最低の人間
遺体の検死が行われた。被害者の年齢は六十代、身長は百六十センチ前後、小柄で痩せ形の人物であることが分かった。
バラバラにされて水に漬かっていたことから、死亡推定時刻は幅を持ったものになった。遺体が発見された日の前日、六月十一日の夜、八時から十二時にかけてと推定された。
瓢箪池で、遺体の回収作業が続いていた。続々と遺体の一部が回収されていたが、被害者の左腕と頭部がいまだに発見されていなかった。警察では人員を増員して、人海戦術で一気に池を総ざらいする計画を立てていた。残りの遺体は池の底に沈んでいるのかもしれない。湖底を浚ってでも遺体を全て回収する予定だった。
最初に発見された右手から採取された指紋より、遺体の身元の照合が行われた。だが、警視庁のデータベースに該当する指紋は見つからなかった。被害者は犯罪歴がない人間だった。
遺体の頭部が見つかっていない為、死因の特定には至っていなかった。
警察の懸命な捜査にも係らず、犯人の特定は勿論、被害者の身元さえ特定できないでいた。暗闇の中、手探りで探し物をしているような状態だった。捜査は始まったばかりだったが、一課は暗雲が垂れ込めているような雰囲気に包まれていた。
市民から行方不明者に関する情報が、ぽつぽつと寄せられていた。だが、被害者の年齢と一致しなかったり、性別すら異なる情報であったりして、いたずらに刑事が確認に奔走させられる始末だった。
遺体発見より三日後、有力な情報が届いた。
遺体発見現場である柿の木坂公園より八百メールほど離れた「佐田マンション」というマンションで一人暮らしをしている
仲崎の年齢は六十五歳、被害者の年齢と一致している。背格好も遺体の特徴と一致していた。住所も祓川の見立て通り、柿の木坂公園からコンビニの方向に向かって二キロの範囲内だ。
「行方不明者の自宅は、遺体発見現場の近くだ。年齢や背格好が被害者と一致しているようだ。被害者である可能性が高い。至急、佐田マンションに確認に向かってくれ! 四一七号室が被害者と思われる男性の部屋だ」係長の指示が飛んだ。
佐伯は、鑑識官や一課の捜査員と共に、勇躍、佐田マンションに向かった。
佐田マンションは築三十年の年季の入ったマンションだ。東西に細長く伸びたマンションで、南北に廊下を挟んで部屋が向かい合う構造になっている。六階建てで、各フロアに二十室あり、建物の真ん中部分にエレベーターホールがある。古びたマンションなので、防犯カメラは設置されていなかった。
マンション前の通りを西に真っ直ぐ行くと、柿の木坂公園に突き当たる。
今日も祓川は目黒署に顔を出していない。一人で単独捜査をしているのだ。係長に相談すべきかどうか迷ったが止めておいた。告げ口するようだし、そもそも、係長は気がついているはずだ。係長も問題児を押し付けられて、迷惑しているに違いない。
佐田マンションに駆け付けると、驚いたことに祓川が来ていた。
佐伯に気がついた祓川はちらと視線を向けたが、何も言わなかった。祓川には被害者と思われる人物の情報が寄せられたことを教えていない。この辺りで聞き込みをしていて警察無線を聞き、いち早く現場に駆け付けて来たのだろう。
祓川は目付きの鋭い男と痩せた中年男性と一緒だった。
「部屋のリビングに荒らされた形跡と血痕がある」と祓川が鑑識官に伝える。「はい」と返事をしながら、ぞろぞろと鑑識官と捜査員が部屋に上がり込んで行った。
目付きの鋭い男は
仲崎の部屋は鍵がかかっていて、祓川の立会のもとで鍵を開錠したと言う。
部屋の前の廊下で立ち話が始まった。
「祓川さんの立ち合いのもとで、鍵を開けたんですか?」佐伯の口調が批難がましくなる。
「丁度、管理人から事情を聞いている時に、こちらが『父親と連絡が取れない。ドアの鍵を開けてもらえないか』とやって来た。だから、立ち会った」と祓川は原稿を読み上げるように淡々と説明した。
「刑事さんの執念が実った訳ですね~」と坂本が苦笑いしながら言う。
