第2話。奈落の底で見た光

 最高の人生とは、どんなものだろう。

 例えば、例えば私が世界一の金持ちになったとする。

 この体を治して、世界一豪勢な城に住んで、世界一美味い食事を食べて、世界中の芸術品や金銀財宝を集めて、使用人は美男美女で固めて、あとはええと……あんまり思いつかないな。まあ、こんなものか。

 とにかく、一切苦労せずにあらゆる欲望を満たし続けられる最高の人生があるとしよう。はたしてそれは、本当に百点満点なのだろうか。


 私はそんな生活、いずれ絶対に飽きると思う。

 どんなに大きな幸福を手に入れたところで、それに慣れて当たり前のものになってしまえば、もうそこに喜びは無い。

 そうなれば人はさらなる刺激や未知の快楽を求め、よからぬ事に手を出して破滅へ向かうという事は、古今東西多くの権力者が証明している。

 詰まるところ、完璧な人生とは現状以上の幸福が手に入らない行き詰まりの人生でしかないのではないだろうか。頂点の手前くらいの位置をキープし続けるのが理想的な人生なのかもしれない。


 一方で、私自身はどうなんだろう。

 冒険者という職業ほど、多くの人が想像する幸福な人生からかけ離れた仕事もない。

 冒険者は毎日が命の危機と隣り合わせだ。しかも失敗者は笑われ成功者は嫌われる。半死半生でようやく手にした稼ぎは経費にすぐ消えるし、いつ死んでもおかしくない人間が家庭なんて持てるはずがない。

 改めて考えると酷い。安定とか穏やかな人生とは対極の極みだ。まともな人間が就く職業じゃない。


 だが、夢と自由はある。

 私は毎日好きな所に行ってもいいし、誰かの役に立つ素晴らしい何かを見つける事ができるかもしれない。例え夢が妄想のまま終わったとしても、自由だけは保証されている。死ぬまで毎日同じ事を繰り返すだけの人生よりもずっといい。満点の人生にはほど遠いが、半分くらいはあってもいいだろう。

 本音を言えば、持たざる者の負け惜しみなのだが。




 さて、私は今この世で自由から最も遠い場所にいる。

 照りつける陽射しの下、左右に2m四方の檻がいくつも並んでいる。中には鎖で繋がれた少年少女が1人ずつ監禁されており、雑巾と大差のないようなボロ布を着せられている。


 糞尿は垂れ流しになっているのだろう。檻の中は酷く汚れており、誰もが排泄物を全身にこびりつけていた。髪の毛にまで絡まっている事に気付いてしまい、私は同じ女としてわずかな同情を覚える。


 栄養状態も悪く、皆が一様に痩せこけていた。悪臭と共に飛び回るハエがまとわりつき、私を苛立たせる。

 私の他に客はいない。そうでなくとも、私のような若い女性の客は滅多に来ないそうだ。もしかすると特殊な性癖の持ち主だと思われているのかもしれない。

 仲間を作れないからといって、ヤケクソになって覗きに来るものではなかった。私は自分を恨んだ。


 私は今、背後にある奴隷商の館から出てきたところだ。元より奴隷など買うつもりがなかったため、帰る口実として館内の商品が高すぎて手が出せないと店員に伝えたが、今度は屋外の処分品コーナーを案内されてしまった。


 冷やかしだと思われたくはないため、気は進まないが一応見てみることにした。


「買ってっ、買ってくださいいい! 私、私ぃっ、あと3週間で殺処分されるんですっ!」


 私に気づいた檻の中の少女が、檻から手を出して必死な声で懇願を始めた。まだ昼前とはいえ、鉄の檻の中は熱がこもるのだろう。少女の肌は汗ばみ、長い髪はべったりと顔に張り付いていた。


「待ってくださいっ! 買うなら僕にしてください! 何でもします! 何でも言うことを聞きます!」


「お願いします! 私を選んでください! ご主人様のためなら死ぬ気で頑張りますからっ!」


「助けて! 助けて! 私は騙されて知らないうちに売り飛ばされたんです! ここから出してくれたら何でもお礼をしますからぁー!」


 彼女を皮切りにほかの奴隷たちも一切に叫び出した。あまりの大音量に耳が痛くなる。

 私が顔をしかめたのを見て、絵本で見たオークのような体型をした店員が棍棒を手に取り奴隷たちに近づいた。


「ひいいいいいい!」


 怯え声と共に、檻の中から伸ばされていた手が一斉に引っ込んだ。処分品とはいえ、一応の調教はされているようだ。

 よく見ると、檻に括り付けられた値札の隣には名前と商品説明が書かれてある。

 知能や性格といった内面的な説明から始まり、身長や傷・障害の有無など身体能力に関する説明、技能や特技などの付加価値、そして最後の一行には奴隷になった経緯と共に殺処分までの日にちが書かれてあった。


