第十六話 呼び出し
ぺたりぺたりと、獣の足音が暗い室内を響き回る。
「お邪魔、しまぁす」
憚るような低声を発して、ネズミは暗闇を伺った。
幸いなことに完全な暗闇ではない、すでに灯籠の火は灯っており、室内中央の台座まで進めば充分に視界が確保できた。
朝一番、ネズミは香梨紅子と謁見するようにと彩李から指示を受けた。昨日、村で起こした騒動のお咎めを言い渡される。そう考えたネズミは、少しでも心象を良くしたいと駆け足で社へ向かい、刻限まで余裕のある到着と相成った。
「座らせていただきまぁす」
ネズミは虚空に会釈をして、室内中央の台座の前でゆっくりと正座をする。
落ち着きなく社の暗闇を見つめていると、己に言い渡されるであろう処罰の数々が頭の中に過ってゆく。
危険な獣は何処ぞで隔離され、牢獄にでも幽閉されてしまうだろうか。
犬猫のように去勢されてしまうか。最悪な場合、打首なんてこともあるかもしれない。
──もう、逃げちゃう?
そんな出来心を知ってか知らずか、コツンコツンと社の奥から音が鳴った。
香梨紅子の足音だ。主人の帰りを察する犬のように反応して、ネズミは急いで頭を地につけ平伏した。
しばらく、心臓を大いに跳ねさせて待機していると、下駄の心地良い音がネズミの頭上で降り積り、三歩の距離でぴたりと止む。
「おはよう、ネズミ。良い日和ですね」
「おはようございます、紅子様」
「顔をお上げなさい」
言われて、ネズミはゆっくり頭を上げた。
香梨紅子は先日と変わらない装いだった。純白の死装束と顔に纏った白布、その異様な装いでさえ眼前に据えると、違和感の欠片もネズミの頭から消え去ってしまう。
ふと紅子の背後に視線を移すと、モモとカリンが顔を伏せて静かに控えていた。
鳴った足音は一つであったというのに、二人はいつの間に社の中に居たのか。
「ここは少し寒いでしょう?」
不思議に思っていると、香梨紅子がネズミの前まで進んで膝を着く。
ネズミは何をされるのかと身を強張らせると、両頬を優しく手で包み込まれた。
「これで、少しは暖が取れます」
触れられた瞬間、風呂に浸かっているような暖気が全身に駆け上り、ネズミは驚愕して眼を見開く。
「これはッ」
「内緒、ですよ? あまり娘達にこういう風にしてきませんでしたから」
耳元に唇を寄せて、紅子が小声で囁いた。
香梨紅子の能力『生物の変質変化』を自分に惜しげもなく使ってくれた。
その明らかな〝特別扱い〟に、ネズミは大いに萎縮する。
「俺なんかのために、神の権能を……」
「自身をそのように卑下するべきではありません」
紅子は諭すように首を横に振る。
「あなたという生命そのものが、〝
「ざこく……? ですか」
「私たちが住んでいるこの星のことを指します。昔の羅刹たちは、この星の狭さを『狭い石の上にみんなで座っているようで窮屈だ』なんて皮肉を込めて〝座石〟と呼んだそうです」
「なるほど、ご教授感謝いたします」
ネズミが頭を下げようとすると、香梨紅子の手がそれを制止した。
「やはり男の子は愛いものですね。娘ばかりだったもので、つい可愛がりたくなります」
心を撫でる優しい声で、ネズミの顔を滑らかに触る。
「愛い」などと言って可愛がられると、年頃の男子は照れ臭くなるものだが、ネズミはそれどころではない。自分の息が眼前の神に当たらないように必死に呼吸を止めていた。
「息をしてください。そんなに緊張しなくとも」
「は、はい。申し訳ございません」
「フフフ、可愛らしい」
ネズミが紅子に存分に愛でられていると、背後に控える四女モモから棘のある眼差しが注がれる。
「母上、いいのですか? そこのドブ……ネズミは昨日、村の中で暴れとうたそうです」
その進言にネズミは緊張の糸を結び直し、即座に床に額を打ちつけた。
「申し訳ございません! なぜあんなことをしたのか、自分でも──」
弾かれるように行なった謝罪は、即座に紅子の手で遮られる。
「知っていますよ。
「お、俺をお咎めにならないのですか?」
「些事です。咎める必要はありませんよ」
ネズミは盛大に安堵の息を吐き、心の中で小躍りする。
──うわァア、よかったァア!
まるでこの世の春だ。脳内に桜吹雪を舞い散らせ、頭上を仰いで恍惚に笑う。
その様子を見たモモとカリンが微かに舌を打つ。露骨に嫌悪を向けられれば、普段ならば傷つくところだが、今のネズミには微風程度にしか感じはしなかった。
「それより──ザクロに助けられたと、彩李から聞き及んでいますよ」
紅子が言うと、なぜかモモとカリンの相貌が緊張の色を帯び始めた。
「はい。暴走をしている俺を諌めてくれました」
「ザクロは村の中にいたのですね。村の何処に?」
問われて、ネズミはつい口を閉ざした。ザクロは何かから隠れているようだった。それは恐らく文脈から察するに、香梨紅子から身を潜めていたと推測できる。そんな状況で告げ口するようなマネをしていいものなのか。
「ネズミ?」
名を口にされると、不思議と頭の中から迷いが消えた。多くの村人もザクロの姿を目撃している。今更、自分一人が口を噤んでも意味がない。
「村の中央の枝垂れ桜、その枝の上にいらっしゃいました」
「木を隠すなら森の中。あの子も上手く隠れていますね。ねえ?」
紅子が皮肉の籠った響きで背後に同調を求めると、
「「申し訳ございません!」」
激しく床に頭を打ちつけて、モモとカリンが平伏した。
それらの所作を見ても、紅子は平然と微笑みを浮かべる。
「母は謝罪を求めたわけではありませんよ。わかりますね?」
言われて、二人は即座に社の大門へと駆け出す。焦燥を露わにし、ネズミを一瞥もせず社の外へと姿を消した。
それを横目で見届けて、ネズミは罪悪感を募らせる。ザクロに不都合を被らせてしまったのではないかと。
「では、いきましょうか」
門が閉じるのと同時に、紅子はネズミの手を引いて立たせた。
「社の奥で、あなたへの贈り物を用意しました」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます