西浦竜玉堂

 糸井からの事情聴取を終えると、「署に戻っていて構わないぞ」と祓川が言う。

 野川は佐伯に「仲崎と会ったことがない」と言ったが、仲崎と野川が言い争いをしていたという証言があった。目黒署に野川を呼んで、取り調べが始まる頃だ。その結果が知りたい――と祓川は言う。

 佐伯が野川の取り調べに立ち合いたいと思っているのだろう。

「祓川さんはどうするのですか?」と聞くと、「ちょっと調べたいことがある」と答えた。また、単独捜査に出たいのだ。そうは行かない。張り付いて、離れないつもりだった。

「じゃあ、ご一緒します」と言うと、祓川は「そうか」と言っただけだった。

 車に乗り込むと、糸井から聞いた古美術商に向かってくれ――と祓川が指示した。そして、「中村拓真と仲崎幸太郎が繋がったようだ」と聞き捨てならないことを言った。

「どういうことです?」

「仲崎幸太郎が守衛を勤めていたというビル、糸井が言っていた港区のビルだが、中村拓真が生前、勤務していた会社がそのビルにあるのだ」祓川がさらりと言う。

「えっ――!」

 祓川は中村拓真についても、かなり綿密に調べてあるようだ。

 捜査は被害者周辺の関係者を徹底的に洗い出すことで、犯人に近づいて行く。膨大な確認作業の積み重ねだ。ところが祓川は犯人を秋貞に絞って捜査を行っている。直線的だ。初めから犯人が分かっていれば、無駄な確認作業を省くことができる。

 秋貞の周辺に絞って、調べ尽くしているのだ。しかも単独で。

 佐伯は感心した。ご苦労なことだと思わなくもないが、要は、無駄な確認作業を他人に押し付けている訳だという反発があった。

「中村拓真と仲崎幸太郎が知り合いだった可能性が高い。誰かに確認させてくれ」と祓川は言う。二人が知り合いだったと確信している様子だ。

 そう言われても、佐伯に同僚の刑事を指揮する権限などない。係長と相談するしかない。

 本郷通りから壱岐坂通りに折れ、そこから一方通行の道路へ左折する。右折と左折を繰り返した先の雑居ビルの二階に西浦竜玉堂はあった。注意していないと、看板を見落としてしまいそうだ。

 狭い階段を登ると、入口のガラス戸に「西浦竜玉堂」と店名が書かれてあり、下に「古美術」、「骨董」、「高額買取」と言う文字が躍っていた。

 書画や壺等の古美術品で溢れかえっている店内を思い描いていたが、ガラス戸を開けて中に入ると、意外にすっきりしていた。骨董趣味のある社長の社長室と言った感じで、真ん中に据えてあるソファーの周りに、掛け軸や壺が整然と並べられていた。

 店の奥にカウンターがあり、「いらっしゃいませ」と店主が声をかけて来た。

 西浦岳だ。六十を幾つか超えているように見える。ベテランの古美術商だ。今時、珍しいレンズの分厚い黒縁の眼鏡がずり落ちそうだった。細面で眉毛が長い。随分、細い。まだ暑い日が続いているが、冷房の効いた店内が堪えるようで、薄手のベストを着ていた。

 二人が警察バッジを見せると、「おや、警察の方」と西浦は意外そうな顔をした。表情で、(後ろ暗いことはしていませんよ)と訴えているつもりのようだ。

「こちらへ」とカウンター前のソファーを勧められた。「今、お茶でも煎れてきましょう」と小走りで奥へ消えた。奥に見られたくないものでもあるのかもしれない。

 西浦がお茶を煎れて戻ってきたので、事情聴取が始まった。祓川が口を切る。「仲崎幸太郎さんをご存じですよね?」

「あ、ああ~」と西浦が声を上げた。刑事たちが仲崎の捜査で来たのだと知って、安心した様子だった。「ええ、まあ」と短く答えた。

「どういった知り合いなのですか?」

「そんなに親しい関係じゃありません。糸井さんとおっしゃる不動産会社の社長さんを通して知り合いました。糸井さんの会社の社員です。糸井さんの使いで店に何度か来ました」

 糸井不動産は怪しげな会社だ。地上げの過程で、立ち退かせた家屋から金になりそうな骨董品が見つかると、西浦のところで引き取ってもらっていたのだろう。

「なるほど~なるほど~最近、彼から掛け軸を購入しませんでしたか?」

「はは。よくご存じで。総督の遺言でしょう?」

「総督の遺言――⁉」

「おや、ご存じない? 刑事さん、李鴻章という人物をご存じですか?」

 佐伯は横からちらと祓川の顔を伺った。佐伯は李鴻章を知らなかった。

「名前だけは記憶にあります。確か・・・日清戦争の時の中国の政治家ですよね?」

「よくご存じで。李鴻章は清末に活躍した政治家で、日清戦争の停戦交渉の為に来日し、交渉の地となった馬関、今の下関に暫く滞在していたことがあります。日本側は伊藤博文が全権大使となって交渉に当たりました」