 ここに陳列されている奴隷は、1年以上も売れ残った難ありの商品らしい。

 この先売れる見込みもなく、食費やスペースの節約のために殺処分される者達だ。

 彼らに比べれば、あの館の中で並んでいた奴隷達は、まだ人としての尊厳を保てていたように思える。

 身なりを整えられ、小綺麗な服を与えられ、大きな不安と小さな期待の入り混ざる顔で微笑まされていた奴隷達。


 その奴隷にさえなれなかった処分品達が、今私の目の前に陳列されている。


 一人くらいは買えるだろうか。

 檻に近づき、値段と説明を読んでみた。

 なるほど、売れ残る理由はそれなりにあるものだ。

 主人に反抗する可能性がある者。調教の過程で身体的欠損ができてしまった者。心が壊れてしまった者。容姿が悪い者。

 それでも値段は決して安いものではない。この先養わなければならない事を考えると、私の所持金ではやはり一人がギリギリだろう。


 説明文を流し読みしつつ檻の前を通ると、中の奴隷達は無言のままアピールをしてくる。店員が怖いのか、声を出す者はいない。


 やせ細った体で必死に腕立て伏せを試みる少年。汚れた服を脱ぎ全裸になる少女。土下座と懇願を繰り返す少女。全てを諦めたかのように、何のリアクションも起こさない少女。引きつった笑顔で張りぼての愛想を作る少年。


 欠陥品を買いたがる客は決して多くないだろう。この中の何人が殺処分されるのだろうか。更に言うなら、まともな人間が好き好んで売れ残りの彼らを買うとは思えない。最初から使い捨てる事を前提とした加虐嗜好を持つ人間ばかりが来るに違いない。

 ここに並んだ時点で彼らの末路は決まっているのだ。


 私は彼らの声なきSOSをなるべく聞き流し、値札と殺処分までの日にちを淡々と眺めていく。

 一通り目を通したが、殺処分までの時間が最も近い者は、ふさぎ込む黒髪の少女だった。

 残り、一日。この少女は明日殺されるのだろうか。もしかすると、今日かもしれない。

 死を前にして、彼女は今何を考えているのだろう。興味を持った私は、少し尋ねてみることにした。


「おい」


 私の呼びかけを受け、体育座りでふさぎ込んでいた少女はようやく顔を上げた。この少女はそれまで私を見ようともせず、他の奴隷と異なってアピールもしようとしなかった。


「どんな気分だ? 明日死ぬというのは」


 少し意地の悪い聞き方だったかもしれないが、まだ買うと決めたわけじゃない。なるべく無駄な希望は持たせたくない。


「……」


 少女は少し考え込んでいるようだった。

 私は返事を待つ間に商品説明に目を通す。値段を見たところ買えなくもないが、ここの奴隷の中では高い方だ。

 商品名・ミサキ。14才雌。

 性格・臆病で従順。

 身体能力・発育が悪く体力も低い。要領も悪いため労働力には不適応。

 特技・読み書きが可能な程度。

 用途・虐待または実験動物程度。

 経歴・一般的な農家の家庭で育つも、貧窮により両親により売却。


「怖い、です」


「だろうな」


 商品説明を読み終える頃に返ってきた答えは、拍子抜けするほど平凡だった。

 私は何を期待していたのだろう。死を前にしても矜持を貫く一種の聖人のような気高さを奴隷に求めていたのだろうか。


「怖いなら、なぜ他の者達のように私に媚びない」


 この少女は私が側を通った時も何のリアクションも起こさなかった。だが恐怖を感じるのなら、まだ心が壊れてはいないはずだ。


「諦めているのか」


「……」


 少女は何も喋らない。


「この後、私以外の客が来るとは限らない。君にとって私が最後のチャンスかもしれない。それを何もしないまま諦めるのか」


 無言のまま少女が立ち上がった。何かを堪えるように視線は下を向き、両の手は強く握りしめられている。その体は震えていた。


「わ、私を……っ、買わないで、くださいっ」


 喉の奥から絞り出すような声が吐き出された。

 私は聞き違いを疑う。買ってではなく、買わないでくださいだと。


「私、私は、何も、できません。物覚えが悪くて、何を教わっても、失敗ばかりして、迷惑をかけてきたんです。だから、私を買うと絶対に迷惑をかけます。あなたに、損を、させて、しまいます。ごめんなさい。ごめんなさい……」


