第六話 ザクロは駆ける

 少年の前から走り去ったザクロは、森の中をひた走っていた。


「後先考えずにやりやがって」


 入り組んだ森の中を真っ直ぐ全速力で駆け抜ける。体に枝葉がぶつかろうとも、足元に生える尖った草花が太ももを切り裂こうとも、少女は真っ直ぐに目的地へと向かっていた。


 森の中を駆け抜けて間もなく、先ほど灰神の首を落とした河川、その中流に到着すると、粗い砂利を踏み締めて、川岸に立って周囲を見回す。


「いるだろ。この時間、釣りか洗濯してた奴」


 さらに歩を進め、川の下流を目指してザクロは走り出す。広い川幅に横たわる大きな石を踏み締め、しばらく進んでまた立ち止まって辺りを見回すと。


「いたッ」


 視線の先で歳の頃は二十代と思わしき女が一人、川の中央に鎮座した大きな岩の下で、身体をぐったりと水に沈めている──カリンの能力の犠牲者だ。


 妹であるカリンの鮮花あざばな、その能力を行使すると、人間はカリンの命令を実行する傀儡になってしまう。

 半径百二十間(約二〇〇メートル)に及ぶ広い範囲に影響が及ぶため、遠く離れた位置であっても、効果範囲の内にいたのであれば、カリンの元まで茫然と歩く傀儡になってしまう。

