第五話 叫び

「誰かぁあああ! 助けてぇえ! 頭のおかしい女に襲われていまぁああす!」


 少年の腹底から這い出た咆哮が、辺りの枝葉を揺らすほどの空気の振動となる。叫んでいる本人さえ、肉体が細かく揺れて脳を揺さぶられるほどだ。


 当然だ。当然のことだった。目玉に刃物を突き立てられそうになっているのだから、助けを呼ぶことは当然だった。忘れてしまった発声の仕方も、今は当然、取り戻せていた。


 だが、それはカリンにとっては当然ではないようだった。


「は──?」


 大きな口を開けて咆哮を上げ続ける少年に、カリンの相貌は驚愕に染まった。


「なぜ喋れる!? なぜだ!? 僕の能力が効いていないわけが──」


「お助けをぉおおお! 刃物を持った女に目玉を取られそうです!」


 カリンの疑問を置き去りに、少年はなおも叫び続ける。手足は相変わらず動かせる気がしない。ならば、唯一動かせる口と舌に縋り続けるしかなかった。


「助けてェエエエッ、誰かァアアア!」


「貴様──ッ、黙れ!」


 カリンが焦燥を露わにし、短刀を少年の目玉に向けて振りかぶる。

 助けは来ないか。絶望したそのとき、視界に白色の影が横切った。

 その存在を認識した次の瞬間、少年の顔に赤い飛沫が盛大に吹き付けられる。


「うぐあ──!」


 カリンが盛大に相貌を歪めて悲鳴を上げた。

 短刀を取り落とし、肩に深々と打刀の刀身を沈めて──。


「ザクロォオオオオ!」


 少年から大きく距離を取ったカリンがそう叫ぶと、


「よぉ、ドブスの引き笑いが聞こえたと思えば、可愛い末妹が暇そうにしてるから」


 遊んでやろうと思って、と少年の傍で声がした。

 肉体の拘束を解かれた少年がそちらに視線をやると、先ほど羽虫を産んだ少女がそこにいた。


 透き通るような白い髪、カリンと同じ白い上物の着物、腰には今しがた抜き放たれた打刀の鞘を引っ提げ、興味深げに少年を凝視している。


「お前さんが喋る鼠か? でけえな……何食ったらそうなんの?」


「え、あ、はい……」


 少年がなんとか声を発すると、ザクロは眼を輝かせる。 


「さっき叫んでたのもお前さんか? マジで喋れるじゃん。ハンパねえッ」


 ザクロの感嘆に、少年が返答をしようと口を開きかけると、カリンの怒声がそれを遮った。


「どういうつもりだァアッ、クソ女ぁ!」


 カリンは激しく悪態をつきながら、自分の肩に刺さった刀を勢いよく引き抜き、忌々しく打ち捨てた。その姿をカラカラとザクロは嘲笑する。


「テメエがどういうつもりだコラ。言ったよなぁ? テメエのその不快な花を村の中で開くなって。お姉ちゃんとの約束忘れるとか、ひでぇよな? しかも、こんな可愛い生き物まで虐めてよぉ。脳みそ取り出して川で洗ってこいよ」


 寝小便をした子供を諭すように言って、ザクロは唖然とする少年に振り返る。


「お前さん、それどういう状態? お前の母ちゃんも鼠だったりする?」


「い、いえ……。起きたらこうなっていたんで、たぶん、人間だと思います……」


 戸惑いながら辿々しく答え、少年が二足で立つと、ザクロはあんぐり口を開く。


「二足で立った……当たり前みたいに……。じゃあ、お前さんマジで人間か? カリンの能力が効いてたってことは、そうか……人間か」


 得心したように言って、ザクロは少年の全身をくまなく触り出す。


 傍ら、負傷したカリンはザクロに侮蔑の視線を送り、おもむろに着物をはだけて肩口を晒す。そして、その鮮血に染まる穴の空いた肩口を眼中に収めると、


「ガァアアア!」


 突如、盛大に顔を歪ませて獅子の如く唸りを上げた。

 すると、その声に応えるように、カリンの右肩から勢いよく火花が散る。


「傷が──!?」


 人肌から火花を散らすその光景に、少年は絶句する。さらには、負った刺突痕が火花と共に徐々に塞がっていき、時を待たずして少女の肩はシミ一つない美しい肌へと修復された。


