第十四話 暮梨村にて②

 しばらく後、村の中に入ったネズミは、叫び出したい衝動を必死に抑える羽目となっていた。


 ──あーぁ! やっぱりこうなった! 騙された! 嘘つきババア!


 ネズミの姿を目撃した村人は、もれなく眼を見開き固まった。

 口を開けて呆然とする者。手に持っていた水桶を落として足元濡らす者。

 赤子は激しく泣き喚き、子を抱く母親がネズミに見えないように我が子をその身で覆い庇う。

 逃走する者はおらずとも、ネズミの心を存分に抉る阿鼻叫喚の光景になってしまった。


「本当に説明したんですか!?」


「ホホホ、しましたとも。ですが、通常の人間が驚かない方が無茶というものです」


 彩李の言う通り、事前に聞かされていたとしても驚愕を禁じ得ないのだろう。老婆と手を繋いで二足で歩く巨大なネズミが目の前にいるのだから、身が竦んで当然だ。


「さぞ心細いでしょうが、胸を張っていなさい。背筋を正し、堂々としていれば何も問題はありはしません。このまま村を練り歩いて皆の目を慣らしましょう」


 無茶を言うババアだ。どんな顔をして胸を張れと? この珍妙な肉体を晒してどうして背筋を伸ばせると言うのだ。


「ああッ、もう!」


 ネズミは心中で彩李に八つ当たり、ヤケクソ気味に背筋を伸ばして辺りを伺った。

 視界に入る平家はすべてが木造、どの家も似たような作りで、一見して貧富の差はないように見える。


 今しがたネズミの姿を見て、「えらいこっっちゃ!」と腰を抜かした青年も、「あれがッ」と息を呑んだ婦人も、柄のない地味な着物を着用していた。


 男はともかく、成人女性であればかんざしこうがいで身を飾り、口に薄紅でも引いてもいいだろうに。村を闊歩する誰もが必要最低限、質素な見目に留まっている。


「彩李さん。ここではみんなどんな仕事をしてるのですか? 生活ぶりに差がないような」


「仕事は様々ですが、金銭のやり取りはございません。金銭は不幸を招く種となりますので、暮梨村では禁じております。金銭を持ち込ませないために、他の村や人里とも交流を絶っておりますゆえ」


「え、ああ。じゃあ、物々交換ですか?」


「物々交換といえばそうなりますね。しかし、ここでは〝与え〟はすれど〝欲する〟と言うことはあまりありません。皆が率先して生活に必要なものを自ら作り、人に分け与え、支え合って生きております」


「食料でも?」


「食料でも、着物でも、紙でも、どんな物であろうと皆で作り、譲り合います」


「……心根の優しい人が多いんですね」


「そうですね。それもそうなのですが──」


 彩李が熱を帯びる目でネズミを振り返る。


「紅子様の教えにございます。多くを持つ者は恥を感じるべきなのだと。多く持つということは、人に与え切れていない、恥であると」


「恥? ですか?」


「かつて古き時代の権力者たちは、与えるどころか、自分を肥え太らせるために多くの命を戦争に投じさせておりました。身に余る財を持てば、その財に囚われ、一切れの財であっても失うことを恐れるようになる。なので、人に『与える』または『失う』を最上の在り方としておけば、人は健やかに生きていけると、紅子様は仰りました。故に、紅子様の信者はすべて、他者へ差し出すのでございます」


「うぅん……?」


 ネズミはつい疑ってしまう。誰もが人に与える世界、それは本当に実現できるのか。誰もが自分を他者と比較して、優越と劣等の間を彷徨い歩く。

 だから、他者より多くを持っていたいという願望に抗えるものなのか。


「一日汗して働いた成果を、人にこころよく譲れるものでしょうか? 人より上手く作れた何かを、すぐに差し出せる物でしょうか?」


「疑うのも無理はありません。ですが、ここでは〝与える者〟こそ至高であり尊敬を集めるのです。我々は多くを紅子様から与えて頂いております。病気にならぬ肉体、不作に怯えることのない田畑、そして羅神教による健全な教えによる精神を」


 老婆が淀みなく言った言葉の中で、耳を疑うことを聞いた気がした。


「今、なんて言いました? 病気にならない? 不作に怯えない?」


「そうです。紅子様の能力は〈生物の変質変化〉でございます。故に、村人はすべて病気にならぬ肉体を頂いておりますし、仮に病気になったとしても、紅子様が即座に治してくださる」


「なんと……」


「食料も、土の中の微生物を紅子様に調整して頂いておりますので、どの四季であれ、すべての村人の腹を満たす豊富な食料がございます。娘であるミカン様も果実の成る樹木を際限なく栽培できますので、時折、紅子様を手伝っておられますね」


 香梨紅子とミカンの能力を見る前なら、とてもじゃないが信じられなかったが、今なら得心がいく。ここには病もなく、飢える心配もない、最も死から遠い場所であると。


「紅子様に多くを頂いている村の者は『与える』姿勢を見習い、それに倣っているのです」


「なるほどぉ……」


 ネズミの心に未だにつっかえるのは、その『与える』ことだ。どんなに死から遠い生活を貰っても、金銭の必要のない暮らしを補償されても、自分は貰うことに慣れて甘えてしまいそうだ。自分から率先して与えるにしても、無償で人に与え続けられる自信がない。奥底に下心を抱えてしまうだろう。


 ネズミがそんな省察を巡らせていると、彩李が立ち止まって振り返った。


「手を握られると、握り返したくはなりませんか?」


 そう言って、握った手に優しく力を込めてネズミに笑いかける。


 ああ、なるほど。それはそうだ。反射的にその真心に答えたくなるものだ。与えられれば何かを返したくなるのも人の性だ。朝方、ザクロに言われたように、自分はゴネゴネと考えすぎていたのかもしれない。


 ネズミは彩李の手をそっと握り返して頷いた。


「俺も、人に返せる人になれたらいいなぁ」


「ホホホホ、まこと素直で健全な男の子です。愛い、愛い」


 彩李と談笑しながら足を進めれば、遠巻きに見ていた村人たちも少しずつ警戒を解き、表情が柔らかくなってゆく。


 これは好機だと、ネズミが勇気を出して「こんにちは」と近くを通る女性に会釈してみると、女性は笑って「こんにちは、ネズミ様」と返してくれた。少し戸惑いの色が見え隠れするも、次から次へとネズミが笑いかければ、誰もが笑顔で応えてくれた(多少引き攣っているようにも見えるが)。


 その手応えに心和ませ、会釈を配って村の中を闊歩していると、彩李の足が村の中央でぴたりと止まる。そこは円状の広間になっており、中心にはミカンが咲かせたであろう満開の枝垂れ桜が、惜しげもなく花弁を散らせていた。


「ここで、ネズミ様に羅神教の修行法の一つを実践して頂きます」

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