「はあ・・・」まるで歴史の授業だ。

「停戦交渉の最中、李鴻章は小山豊太郎という兇漢に襲われます。小山は隠し持った拳銃で李鴻章を狙撃しました。小山の撃った銃弾は狙いを過たず、李鴻章の顔面に命中しますが、当時の拳銃は殺傷能力が低かった。李鴻章は一命を取り留めました」

「・・・」祓川は辛抱強く、西浦の話が本題に移るのを待っていた。

「当時、李鴻章が滞在していた寺の下男が、甲斐甲斐しく世話を焼いたそうです。李鴻章は日本を離れる際、その下男に感謝の意を込めて一筆、書いて渡したという言い伝えがあります。李鴻章は直隷総督という役職であった為、その時に書いた書は、何時しか『総督の遺言』と呼ばれるようになりました。しかし、実在を疑う人も多く、単なる伝承か、もしあったとしても戦後のどさくさで焼失したものと思われていました」

「李鴻章は狙撃されたが、死ななかったとおっしゃいましたよね。遺言と言うのは少し変な気がします」

「ええ、まあ。李鴻章は兇漢に襲われて死にかけていますし、何となくゴロが良かったからでしょうね。『総督の遺言』なんて大仰な名前で呼ばれています。実はね。その総督の遺言が実在していたのです」

「なるほど~なるほど~仲崎が持ち込んだ掛け軸ですか?」祓川は察しが良い。

「彼が持ち込んで来た掛け軸を見た時、興奮しましたね~総督の遺言だったのですから。本当にあったんだ――! って思いました。この仕事、長くやっていますが、正真正銘の掘り出し物なんて、滅多に当たりませんからね」

「何故、仲崎は総督の遺言を持っていたのでしょう? どうやって手に入れたのでしょう?」

「さあ、それは分かりません。糸井さんの倉庫で十年、眠っていたという話は聞きました。最も、十年、眠っていたお陰で、総督の遺言の価値が跳ね上がったんですけどね」

「どういう意味でしょうか?」

「いえね。総督の遺言は歴史的な資料価値は高かったのですが、十年前だと、骨董品としての価値はそれほどでもありませんでした。せいぜい、ついて百万円程度と言ったところだったと思います。ところが、このところ、経済発展で大金持ちになった中国の富裕層が、海外に流出した自国の骨董品を高額で買い漁るようになりました。俗に言う『爆買い』です」

 中国では毛沢東の晩年、国内で文化大革命と呼ばれる政権闘争が巻き起こり、旧文化が徹底的に否定され、破壊された。文化大革命の時期に中国の骨董品は、安価で、大量に海外に売り払われている。昨今、こういった骨董品を富裕層となった中国の大金持ちが金に物を言わせて買い戻している。

 西浦の話は続く。「中国人の富裕層向けに中国の骨董品のオークションが東京、大阪、福岡など日本各地で開かれていたりします。中国人の大金持ちは、オークションでそれこそ金に糸目を付けずに骨董品を買って行くのです」

「なるほど~なるほど~それで、総督の遺言を中国人の大金持ちに売り払ったという訳ですね」

「ええ。多少、強気に商売させてもらいました。ははは」西浦が楽しそうに笑った。

 言い渋られたが、総督の遺言は一千万円で売れたと言う。無論、売価の一割を手数料として差っ引いている。

(一千万円――⁉)あまりの高額に佐伯は開いた口が塞がらなかった。

「李鴻章は台湾や遼東半島の一部を日本に割譲した売国奴として、中国本土での人気は高くありませんでした。それが昨今、清末の大乱、太平天国の乱の平定に功績があったことから、業績を見直そうという専門家が中国国内にも増えてきたと聞いています。李鴻章直筆の書です。一千万円くらいはしますよ」と西浦は満面の笑顔で言った。

 出どころは不明だが、仲崎幸太郎が掛け軸を売って大金を得たことが分かった。光輝が言った通り、仲崎は部屋に大金を隠し持っていた。そして、その大金は部屋から消え失せていた。九百万円の現金であれば、殺人の動機になり得る。

「ところで、この青年に見覚えはありませんか?」

 祓川が携帯電話に保存してあった顔写真を西浦に見せた。横から覗き見ると、秋貞和義の顔写真だった。いつの間にか、祓川は顔写真を手に入れていた。恐らく、運転免許証の写真だろう。