「やってくれたなッ。僕は母上に命じられてそいつを迎えに来たんだ。それを貴様はッ」


 額に汗を滲ませたカリンが責め立てると、ザクロは怪訝に眉を吊りげる。


「は? じゃあ、こいつは母上の能力で──」


「母上の能力は常に美しい! こんな珍妙な生物を生み出すはずがない!」 


「まあ、そうか……あの女の美意識に反するか。じゃあ、こいつはなんなんだよ?」


「母上がおっしゃられたのだ! 新たな羅刹らせつを社に連れてこいと! 貴様の妨害にあったと母上が知れば、どれだけ嘆き悲しまれるか!」


「羅刹? こいつが……? ああッ!」


 ザクロは思いついたように平手に拳を打つと、少年の頬を両の手でむんずと掴んだ。


後天羅刹こうてんらせつってやつか! せいぜいスネ毛とか腕毛がボーボーに生える程度だって聞くけど、お前さん全身丸ごとボーボーだな! 骨の形まで鼠だッ」


 嬉々としてまくし立てられて、少年はひたすらに戸惑う。気の強そうな美人の顔面が至近距離にあり、嬉し恥ずかしの感情が渦巻いて頬が熱くなった。が、それどころではない。


「ちょ、ちょっといいんですか!? オレに構っている場合じゃ‥‥」


 少年が恐る恐る指差した先では、相貌を憤怒に歪めたカリンが、落とした短刀を拾い上げ、ザクロに向かってゆっくりと進んで来ていた。

 その所作に軽く流し目を送り、ザクロは肩を竦める。


「いいんだよ。カリンなんか四六時中キレてるんだから、相手してたらキリがない」


「貴様ァアアアッ!」


 激昂したカリンが、今にもザクロに飛びかかろうとした。

 その寸前。


「何をしているのですか!?」


 後方から声が割り込んだ。皆が一斉にそちらを見ると、背の曲がった老婆がそこに立ち尽くしていた。地面に打ち捨てられた血濡れの刀を拾い上げ、咎めるように声音を上げている。


「何事でございますか!? 二人で喧嘩をしているだけならいざしらず、これはッ」


 川岸でザクロと共にいた彩李いろりと呼ばれていた老婆だ。

 彩李の視線は木の上に呆然と佇む者達と地面で四つん這いになった若者に注がれ、次にはザクロの隣に立っている少年に移ると、瞳を大きく開いて硬直した。


「その者は、例の喋る大きな鼠にございますか? 村の者のはやとちりではなかった……?」


「いいとこに来たな彩李」


 ザクロは驚愕する彩李に微笑むと、


「こいつを頼む。後天羅刹らしい。カリンがこいつを虐めてた。しかも能力まで使ってだ。カリンがこれ以上悪さしないようにお前が見張れ」


 滑らかに告げ口して、少年の背を押して彩李の元まで歩かせる。


「私はそこの馬鹿の後始末をしてくる。後はお察しだろ?」


 言われて、彩李はバツが悪そうに佇むカリンを睨み据えてから、「承ります」と、神妙な面持ちで拾い上げた打刀をザクロに手渡す。

 ザクロは刀を振るって付着した鮮血を払って納刀し、少年の背を一つ撫で付けて申し訳なさそうに柳眉を下げた。


「妹が悪かったな。それに、これから色々大変だと思うが……いや、後で話そう」


「はい……その、助けてくれてありがとうございました」


 少年が会釈すると、ザクロは満足げに微笑み、即座に森の奥へと駆け出した。

 その背中が遠く離れ、森の奥深くへ溶けていくのを見送っていると、隣で老婆が静かに溢す。


「なんと……本当に……お喋りになる」


 少年は老婆の反応に苦々しく笑い、肩を落とした。

 これからどうなることか。

 

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