第19話【その日の夜】

 推しと一緒に入浴という、未だに慣れない行為を終えた後、寮の部屋に戻るまでの途中、アイリは不意に立ち止まった。


「ねぇリタ、ちょっと外に涼みにいかない?」

「うん、いいよ」


 涼みに行くというにはやや肌寒い気温だったが、リタにはアイリの提案を断るという発想はなかった。

 お風呂上がりのアイリっていつもとは違う雰囲気で可愛いな、とか思いつつ、彼女の後に続く。



 二人で外に出ると、既に辺りは真っ暗だった。まだ門限前とはいえこんな遅い時間に寮の外にいるなんて、学校に来てからは初めてだ。

 月が綺麗に見えるね、なんて他愛のないことを話していると、アイリは少しだけ迷うような顔をした後、問いかけてきた。


「……もしかして今日の、見てた?」


 アイリの表情からして、確信があるわけじゃないんだろう。

 人の嘘を簡単に信じてしまう彼女相手にとぼけることは簡単だったが、リタはあえて頷いた。


「私の態度、そんなに分かりやすかった?」

「ううん。ただ闘技場を出る直前……一瞬だけ、リタの魔力を感じた気がしてたから」

「そっか。……ガイルスのこと、分かってたのに黙っててごめん。アイリを巻き込みたくなかったんだけど、むしろ心配かけちゃってたね」

「全然。むしろ私のほうが勝手に動いてごめんね……えっと、闘技場にいたってことは、決闘も見てたんだよね?」


 リタが黙って頷くと、アイリはあからさまに表情を曇らせた。


「ご、ごめん、盗み見して……」

「いや……リタに人を脅してるとこ見られたのが、ちょっとショックだっただけ……」


 そんなに露骨に落ち込むほど、はたから見ると脅している感じではなかった気がするが、アイリの中ではあれはかなり高レベルな脅しなんだろうか。


「……でも、本当は降参なんて形じゃなくて、ちゃんと倒したかったの。結局ただの口約束になっちゃったから、相手が守るかの保証はないし」

「いやー、それは大丈夫じゃないかな……多分」


 ガイルスは相当なバカだったが、あれだけ圧倒的な力の差を見せつけられてなお、みみっちい嫌がらせを続けるほどの愚者ではないだろう。それにもしも来たって、次こそはリタが全力——退学にならない程度に——で叩き潰せばいい。


「それに、アイリは優しいから人を攻撃するのとか好きじゃないでしょ? ああいう形で済んでよかったよ」

「……うん、そうだね……」

「もうそんな暗い顔しないでよ……アイリにあんなことさせちゃって、落ち込むべきなのはこっちなのに」

「だからそれは私が勝手にやったことだから……リタは気にしなくていいよ」


 と言われても、気になってしまうのが人の性というものだ。

 でも今は自分のふがいなさに落ち込むことよりも、アイリの暗い表情の理由の方が重要だ。


「じゃぁアイリは、どうしてそんなに落ち込んだ顔してるの?」

「…………本当は、思い切りビンタとか、したかったの」

「え……なんでビンタ?」


 リタはガイルスに相当イラついていたので、多少痛めつけたいという感情は理解出来る。が、そんなことまでアイリが思っているとは思わなかったし、それなら上級魔法とまではいかないが、別の何かしらの魔法を直撃させても構わなかっただろうに、何故そこであえてビンタなのか。


「……魔法は最初から当てるつもりはなくて、全部想定していた通りだったんだけど。あの人、最後に……リタに酷いこと言ったでしょ。それがすごく……嫌で。いや、その前から酷いことばかり言ってたんだけど……でも最後のは本当に、手が出そうだった……けど、あの時にはもう、降参を承諾してたから」

