第八話 羅刹の姉妹

 しばらく待つこと、四半刻(約三〇分)。

 薫風に揶揄われるように運ばれた笹の葉が、少年の鼻を掠めて、


「ハッパンっ! しゃいぃぃぃ……」


 中年の男に負けぬ豪快なくしゃみを起こした。すると、途端に少年は急激に一人でいるわびしさに押し潰されそうになって膝を曲げる。

 立って待っているのにも疲弊し、手頃な石の上にでも腰掛けようかと思った、そのとき。 


「あら? なんか入り口に立っとる。えらい可愛いなぁ」


「ほんとだ……なんだろ? さっき聞こえたくしゃみってあの子?」


 二十代前半だろうか。柔らかい雰囲気のある二人の美女。それが竹藪から姿を表した。恐らく彩李の言っていた、ザクロとカリンと名を連ねる血の繋がらない姉妹だろう。


「せやろうな。たぶん羅刹やない? 後天羅刹は身体の一部が獣みたいになるって話やし」


「全身獣になっちゃってるなんて聞いたことないけど……とりあえず挨拶してみようか」


 優雅に歩みを進めて、眼前で立ち止まった二人に少年は呼吸を止める。


「長女のリンゴ言います。よろしゅうね」


 肩甲骨まで伸びた艶やかな黒髪に、色気溢れる妖艶な泣きぼくろ。口元の紅から溢れるしっとりとした花街の訛りが、少年の心臓を鷲掴んだ。


「次女のミカンと言います。よろしくね」


 肩まで伸びる濃厚な山吹色の髪に、慈愛を帯びる流線の美しい垂れ目。その容姿から放たれる母性的な微笑が、少年をよろめかせた。


 ──圧倒的、美女‼︎


 少年の顔に上気が駆け上り、心臓が激しく波打った。視界が頭を強打したようにパチパチと明滅し、膝に力が入らなくなる。


 ザクロやカリンも美人であったが、棘のある幼さがあった。しかし、眼前に立つ二人の様相は成熟した大人の色気を纏っていた。


「よよよよ、よろひくお願い申し上げます!」


 声が上擦らせてこうべを垂れ、また二人と目を合わせた。すると、優しく微笑むミカンを見れば、緊張で息がしづらくなり、リンゴの纏う妖艶な色香が、少年の息の根を止めようと絡み付く。