どうやら祓川は警察無線を聞いて、駆けつけて来た訳ではなさそうだ。坂本から何度も話を聞いていたようだ。坂本のうんざりした表情から、しつこく訪ねたことが分かる。
ご愁傷様と佐伯は坂本に同情した。
坂本は四十代だろう。ぼさぼさの頭髪が黒黒と茂っており、マッチ棒のように見える。
「さて、どういうことですか?」
「いえね」と坂本が祓川に代わって説明する。
早朝から祓川がやって来て、「変わったことはないか?」、「所在の知れない住人はいないか?」と質問責めに合っているところに、仲崎光輝が訪ねて来た。何と、「父親と連絡が取れない。心配して尋ねて来たが、ドアに鍵がかかっていて中に入ることができない。鍵を開けてもらえないだろうか?」と言うことだった。
警察官と一緒なら問題にならないだろうと坂本は、祓川に立ち合いを求めた。そして、三人で四階に上がった。鍵を開けて部屋に入ると、物が散乱していた。人が争った形跡があった。祓川が「警察に通報しろ!」と言うので百十番通報した。
「正直ね。何で私が通報しなければならないんだって、思いながら通報しました」と坂本は苦笑混じりに言った。
坂本の説明で、状況は理解できた。
待ちかねていたように、祓川が光輝に尋ねた。「さて、仲崎さん。何時から、お父さんと連絡が取れなかったのですか?」
「あ、うん? 親父と・・・ああ、二、三日かな。ちょっと用事があって電話をしたけど、出てくれなくてね。居留守を使っているのかと思っていた。それで、訪ねてきた訳だ」
仲崎光輝は三十代。目付きが鋭く、狐を想像させる顔立ちだ。細くて小柄な体つきだ。
「なるほど~なるほど~何処に行っているということはありませんか? 旅行に出かけたとか?」
「親父が――⁉ ふん。あのケチが旅行なんかするものか! それより刑事さん。近所の池から見つかったバラバラ死体、あれ、親父なのか?」
「それは調べてみないと分かりません」
「きっと親父だな。あれは――」まるで他人事だ。
「何故、そう思うのです?」
「親父、最近、金を持っていたようだからな。それも大金だ。部屋の中は荒らされているし、金も見当たらなかった。きっと親父を殺して、奪い去ったんだ」
何時の間に、部屋の中を物色したのだろうか。
「なるほど~なるほど~お父さんは大金を持っていたのですね?」
「ああ、そうだ。そうか――⁉ 兄貴だ。親父を殺したのは兄貴の仕業だ。兄貴が親父を殺して、死体をばらばらにして池に捨てたんだ。そうだ。そうに決まっている。そして親父の金を・・・くそうっ!あの野郎!」光輝がぎりぎりと歯噛みする。
仲崎幸太郎には二人の子供がいるらしい。
「まあ、お兄さんがお父さんを殺害したかどうかはさておき、お父さんは何故、大金を所持していたのですか?」
「知らねえよ。いつの間にか、金を持っていたんだ。兄貴の話によれば、隠し持っていたお宝を売りさばいたんだと」
「お宝? お宝とは何です?」
「知らねえな」
「大金とはお幾らくらいですか?」
「さあな。百万、二百万じゃないみたいだ。一千万、いや、それ以上かもな」
「なるほど~なるほど~お兄さんとの間で、トラブルを抱えていたのですか?金銭トラブルとか?」
「さあ? 知らねえな」
「じゃあ、何故、お兄さんがお父さんを殺したと思ったのですか?」
「だから、金だよ! 親父は大金を持っていた。その話は兄貴から聞いた。だから、俺も、ちょっと融通してもらいたくて、親父に電話をしていた。あのケチ親父、俺に金を貸すのが嫌で逃げ回っているんだと思っていた。兄貴に殺されていたとはね」
金の為なら父親を殺すことなど当たり前だと言いたげな様子だ。だが、大金を持っていたとなると、殺人の動機となり得る。
「ところで、お父さん、ゴルフはやられましたか?」
「親父がゴルフ? 何時かは会員権を買って、ゴルフをしてみたい――なんてこと、言っていたことがあったっけな。興味はあったみたいだ。はは。そんな余裕なかったよ」
「ゴルフ・クラブはお持ちではなかった?」
「見たことないね」
「なるほど~なるほど~そうですか」突然、祓川は佐伯に向き直ると、「後は頼んだ」と告げると、すたすたと歩き始めた。