 少女は頭を下げた。いったい何に謝罪しているのだろう。


「私は……し、死ななければ、ならない人間なんです。私が産まれてきたから、お父さんにもお母さんにも苦労ばかりさせてっ、誰にも買ってもらえないから、旦那様にも損をさせてしまって……」


 感情の堰を切ったように、少女は一気にまくし立てる。


「死ぬことは、怖いです……でも、誰にも必要とされないままご飯を恵んでもらって、嫌われて生きていることは、もっと辛いんです……死ぬことでようやく役に立てるんですっ……!」


 嗚咽が混ざってきた。泣いているのだろうか。

 しかし困った。死ぬ事で役に立つかどうかを否定する気はないが、さすがに自殺志願者を助けても仕方がない。本当に死にたがっているのかどうか、もう少しつついて反応を見てみよう。私の同情を誘っているだけならよいのだが。


「それで?」


「それで……って」


「悲劇のヒロインごっこは終わりか? 同情でもしてほしいのか?」


「そんな、つもりは……」


「何を話してくれるかと思えば、ただの自分語りか。可哀想な自分に酔うのはそんなに気持ちいいか?自虐以外にお前の取り柄はないのか?そうなら確かにお前には何の価値もない。お前を産んだ両親も同レベルのクズで、お前を買い取って今日まで食わせてきた奴隷商人も大間抜けだな。ははっ」


 私は顔の傷を触りながら笑ってみた。少しぎこちないが、人相の悪い私が言えば演技とは思われないだろう。我ながら酷い言い分だとは思うが、私が見たいのはこの辛辣な言葉に対する反応だ。

 泣くのか、怒るのか、媚びへつらい笑うのか。その反応次第で救うかどうかを決めたいのだが……少女は顔を伏せて前髪で顔を隠してしまった。これでは反応が見れない。


「おい、顔を上げろ」


「……」


「聞こえないのか、顔を上げろと言っているんだ」


 強い口調で命令したが、少女が顔を上げる様子はない。まさかこいつ、本当に死にたいのか?

 私は聞こえるように舌打ちをして檻に体を寄せた。檻の隙間から手を突っ込み、少女の襟を掴む。


「余計な手間を取らせるな」


 強く手前に引いた。少女はバランスを崩し、転びかかった拍子に頭を檻に打ちつけた。鈍い音が響く。うわっ、ごめん!

 思わず手を離したが、少女が私から逃げる素振りは見せない。ぶつけた頭に手を添えるでもなく、私のすぐ目の前に幽鬼のように立ち尽くしている。


「……」


 少女は下を向いたまま一言も声を出さなかった。

 私は一度は離した右手を彼女の髪の下に差し入れる。

 右手は濡れた頰を伝い、顎の下へ滑っていく。

 その肌は小刻みに震えていた。やはり泣いているのか。右手に少し力を加え、彼女の顔を無理やり上げさせる。

 そして私は彼女の顔を覗き込みーー。


「見せてみろ、神様に見捨てられた負け犬の顔を」





 ーー夏の暑さを忘れた。


 私の顔のすぐ前に、二対の昏い孔がある。

 一条の光も差さない底知れぬ円形の闇と、その縁を彩る血の赤。その淵から湧き出す液体は氷水に等しい冷たさを待ち、私の右手から浸透して心の奥底を凍てつかせた。

 人はこんな目をできるのか。充血するほど泣くだけで、こんな顔になるのか。絶望と恐怖と悲壮を憎悪で煮込んだような顔に。


 その目から逃げるように視線を落とした私は、反射的に手を引いた。指を噛みちぎられると思ったからだ。

 少女の唇は釣り上がり、歪な微笑みを形作っていた。歯を剥き出しにしたわけではないが、直感的にそう感じた。

 鳴り響くセミの声がどこまでも遠く感じる。


「今まで、たくさんの方が私をからかって、笑っていかれました……私、私は、何度も何度も必死になって買ってもらおうと努力しました……しかし、どうやら努力が足りなかったのか、神さまは私を御覧になってはくださらなかったようです」


