対に」


 見上げるネズミと、見下ろすザクロ。

 両者の間に重い沈黙が漂い、ただ見つめ合うだけの時間が流れる。

 そうしていると、ネズミは喉の奥に──。

 微かな、疼きをおぼえた気がした。


       ✿


 そこからの道中の記憶は、ネズミにとってあやふやなものだった。

 ザクロに手を引かれて帰宅し、夕餉に焼いた魚と白米を頂いたが、味はしなかった。

 会話をいくつか交わしたような気がするが、内容も覚えていない。


 夜が更ける頃にはザクロの姿は既になく、一人で大人しく布団で横になった。

 枕に顔を埋めていると、いくつもの雑念が過る。


 鮮花が開けば、記憶が戻るだろうか。あの老爺と自分との関係を思い出せるだろうか。

 もし思い出した時、自分はまた殺そうとするだろうか。

 もし殺してしまったら、ザクロをまた悲しませてしまうだろうか。


 あの少女の悲しむ顔を見るのも、初めてではない気がした。

 震える声と、涙を流す姿を知っている気がする。

 ザクロを悲しませた過去があるなら謝りたい。


「ごめんなさい」


 やはり軽い。過去を忘れ去った自分の言葉には重みがない。

 全部思い出したい。そう願うと、胸から込み上げるものがあった。

 花を開けば、忘れ去ったすべてを取り戻せるだろうか。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る