「祓川さん、どこに行くのですか?」佐伯が後ろ姿に声を掛けると、「ちょっと調べたいことがある」とでも答えておけば良いものを、祓川は振り返ると驚いた顔で、「やつで間違いない。これからが本番だ」と妙なことを口走った。
何事か考え事をしていたのだろう。突然、話かけられて、考えていたことが口に出たようだ。
被害者は仲崎幸太郎で間違いない。身元が判明したからには、捜査はこれからが本番だ――普通に考えれば、そういう意味だろう。だが、それが的外れであったことを、佐伯は後々、思い知らされることになる。
祓川の姿が見えなくなった。「ちっ! また――」と言いかけて、慌てて「単独行動かよ」と言う言葉を飲み込んだ。
光輝と坂本が聞いていることに気がついたからだ。
折よく、同僚の高島と小笠原がやって来たので、光輝と坂本の相手を任せて、佐伯は部屋に入った。現場を見ておきたかった。
古いマンションとあって、部屋は畳敷きで、意外に狭い。
玄関から廊下が真っすぐに伸びており、リビングへ続いていた。畳の部屋で八畳間だ。リビングには人が争った形跡が見られた。時代遅れのブラウン管式の巨大なテレビがテレビ台と壁の間に仰向けになってひっくり返っていた。テーブルの上に置いてあったのだろう、リモコンや新聞紙、ティッシュ・ボックスなどが床の上に散乱していた。部屋の中はまるで嵐が過ぎ去った後のようだった。
部屋の中央に食卓があり、椅子がひとつ横倒しになっていた。そして、椅子の下に黒々とした血痕が畳の上に飛び散っていた。壁にも飛沫血痕が見られた。ここでおぞましい凶行が行われたことを物語っていた。
リビングに面したベランダのガラス戸が割れていた。揉み合った際に割れたのか、或いは外部から侵入者があったのかもしれない。
隣は寝室になっているようだった。襖一枚隔てて、六畳間があった。
部屋の中央に万年床が敷かれてあり、後は箪笥があるだけの質素の部屋だった。押入れの襖が開けっ放しになっていた。雑然と布団や物が詰め込まれた押入れに隙間ができている。侵入者が何か持ち去った形跡なのかもしれない。
現金を保管してあったとしたら、ここだろう。
寝室の確認を終えた佐伯は、リビングを通って玄関前の廊下に戻った。もう一間、四畳半の部屋があったが、こちらも殺風景な部屋だった。書斎として使っていたようだが、四角いちゃぶ台に座椅子があり、ほとんど本の入っていない本棚があった。
廊下に戻って、玄関脇の浴室に入る。浴室に足を踏み入れると、血の匂いが蒸せった。綺麗に洗い流してあったが、臭いは消えていなかった。(ここで遺体を解体したようだ)と佐伯は思った。
鑑識官がルミノール反応により、浴室で大量の血痕を発見した。
部屋の観察を終えて外に出ると、同僚の
高島は四十代。油の乗り切った年代だ。丸顔で一重瞼、頭髪は薄くなっているが、髭の剃り跡が濃い。目から鼻に抜ける聡明さは持ち合わせていないが、粘り強く地道な捜査を厭わない。
祓川に置いてきぼりにされた佐伯を気にしてくれているようだ。
高島の隣で
佐伯にとっては大先輩の二人だ。
「はあ、良いんですか? ご一緒して――」
「じゃあ、行くか」と三人でマンションを出た。
マンション前に停めてあった警察車両に乗り込み、大田区を目指した。仲崎光輝の兄、勇次は大田区にある工場に勤めており、平日の昼間なら、そこに行けば会えるという。
佐伯がハンドルを握った。助手席に座った高島から、仲崎光輝から聴取した勇次に関する情報を教えてもらった。
仲崎勇次は高校を卒業後、大田区にある町工場で働いている。既に結婚し、三人の子供がいる。子供を三人抱えて家計は火の車だった。だが、勇次はギャンブル好きで、少しでも金が手に入るとパチンコ、競馬、競艇に注ぎ込んでしまうようだ。
勇次は常に金に困っていた。
ある日、町工場で一緒に働いている黒田から、幸太郎が大金を持っているという話を聞いた。黒田は幸太郎の古くからの友人だ。