 油断も隙も無い親父だ。好きにはなれないが、祓川が刑事として一流だということが分かる気がした。

「ああ、この人」と西浦は答えた。

「ご存じなのですね?」

「いえね。ここ数年、総督の遺言を熱心に探し求めている青年がいて、うちらの業界じゃあ、ちょっとした有名人になっています。私のところにも総督の遺言を知らないかと訪ねて来たことがありました。言っちゃあなんですが、結構、しつこくてね。つい先日も来ていました」

「ほう~それで、仲崎幸太郎さんのことを教えてたのですか?」

「まさか。個人情報を教えたりなんかしません」と答えた後で、「あっ!」と声を上げた。

「どうしました?」

「そう言えば・・・関係ないかもしれませんが・・・」と前置きした後で、西浦は渋々といった顔で言った。「先々週だったかな。うちにね。空き巣が入ったみたいなのです」

「なるほど~なるほど~空き巣ですか? 警察に届けましたか?」

「それがね。特に盗まれたものはありませんでした。鍵が壊されただけでしたので、警察には届けませんでした」と言う。やはり後ろ暗いことがあるのかもしれない。

「何も取られていない?」

「はい」と答えたが、西浦は怪訝そうな表情だ。

 そこは祓川だ。「顧客リストのようなものを盗み見られた可能性はありませんか?」と突くと、「ええ、まあ・・・事務所の机の引き出しの鍵が壊されていました。引き出しの中に店の帳簿が入れてあったので、それを見られたかもしれません」と西浦が答えた。

「何故、青年の写真を見て、空き巣のことを思い出したのですか?」

「いえね。この人がうちを尋ねて来て、総督の遺言のことをしつこく聞いた後だったもんで、ひょっとしたらと思ったんでね」

 秋貞が尋ねて来た後、店に空き巣に入られたと言う。

「仲崎さんのことを教えていないにしても、総督の遺言のことを話したのでは?」

「ええ、まあ。あまりにしつこいんで、最近、売りに出て、中国人のバイヤーに購入されたみたいだという話はしたような気がします」

「なるほど~なるほど~お宅が仲介したと教えたのですか?」

「いいえ、まさか、そんな。でも、うっかり『掘り出し物だった』と言ってしまったので、彼、うちが扱ったと気がついたのかもしれません」

 西浦に事務所へ案内してもらった。店の奥が仕切られていて、事務所になっていた。机とパソコン、それに本棚が置かれてあった。本棚には骨董の専門書の他に、五センチのファイル・フォルダーが並んでいた。

 渋る西浦を掻き口説いて、鑑識を事務所に入れてもらうことになった。空き巣に入られたのは二週間前らしい。仲崎幸太郎が殺害される三日前だ。

 祓川でなくても、秋貞が西浦竜玉堂に空き巣に入り、仲崎幸太郎のことを知ったであろうことは容易に想像できた。

 だが、秋貞と総督の遺言の間には、どんな関係があるのだろうか?

 西浦竜玉堂を出ると、「勝田台に向かってくれ」と祓川が言った。佐伯にも、祓川が考えていることが分かってきた。秋貞は総督の遺言を介して仲崎幸太郎と繋がっている。秋貞と総督の遺言の関係について、秋貞の母親なら何か知っているはずだ。秋貞の母親が住んでいるのが勝田台だった。

「はい」と佐伯は車をスタートさせた。


 中村拓真の妻だった秋貞朋子あきさだともこから詳しい話を聞くために、勝田台に向かうことにした。秋貞家に向かう途中、祓川の携帯電話に着信があった。

「あ、うん。うん。僕だ」祓川は日頃より一オクターブは高そうな猫なで声で電話に出た。「ああ、うん」、「そうだね~」、「うん。分かった」と会話の内容が分からないように声を潜めて、短い返事を返すだけだった。だが、人が変わったようだ。

「ああ、うん。じゃあね」と祓川が電話を切った。

 冷やかすほどの仲ではない。祓川の家族構成を知らないが、電話の相手は奥さんだろうと思った。

 無視するか、聞いてみようか考えていると、「余計な詮索はするんじゃないぞ」と祓川から釘を差されてしまった。

 この人にも、こんな面があるのだと思うと可笑しかった。

 秋貞家に到着した。

「まだまだ元気ですからね。子供たちの世話になりたくありません」と朋子は明るい笑顔で二人を出迎えてくれた。

 六十代。一重瞼に小さな口が秋貞和義と似ている。丸い顔で、大福餅を連想させる顔だ。

「この度は、お巡りさんたちにご迷惑をお掛けしています。ご苦労様です」と深々とお辞儀をされた。瓢箪池で見つかった白骨遺体が亡き夫のものであったことを聞かされたのだ。