 その声に私は背筋を氷が這い回る感覚を覚えた。肌が泡立ち産毛が逆立つ。少女の声のトーンは何一つ変わっていないというのに。

 この表情は何と呼ぶのだろう。私が予想していた顔は一つもなかった。絶望した人間だってもっとマシな顔をする。


「でも……」


 二つの闇が私を見据える。冷や汗が流れた。


「良かった」


 私はこの狂気に圧倒されていた。


「最後に私を見てくれる人がいて」




 きっと、今まで多くの客が彼女に希望と絶望を与えてきたのだろう。その度に彼女は爪先ほどの可能性にすがり、その悉くを裏切られてきたのだろうか。

 彼女にとっては、私も奴隷の必死さをあざ笑う一人にしか見えなかったに違いない。


「……ご満足、いただけましたでしょうか」


 少女が頭を下げた。

 これが臆病で従順だと。とんでもない見当違いだ。指は無事だが、彼女は私に噛み付いた。それでいて私のリクエストに応えてみせた。私の要望通りに見せつけた。

 愛すべき両親に切り捨てられ、奴隷に落ちて人の尊厳を奪われ、希望と絶望で心を弄ばれ、人生の全てを消費され尽くして明日には殺される人間の顔を。


「あっ、ああ……」


 やられた。

 彼女の迫力に飲まれ、正直に答えてしまった。彼女のを認めてしまった。目前に迫る死の恐怖に怯え自分の無能を嘆きながらも、人間としての矜持を見せつけられた。


 これが計算づくなら大したものだが、そこまで器用ならば今日まで売れ残ってはいないだろう。

 あの顔は演技で作れるものではない。彼女の言葉は、全てが真実だった。


 こいつは、最後の最後まで全力で生きようとしている。


「決めたぞ」


「……」


「私は、お前を買う」


 少女は頭を上げない。また嘘をつかれて希望から絶望に叩き落されると思っているのだろうか。


「嘘じゃない。今それを証明してやる」


 私は懐から財布袋を取り出し、店員に押し付けた。店員は意外そうな顔をしていたが、すぐに中の金貨を数え終えると、お買い上げありがとうございますと定型文を口にした。


 そこでようやく少女が顔を上げた。


 先ほどの狂気の形相は影も形もない。年相応の、あどけない本来の顔つきに戻っている。表情を見るに、命を長らえることができた喜びよりも、私が購入したことに対する驚きの方が強いようだ。

 店員の態度もそうだが、もしかして私は貧乏な客に見られていたのか。少し悲しい。


「クレア・ディスモーメントだ。私は慈善事業で大金を支払ったわけじゃない。これからちゃんと役に立ってもらうぞ」


「はっ、はいっ! ミサキですっ! 私に何ができるかは分かりませんが、ご主人様のために頑張ります!」


 中々にスイッチの切り替えも早いようだ。

 こいつはもしかすると、意外と向いているかもしれない。


「だが私の事は主人扱いするな。師匠とか先生とか、とりあえずはそういう感じでいい。私もそのつもりで君に接する。君はもう奴隷じゃない」


「奴隷では、ない……」


「そうだ、君は今日から冒険者だ」


「冒険、者」


 この少女を買い取ることで私に得はない。全財産の殆どがなくなった。教える事は山ほどあるし、服も買い与えて髪も切らせないといけない。食費も倍かかる。

 だけど仕方がない。この少女を助けられるのは私しかいなかったのだから。ここで彼女を見捨てれば、きっと私は今以上に自分が嫌いになってしまう。

 そう、結局は自分の小さな良心を満たすための偽善だ。だから、その、なんだ。


「ありが、ありがとうございまずっ! わだひっ、わだひ、この恩は絶対一生忘れまぜんからっ! 絶対絶対クレア様の役に立っでみぜますっ! ありがとうございますっ! ありがとうございますっ!」


 だから、そんなに泣いて感謝するのはやめてくれ。

 そのたった一言が、どうしても言えなかった。

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