「この間、幸太郎さんと久しぶりに会って飲みに行ったんだ。そしたら、『お宝が売れて結構な金になった』と言っていた」と黒田が勇次に伝えたようだ。
「結構な金って、いくらなんだ?」と勇次が尋ねると、黒田は「はっきりと教えてくれなかったけど、ありゃあ~相当な大金のようだ。数百万円なんて単位じゃなくて、一千万円くらいじゃないか」と答えた。
黒田から話を聞いた勇次は、早速、「金が手に入ったそうだけど、俺にも少し貸してくれないか?」と幸太郎のもとに頼みに行ったと言う。
「ところが、あのクソ親父。『金はない』と兄貴を門前払いにしたそうだ。兄貴は『シラを切るな!黒田のジジイから、親父が金を持っていると言う話を聞いたんだよ!』とゴネたが、親父は『例え金を持っていたとしても、お前になどにやらん! どうしても欲しければ俺が死ぬのを待つんだな』と言って兄貴を追い返したそうだ」と光輝は言った。
そして、光輝自身も勇次から話を聞いて、やはり父親から金を借りようと幸太郎のマンションにやって来た訳だ。
高島の話によれば、仲崎光輝は高校を卒業してから職を転々としており、現在は独身で無職、勇次と同じように金に困っていた。光輝は勇次に貸さなかった金も、自分には貸してくれるはずだと信じていた。光輝には甘いところがあったのだろう。
勇次、光輝以外に兄弟、姉妹はいない。
金を貸してくれない父親に腹を立てた勇次が、幸太郎を殺害したのだと光輝は主張していたが、確たる証拠がある訳ではなかった。
「何だか、複雑な家庭環境のようですね」と佐伯が言うと、「複雑と言うか、破綻した家庭と言った方が良いかもしれんな」と高島がため息交じりに答えた。
「祓川さん。仲崎のやつから話を聞いていたはずですよね。何も教えてくれませんでした。放っておくと、直ぐに単独捜査に走るし・・・」と佐伯が愚痴ると、「佐伯。あの人は本庁の捜査一課で辣腕を振るっていた刑事だ。お前、あの人に食らいついて、捜査のやり方を少しでも盗んだ方が良いぞ」と忠告された。
「そんなものですかねえ~」佐伯は興味無さそうに答えた。
大田区には四千もの工場がある。
「ものづくりの町」として知られている。金属加工を生業としている工場が多く、そんな町工場のひとつ「優成機械工業株式会社」に仲崎勇次は勤務していた。
「お話をお伺いしたい」と声をかけると、勇次は「社長、ちょっとタバコ吸って来ます」と工場の奥に怒鳴ってから、無言で工場の外へ出た。
仲崎勇次は三十代。光輝の兄だが、似ていない。体格が良く、細い目に長い顔で、モアイ像を思わせる。
工場の外には長椅子と灰皿が置いてあり、休憩所兼喫煙スペースになっていた。
勇次は作業着のポケットから煙草を取り出すと、ライターで火を点けて長椅子に腰を降ろした。高島に小笠原、それに佐伯の三人は立ったままで、勇次に質問を始めた。
高島が尋ねる。「仲崎さん、お父さんが行方不明になっているのをご存じですか?」
「ああ、そうかい。それで?」感心がなさそうだ。
「最近、何時、お父さんと会いましたか?」
「さあ? 一週間くらい前かな」
「何故、お父さんを訪ねて行ったのですか?」
「子供が親を尋ねるのに、いちいち理由なんか要るのか?」
「お父さん、大金をお持ちだったとか? 金を借りに行ったと聞きましたが」
「ふん、光輝のやつだな」と勇次が言う。鋭い。「ああ、確かに親父が大金を持っていると聞いて、金を借りに行ったよ。でなきゃあ、あんなクソ親父、誰が会いに行くものか!」
「お父さんがお金を持っていると誰から聞いたのですか?」
「黒田さんだよ」と勇次が答えた。
「で、お金を借りることはできましたか?」
「いいや。金は無いと追い返された。『金を持っていたとしても、お前になんぞ、貸してやらん。どうしても欲しければ俺が死ぬのを待て』と言われたよ」
勇次は忌々しげに吸いかけの煙草を灰皿に押し付けた。
「その話を誰かにしましたか?」
「ああ、したよ。丁度、光輝のやつから電話があったんで、親父の金の話をした。あいつ、『よし、親父が金を持っているかどうか、俺が確認して来てやる!』と言っていた」