「いえ。ご愁傷様です」と佐伯が返すと、「もう、主人は死んだものだとあきらめていました」と言う。そして、「むしろ、私たちを捨てたのではないことが分かって、ほっとしています。主人はそんなことをするような、私たちを捨てたりするような人間ではないと分かっていました。だから、もう主人は死んでいると思っていました」とさばさばとした表情で答えた。

「ご主人の話を聞かせて下さい。特に失踪した当時のことを」と言って、家に上がり込んだ。

 ごちゃごちゃと家具が多いのだが、綺麗に整頓された応接間に通された。

「今、お茶を」と言うのを、「結構です」と祓川が引き留めて、事情聴取が始まった。

「秋貞さん。ご主人が失踪した当時のことをお聞かせ願えませんか?」

「主人がいなくなった時のことですか? もう十年の前の話ですよ。あれは、忘れもしない日曜日のことでした。『ちょっと出かけてくる』と言って、主人はいなくなったのです」

「何処に行くか、或いは誰と会うのか、言っていませんでしたか?」

「私がちゃんと聞いておけば良かったんですけどね。アウトドアっていうんですか。主人は出かけることが好きな人でした。家でゴロゴロしているのが嫌いなのです。休みの日でも、時間が出来ると直ぐに出かけていました。

 私はどちらかと言うと、インドア派で、家でのんびりしているのが大好きでしたからね。結婚当初はよく二人で出かけたりしたものですけど。その内、億劫になって・・・まあ、子供たちが出来てからは、主人の相手は子供たちに任せていました。

 遠くに出かける訳ではありませんし、お金のかかる遊びをする訳でもありません。多趣味で、近所を散歩したり、写真を撮ったり、花を観察したり、絵を描いたり、まあ、忙しい人でした。子供たちの面倒を見てくれるので、休みの日は私も休みだって、主人に子供たちの相手を押し付けておりましたの。ほほほ」朋子はころころと笑う。まだまだ、話が尽きない。「子供たちが大きくなってからは、相手にしてもらえなくなったみたいで、一人で出かけることが多くなっていました。あの日、子供たちは部活や友だちと遊ぶ為に家を出ていて、誰もいなかったと思います。主人は一人で出かけて行きました。直ぐに帰ってくると、思っていたのですが、結局、戻って来ませんでした」

「なるほど~なるほど~ご主人は手ぶらで出かけたのですか?」

「さあ、どうでしょう。何時も、何も持たずに、ふらふら~といなくなっていましたから。財布すら持たずに出かけることがありました。手ぶらだったと思います」

「あの日はどうでした?」

「確か・・・財布は持って出ていました」

「他に、何か持って出たものはありませんか?」

「主人が出かけるところを見ていませんので、分かりません」

「そうですか。では、質問を変えましょう。仲崎幸太郎という名前に聞き覚えはありませんか?」

「仲崎さんですか。いいえ、存じません」

「ご主人が勤めていた会社のビルで、守衛の仕事をやっていた人物なのですが」

「守衛さん・・・そう言えば・・・」

「・・・」祓川は無言で朋子が記憶を呼び覚ますのを待った。

「主人は残業が多くて、職場で最後の一人になることが多かったようです。仲崎さんかどうかは分かりませんが、あまりに残業が多いものだから、夜中に見回りに来る守衛さんと仲良くなったって、笑いながら言っていたことがあります」

 中村拓真と仲崎幸太郎が深夜の見回りで知り合った可能性が出て来た。

「なるほど~なるほど~その守衛の方について、他に何か覚えていることはありませんか?」

「そうですねえ・・・すいません。思い出せません」

「そうですか。では、お宅に掛け軸はありませんでしたか? ご主人、値打ちものの掛け軸をお持ちだったのではありませんか?」

「掛け軸――⁉」朋子が反応した。心当たりがあるのだ。

「ご存じなのですか?」

「はあ・・・」と躊躇いながら、「押入れに、細長い風呂敷包みがあったのです。主人が大事にしていて、中に何が入っているのか聞いたら、確か・・・掛け軸だと言っていたような気がします。骨董の類に興味がありませんので、中を見たことがありませんでした。主人が言うには、値の張るものではないけど、中村家にとっては家宝だと言っていました。ご先祖様の思い出の品だそうで・・・」と朋子は答えた。

「その風呂敷包みは、どうなったのですか?」

「それが、いつの間にか無くなっていたのです。気がついた時にはありませんでした」

「何時、何時頃、無くなったのですか?」何時も冷静な祓川が興奮していた。

 朋子は祓川の剣幕にたじろぎながら答えた。「さあ、主人がいなくなった頃だと思います」

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