 ──俺、死ぬかも。


 呼気を辿々しく吐いていると、二人が心配そうに少年の背中に手を添えた。


「大丈夫やろか? めちゃ息苦しそうやん」


「急に出てきたから、驚かせちゃったのかな?」


「だ、だだだ、大丈夫です!」


 なんとか応えたが、少年の思考は混乱の極みだ。しかし、美人の前でこれ以上恥をかくまいと、渾身の気合いを自身に宿し、背筋を伸ばして男前の相貌を取り繕う。


「お名前は?」


「忘れました! 朝起きたらこうなっていました! 名前も思い出せません!」


「あらま、大変やねぇ。他の記憶はあるん?」


「人間だった、ような気がしています! 後は全部忘れました!」


「ふふ、めちゃ元気ええわー」 


 努めて快活に応える少年に笑って、長女リンゴは小首を傾げた。


「この村に羅刹が生まれるなんて、今まであったんかな?」


「さあ?」と、ミカンが応える。そして、思いついたように手を叩いた。


「私たちと同じ羅刹ということは、ここで暮らすんだよね?」


「そうなるやろね。何処で寝泊まりさすんかは知らんけど」


 二人の話している傍ら、少年はある一点に釘付けになる。ミカンの左手が人肌ではない。

 黒い木肌で出来た義手であった。指関節には球体が収まっており、人の手のそれと何ら遜色なく滑らかに稼働している。

 よく見れば、リンゴの着物の裾から垣間見える右足も、同じ木肌で出来た義足のようだ。


 ──大きな事故にでもあったんだろうか。


 少年は僅かに違和感を抱いたが、次の言葉ですっかり意識の外に追いやられる。


「じゃあ今日から私たちの弟だね!」


 ミカンが花のような笑顔を向けて喜声を上げた。


「え!? 俺が弟!?」


「そう! 可愛いフワフワの弟!」


 義理の姉。脳裏に過ったその言葉に卑猥な響きを感じ取り、少年は胸を高鳴らせる。

 おめでたい頭をしている。自分でもそれはわかってはいるが、感情の整理が追いつかない今の少年には、それだけしか頭に浮かんでこなかった。


「フフーン、ミカンお姉ちゃんは弟が欲しかったのです。妹は売ってしまいたいくらい居るのに、弟はいなくて寂しかったんだ。私の願いが叶ったのかもッ。念願の可愛い弟!」


 ミカンは大いに喜んで見せ、棒立ちで硬直する少年の頭を優しく撫でた。

 それに破顔した長女リンゴが便乗する。


「ほんまになぁ、ケンケンした妹ばっかやからなぁ、あんたは優しそうなお顔しとるね」


 リンゴに頬を撫でられると、少年はすっかり有頂天に上り詰める。


 ──これから、楽しくなっちゃうかもしんないッ。


 二人が動く度に花と果実の良い香りがして、頭をますます蕩けさせた。

 そうして存分に呼吸を堪能していると、社の大門が重々しく開け放たれ、


「騒々しい。そんなとこで騒いでないで、中で母上を迎える準備しろ」


 カリンが鋭い視線を放って催促する。


「わかっとるわ。ほな、さっさと入りましょ」


 長女リンゴが音頭を取ると、二人で少年の背中を押して社の中へと歩き出す。

 惚けていた少年が「ハッ」と意識を覚醒させた頃には、すっかり社の中に足を踏み入れていた。


 室内はひどく冷たい作りだ。構造は果てしなく広い球状の洞窟と言ったところで、天井を見上げると何処までも暗闇が広がっている。

 部屋の中央に石造りの台座と灯籠が置いてあるが、それ以外は何もない。灯籠の光が照らす範囲しか把握できない。灯りが届かない範囲は、天井と同じ暗闇が広がっていた。


「あァん? なんかちゃソレ。熊か?」 


 暗闇から新たに、桃色の髪の少女が姿を現した。年の頃は十四、五。鋭い眼をヒクつかせ、少年を見つめて驚愕している。

 その相貌は、眉尻を怪訝に吊り上げて嫌悪感を隠そうともしない。一目見ただけで負けん気の強い印象を受ける。


「熊じゃないわよ、新しい弟。モモ、挨拶なさい」


 ミカンに窘められながら、少年の姿を上から下まで眺め、モモは更に表情を険しくした。


「頭ぁイカレたかミカン? 熊ぁ捕まえて来て弟だって言いよろうが? キメエな、二度と私に近づくなカス」


 えらく口が悪く、ドスの利いた南部の訛りだ。均整の取れた美人ではあるが、ひどく自尊心が高い。心底と人を見下す人物のようだった。


「おいキサン、何モンじゃコラッ。あぁん、何モンだって聞いとろうが! くらすぞ熊ァ(ぶん殴るぞ)」


 怯える少年に、頭突きでもする勢いで詰め寄る。

 怒号を上げる口の中が垣間見え、少年はさらに怖気で足がすくんだ。モモの口内から覗く舌先が、蛇のように二つに割れているのだ。

 そのあまりに歪な様相に口籠もっていると、リンゴが腕で少年を庇った。


「モモ、あんたこの姿見て熊とか言うてるん? 無学浅識さらして恥ずかしないん? 頭悪うなり過ぎて、眼球の使い方まで忘れてしもうたん? いややわー呼吸の仕方も忘れてほしぃ」


「鼠だって言うがか? ふざけとろうが! こんなバリデカイ鼠がおるか!」


「はー! うっさいうっさい! ここはよう響くんやから、脳たりんは黙っとって!」


「ああッ!? リンゴ、キサン! ブッ殺されたいようやのう!」


 モモは標的をリンゴへと移し、激しく罵声を浴びせ合う。そんな二人を尻目にミカンが少年の耳元に囁き忠告した。


「四女のモモはイジメッ子だから近づかないようにしてね? 妹だから悪い子じゃないって言いたいんだけど……冗談抜きで……本当に危ない子だから」


 やはりそうだ。カリンに続いて、自分の生活に暗雲を運ぶ人物かもしれない。出来るだけ関わらないように過ごさなければならないだろう。


「わかりました」と少年がミカンに頷いていると、


「は? こいつが羅刹と言いよるか? なら花ぁ開いて見せや! 羅刹なら開けるやろ!」


 モモの標的が、自分へと帰ってきてしまっ


「えっと……」


 カリンに先ほど『花を開けない』と言った途端、物騒な展開になったばかりだ。

 少年は言い淀んで、つい押し黙ってしまう。


「あ? 開け言うとろうが。さっさとせえや!」


「阿呆が調子乗っとるわー。雑魚やのに、まあイキリよ


「なんかちゃゴラァ!」


 またしても、リンゴとモモの口喧嘩。それが自分のせいだと思い、少年が慌てて口を開いた。


「開けないんです!」


 その声が室内に大きく反響する。皆が驚いたのか、重い沈黙が辺りを包んだ。

 しまった。やはりまずかったか。ここでは花を開けないというのは、やはり相当にまずいことだったのか。目の前のリンゴとモモはピタリと動きを止めてしまっている。


「ごめんなさい! その、俺は──」


 少年が慌てて謝罪を口にすると、横からミカンの人差し指がそっと口に押し当てられた。


「母上が来たの」

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