「今朝ほど、光輝さんがお父さんを尋ねたところ、留守でした。部屋の中に争った形跡があり、お父さんを探しています。何処にいるのかご存じありませんか?」
「はは。じゃあ、光輝のやつ、親父を殺して金を奪ったんだ。きっとそうだ」
兄弟で相手が父親を殺したと主張している。歪んだ家族だ。
「いえ、弟さんは、あなたがお父さんを殺害して金を奪ったんじゃないかと言っています」
「光輝の野郎・・・ふん。知らねえよ。俺は」
「お父さんはどうやってお金を手に入れたのですか?」
「さあね。うちにあったお宝を売って金に換えたって、黒田さんは親父から聞いたらしい。けど、うちにお宝があったとは思えない。あれば、とっとと売っていたはずだ。あの親父のことだ。人を騙して手に入れた金に違いないな。でなきゃあ・・・」勇次は下から高島を見上げて、にやりと笑った。「人でも殺して手に入れた金だろうな。何せ、あいつは、お袋を殺して金を手に入れた最低の人間だからな」
「お母さんを殺した?」
刑事を相手に人殺しの話とは聞き捨てならない。
「ああ、そうだよ。親父はお袋に保険をかけて、車に突き飛ばしやがった。今のあのマンションは、その時の保険金で買ったものだ。光輝はまだ小学生だったんで、よく覚えていないだろうけど、俺は当時、高校生だったからな。親父がお袋を突き飛ばすのを、はっきりとこの目で見た」
勇次が高校に上がったばかりの頃だと言うので、もう二十数年前の話になる。
金に困った幸太郎は妻、
勇次の話によると、幸太郎が真理を殺害した経緯はこうである。
長い陽が落ちかけた夏の日の黄昏時だった。突然、幸太郎が「皆で食事に行こう」と言い出した。仲崎家は幸太郎の放蕩のお陰で常に金がなく、一家で食事に出ることなど皆無だった。喜んだ真理は幸太郎の気が変わらない内にと、勇次と光輝を急き立てて食事に出かけた。
外食と言っても、金がないので近所の大衆食堂に行った。それでも真理や勇次、光輝は久々の外食に大はしゃぎしながら、一家団欒を楽しんだ。
日が沈んで行く歩道を一家四人で歩いて家に戻った。人通りは少なかったが、交通量の多い道路だった。黄昏時で視界の悪い時刻だった。勇次、光輝の兄弟が前を歩き、後ろから幸太郎夫婦が後から付いて歩いていた。
突然、勇次の傍らを通り過ぎた車が急ブレーキを踏んだ。
急ブレーキの音に、勇次が後ろを振り返ると、車に撥ねられた真理が宙を舞う姿が目に飛び込んで来た。まるでストップ・モーションのようだった。そして勇次の目には、真理を突き飛ばした幸太郎の伸びた手が見えた。
「親父がお袋を突き飛ばした姿が頭の中に焼き付いている」語気は荒かったが、勇次の表情は苦悩に満ちていた。
まるで悪夢だ。母親を路上へと突き飛ばした父親の姿が、頭を離れないのだ。
真理の死後、保険金と賠償金を手にした幸太郎はマンションを買い、生活が派手になった。真理の死を嘆き悲しんでいるようには見えなかった。
「あんな親父の傍に居たくなかった」
勇次は、高校を卒業すると家を出た。高校時代の勇次は手の付けられない不良で、地元の暴走族に属していた。それでも勇次には早く家を出て独立したいという目標があったので、高校だけは卒業しておいた。そして暴走族から足を洗った先輩の伝手で、今の優成機械工業に就職した。
「俺の親父は、あんなクソ野郎なんかじゃなくて、社長さんだよ」
勇次は工場を振り返りながら言った。
優成機械工業を経営する社長の
勇次を前に、「俺は不良少年の更生に興味はない。お前が本気で金属加工を勉強したいのなら、俺も本気で教えてやる」と秋元は言った。
「手に職さえつけていれば、何があっても食っていける」が秋元の口癖だそうで、勇次に対して、惜しみなく自らの加工技術を伝授してくれた。教えは厳しかったが、秋元の愛情を感じることができた。父親譲りのギャンブル癖は抜けないが、勇次は工場でも指折りの加工職人となっているようだった。
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