 それが夢遊病のようにおぼつかない足取りで歩くものだから、石につまづき、頭を強打した者、川で溺れて死亡した者が、後を断たない始末だった。


「生きてろよ!」


 ザクロは川の流れをものともせず、ピクリとも動かぬ女の元に辿り着くと、


「やっべぇ……息してるか? 生きてるか!?」


 伏した半身を両腕で抱き起こし、容体を確認した。ひどく顔が青白く、脈も弱い、水に顔を漬けていたため呼吸も止まっている。恐らくこのままでは半刻もしない内に死に至る。


 急いで女を川岸へと運ぶため、全身を抱えて立ちあがろうとした。


「くそ──ッ」


 が、女の右足が岩下に引っかかってしまっている。

 ザクロは急いで川へと潜り、女の足を掴んで岩から引き抜こうとするも、うまくいかない。足は大岩の下にしっかりと入り込んでしまっているようだった。


「やるしかない」


 カチカチカチ、とザクロは即座に喉を震わせて、帯に差す打刀の半身を引き抜き、自身の腕に密着させる。


 そして、勢いよく右腕を引いて、一筋の深い切り傷を作って正面に掲げた。


「来い! 羽虫!」


 少女が咆哮すると、その傷口の肉をかき分けて一匹の赤黒いスズメバチが顔を出す。

 窮屈そうに全身をしならせ、羽虫がやっとの思いで外へ出ると、ザクロはすぐに羽虫をむんずと掴み、自身の首筋に密着させた。


「私を刺せ! 早くしろ!」


 主人の焦りが伝わったのか、羽虫は力んで、尻から鋭利な針を放り出した。 

 そして、ザクロの美しくしなやかな首筋に、自身の毒の一刺しを深く押し込む。


「──ッ」


 僅かな量で全身に素早く駆け回る神経毒、その猛毒は首筋から血管に注入され、即座に心臓に達した。そして、心臓から送り出された毒は、一気に全身に行き渡る。


「ァァァ──ッ」


 ザクロの眼球から血煙を噴き出る。白目は全て赤黒く充血し、全身を痙攣させると、顔中に稲妻のような血管が浮き出た。


 ザクロの能力はな──羽虫の出産。


 産み出した羽虫の毒の効能は、全身の激しい痛みに嘔吐と目眩。肉体の痙攣が数刻に渡って続き、やがて心臓を麻痺させるものだ。


 だが、神の娘である自分に刺すならば。


「アアア!! イライラスルゥウウウ──!」


 突如、ザクロは雷鳴の如き咆哮を上げた。

 命を脅かす毒液がさらに全身を駆け巡る。神が娘に施した回復力が、慌てて毒を排出しようと血液の循環を加速させる。

 命の灯火を消そうとする猛毒と、灯火を再燃させようとする神の権能。

 少女の肉体の中でそれらが激しく闘争を行うことで、爆発的に身体能力が向上するのだ。


「ジャマダァアア──!!」


 ザクロは強化された膂力を以って、女の足を拘束する大岩を持ち上げる。

 そのまま、ちゃぶ台のように前方にひっくり返し、完全に障害物を取り除いた。

 急ぎ、解放された女を抱き寄せて、ザクロは膝を曲げた。


「ガァアア──!!」


 全身に力を入れて、毒により強化された脚力で一気に飛び上がる。

 およそ九間(約16メートル)の高さまで跳躍し、一つ飛びで川岸に着地した。


「もう少しだから! 死ぬんじゃねえぞ!」


 地に足がつくなり、瀕死の女を平坦な岩の上に横たえ、即座に心肺蘇生に取り掛かった。胸の真ん中に両手押し当て、心臓に圧を送る。


 ──ああ、くそ! これであってんのか!?


 いくら押しても女が水を吐かない。続いて鼻を摘み、顎を上げ、唇を重ねて息を吹き込んだ。


 ──人工呼吸法、これであってるか!?


 命と向き合うといつも自信がなくなる。これで正しいのかといつも自問させられる。

 疑心暗鬼になりながら、懸命に女の胸を押し、口に息を吹き込む。

 これを七回ほど繰り返したところで、わずかに女の肉体が波を打つ。

 それを契機に、女が激しく咳き込み、ようやく口から大量の水を吐き出してくれた。


「はぁ、あぶねぇえ。くそ焦るわ」


 半身を起こし、えずく女。それを見てザクロは安堵し、地面に大の字で寝転んだ。


「ったく。カリンの奴、また刺してやろうか」


 ザクロの胸の内が達成感に満たされてゆく。今まで何度もこの川で命を取りこぼしてきた。人の命を鑑みないカリンの横暴な振る舞いと、自身の至らなさのせいで何度となく悔恨を飲み込んできた。


 だが、今回は救えた。それが少しだけ誇らしい。


「ザクロ様……私はなぜこのような? 洗濯をしていたはずなのですが……」


 なんとか復帰した女が虚な目で聞くと、ザクロは周囲を見回した。


「洗濯物は周囲にない。流されてるな」


「その眼は……ザクロ様が、救って下さったのですか?」


 存分に充血したザクロの瞳を見ながら女が問うと、


「いいからそう言うの。それより、洗濯に来る途中、誰か川で見かけたか?」


 ザクロは少し緩んでしまった表情を引き締めて立ち上がった。この女の他に溺死しかけている者がいるかもしれない。ならば、引き続き捜索しなければならない。


「いえ、見かけておりません」


「そうか。なら家に帰って安静にしな。洗濯物取りに行こうと思うなよ」


 言うなり、すぐにその場を後にする。疎らな石を踏みしめ、女を一瞥してからまた川添いをひた走った。 


 あらかた周囲に溺れている者がいないか確認を終えると、念には念を入れるため、川の上流にも被害者がいないか確認に急ぐ。そうしてしばらく駆けていると。


「ははッ」


 ふと、さっき出会った鼠男の姿が脳裏を過り、笑みが溢れた。あの丸い立ち姿はえらく愛くるしく、くりっとした目玉に、よく飯を食えそうな大きな口。その面白可笑しい相貌を思い出せば出すほどに、ひどく興味をそそられる。


 それに──彩李が割って入る寸前、カリンがザクロに飛びかかろうとしたあの時、鼠男はザクロを庇うようにカリンとの間に身を滑り込ませていた。

 

 咄嗟にあのような振る舞いができる者は──。


「勇敢で、優しい。いい男だ」


 少女は破顔して、心を弾ませた。

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