「だからやらなかったの?」


 無言で頷くアイリを見て、リタは思わず笑ってしまった。

 相手の降参を受け入れた後だから手を出せないなんて、真面目な考え方すぎて逆に面白かった。

 仮にリタがアイリの立場だったら、そんなの気にせず何かしらの魔法で吹っ飛ばしていた。もしくは同じくらい言葉で罵り返す。

 ……こんな性格だから私はロクに友達出来ないのかもな、と一瞬思った。


「な、なんで笑うの……真剣に後悔してるのに。友達のこと、あんな風に言われて……ビンタどころか、言葉で言い返したりも、何も出来なかったんだよ」

「なに? アイリはそんな自分が嫌なの?」

「嫌だよ……情けないし」

「情けなくなんてないよ。相手の降参を受け入れた後だから、それを破れなかっただけでしょ? それはね、単にアイリがどんな奴に対しても優しいからだよ」


 思ったことをそのまま告げると、アイリの目が綺麗にまん丸になった。リタとしては、そんなに驚くようなことを言ったつもりはなかったのだが。


「でも……そのせいで……あの人絶対、リタに悪いと思ってない」

「そんなのどうだっていいよ。私は、自分が大事だと思ってない人達にどう思われようと、なんとも思わないから」


 リタにとって大事なのは、自分が大切に思う人とその周囲だけだ。ガイルスがそこに含まれることは未来永劫ないだろう。

 そもそもあの場でアイリが怒ったところで、彼は心から反省するようなタイプには見えない。


「それよりも、アイリが私のことで腹を立ててくれてるのが嬉しくて、最早ガイルスのことなんて忘れつつある」

「嬉しいって……、私は悔しいのに」


 拗ねたように視線を逸らすアイリ。その頬が若干赤くなっているから、怒っているというより照れているように見えたけど、確かに今の彼女の心情を考えると「嬉しい」と言われると複雑なのかもしれない。


「ま、何はともあれ、これであいつのじみーな嫌がらせの日々からも解放されるわけだし。アイリ、ありがとう」


 にっこり笑ってそう言うと、アイリは変な顔をした。まあ彼女はどんな顔をしていても可愛いのだが、今まであまり見たことがない表情だった。悔しそうな、嬉しそうな、照れているような、怒ってるような、その全部が混ざり合った結果、よく分からない顔になっている。


「り、リタ!」

「ん?」


 勢いよく名前を呼ばれたと思ったら、いきなり両肩を掴まれた。

 体勢的に自然と視線が合うことになるが、アイリの視線はあっちにいったりこっちにいったりと忙しない。リタとしては、そんなよく分からない行動をしてるアイリも可愛いので黙って見守っていたいところだったが、そろそろ本格的に外の気温が下がってきた。早めに部屋に戻らないと、アイリの体が冷えてしまうかもしれない。


「どうかした?」


 だから促すように問いかけると、アイリは何かを決意したかのような、キリッとした顔をしたかと思えば、強く目を瞑った。


「?」


 いよいよ本気で彼女が何をしたいのか分からなくなってきたリタは、とりあえず真似っこで目を瞑ってみた。

 そうして大人しく突っ立っていると、彼女の顔が徐々に近づいてくる感覚。お風呂上がりだからなのか、ほのかな石鹸の香りと彼女本来の香りが混じったいい匂いがして、少しドキドキする。

 

 本当にどうかしたの——と再び問いかけるよりも先に、耳の上あたりにやわらかい何かが一瞬触れて、すぐに離れた。


「……え、今のなに?」

「えっ……リタの髪は、綺麗だよ、って……意味、だけど」

「……? まあ、今さっき髪洗ったばかりだし、綺麗っちゃ綺麗だと思うけど……」


 アイリが何を言いたいのかイマイチ分からないリタは、首を傾げた。


「そ、そういう意味じゃなくって! あの人が言ってたでしょ……リタの髪色のこと」

「…………ああ、ガイルスね」


 話題の中心にいるはずなのに、本当に既に忘れかけている。リタにとってはそれほどどうでもいい人間だった。

 アイリに「髪色」と言われたのでよくよく思い出してみると、そういえば決闘の最中に黒い髪が汚いだとか言われていた気がする。


「さっきも言ったけど、あの人の言うことは何一つ気にしてないよ」

「私は気にするの! 私はリタの髪の色、すごく綺麗だと思うし……」

「ありがとう。……で、結局今のは何だったの?」

「えっ……見てなかったの?」

「うん。アイリが目瞑ってたから、マナーとして私も目瞑ってた」

「そんなマナーいらない……いや、でも結果的に見られてなくてよかったのかな……?」

「なにしたの?」


 リタの問いかけに、アイリはふいっと背中を向けてしまった。そしてそのまま寮の方に歩いていってしまうものだから、リタは急いでその背を追いかけた。


「ちょっと、なんで無視するのさ!」

「教えたくないから。どうせ言ったら笑いそうだし」

「笑わないよ! 私アイリのこと笑ったことなんてないし!」

「ついさっき笑ってたじゃない」

「あ、あれはアイリの悩んでる内容が可愛くてつい……」

「そんな意地悪なリタには二度と言いません」

「えええ……」


 取り付く島もなさそうなアイリの態度に落ち込みつつ、リタは何とかさっきの感触と、その正体と、アイリの行動を推理しようと必死だった。



 だが、結論としてその行為にリタが気付くことは一生ない。

 綺麗だと言葉で伝えるだけで十分だろうに、その髪にキスするだなんて——それこそ乙女ゲームの攻略対象たちがやりそうな行動を、アイリがするなんて夢にも思わなかったから。



続く

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