たとえ神に選ばれなくても
@nakamakun
【英雄になれなかった誰かの話】
第1話。肉の泡に沈む町
穢らわしい肉泡の群れが町を侵蝕していた。
民家の壁に。商店の屋根に。神の加護も虚しく教会の内側に。胎動する肉の泡がゴボゴボと溢れかえり、垂れ流される粘液は町の外観をじっとりと覆い尽くしている。
肉泡にはまばらな体毛が生えており、透けた肌色の表皮には淀み濁ったドス黒い血管が縦横無尽に走っていた。そして時折表面に浮かび上がる巨大な瞳でギョロギョロと獲物を探しては、逆流する汚水のような音を立てて醜悪な笑みを浮かべる。
「おかーさん……お腹すいた……」
「ごめんね……もう水も食べ物も残ってないんだよ……」
「チクショウ! 殺すならひと思いにやれってんだ!」
人を喰う泡の怪物たちが町を支配して、はや五日。
肉の泡と半透明の粘液に閉ざされた家々の中には、逃げ遅れた多くの住民たちが囚われていた。怪物は彼らの存在に気付いていながらも、あえて手を出していない。
怪物は不死身だった。
剣も矢も沈むばかりで液体を破壊できるはずもなく、多少の火などものともしない。
挑んだ者は皆死んだ。故郷を守ろうとした自衛団も、家族を逃す時間を稼ごうとした勇敢な夫たちも、通報を受けて化け物を駆除しに来た地方領主の騎馬隊も、怪物と戦った者は一人残らず肉泡に頭を包み込まれて消化された。
そして今や彼らは、喰われた頭部の代わりに首から肉泡を膨らませている。
犠牲者は死後も怪物からは解放されない。苗床となり養分となり乗り物となって、囚われた町を看守の如く巡回し続ける。怪物は哀れな彼らをあざ笑うように、犠牲者同士の首の上で頻繁に互いの肉泡を交配させて体液を循環していた。
怪物から逃れられた者は、後先を考えずに着の身着のまま町を真っ先に飛び出した住民と、現場を見た途端に住民救出の依頼を投げ出して保身に逃げた冒険者だけだった。
「おかーさん」
「大丈夫、大丈夫よ。きっと神さまが私たちを助けてくれるからね……」
「チクショウ……こいつは知ってやがるんだ! 俺たちを一度に喰い殺さずに残しておけば、俺たちを助けるために新しい獲物がやって来るって事をよ……!」
そしてこの一家もまた、逃げ遅れた者たちだった。
幼い少女を連れて、不死身の怪物たちから逃げ切る自信は無かった。だから家の中に隠れて助けを待っていたというのに、その待ち望んだ救出部隊も二日前に壊滅してしまった。水と食糧の備蓄も尽き果てた今となっては、もはや希望などどこにも残っていない。
「クソッタレ! 俺たちが何をしたってんだ……!」
亭主が小斧を握る手に力が篭る。
家に閉じこもってから、彼は一度もこの小斧を手放さなかった。当初は怪物に振るうつもりだったが、今ではもう一つの使い道が彼の頭から離れない。
あの怪物に喰われるくらいなら、いっそこの手で妻と娘を。
そう考える者は、この家の亭主だけではなかった。すでに実行に移してしまった家族もある。怪物に食われるまでもなく、今この瞬間にも全ての住民が死に果てようとしていた。
「おかーさん、ドロドロが……」
そして死神は次なる獲物をこの家族に決めた。少女が指差す窓の外。カーテンの隙間から、悪意に満ちた笑みを浮かべた肉の泡が一家を覗き込んでいた。
「窓から離れなさいっ!」
主婦が娘の手を引いて窓から遠ざけた。「隠れてろ!」亭主が小斧を手に立ち上がる。けたたましい音を立てて窓が破られ、カーテンが引き破られてガラス片が飛び散った。
吐き気を催す臭気を引き連れて、泡立つ肉の頭を持つ怪物が家の中へ侵入してきた。家族を逃がす為に怪物と戦った隣家の主人のなれの果てである。
「このバケモンが!」
家族を守るため、亭主は怪物の頭へ小斧を振り下ろした。ドポォン。怪物の頭部の半分を占める眼球が潰れ、血と粘液の混ざった体液が飛び散る。確かな手応えが亭主の腕に走り、怪物は動きを止めた。亭主が引きつった笑みを浮かべる。
「へっ……へへ、やっぱり目玉が弱点だったか」
その瞬間、夥しい数の眼球が肉泡の表面に出現した。隙間なくビッシリと肉泡の体表を埋め尽くした目玉群がギロリと動いて、一斉に亭主を見つめる。
「ヒッ」
亭主は小斧を引き抜こうとしたが、小斧は肉泡に沈み込んだままピクリとも動かない。「だっ、駄目だ! 早く逃げ「キャアアアアアーッ!」亭主の言葉を遮り、主婦の絶叫が響き渡った。
家中の窓という窓から怪物の目玉が覗いていた。
逃げ場など、もはやどこにも残っていない。家を取り囲む怪物たちは、これから行われる殺戮ショーを期待するようにニタニタと下卑た笑みを浮かべ、絶望する哀れな獲物たちの様子をじっくりと観察している。
「やめろ……やめてくれ……」
怪物の操る死体が亭主の両腕を掴んだ。肉泡がブクブクと急速に肥大化し、涎を垂らしながら大口を開けて亭主の顔に迫る。亭主の目から涙が溢れ、漏らした小便がズボンを汚した。
「おかーさん、怖いよ……」
「ああっ……神様っ!」
主婦は怯える娘を抱きしめた。
そしてあらん限りに声を張り上げる。
「誰かーっ! 誰かいませんかーっ! お願いしますっ! この子だけでもっ! せめてこの子だけでも助けてください! 誰かっ、誰かぁああああーっ!」
必死に助けを呼ぶ彼らの醜態を見て、怪物たちはゲラゲラと笑った。
こいつらは面白い。怖がらせてやると、誰も彼もが神様とやらに助けを求めて情けなく泣き喚きながら死んでいく。馬鹿な奴らだ。もっと怖がらせてやろう。もっと苦しめてやろう。そしてその血の最後の一滴まで啜り尽くしてやる。
ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラ。
「間抜けめ。そうやって遊ぶから、お前らのような怪物はいつも負けるんだ」
一本の矢が風を切り裂き、割れた窓から飛び込んで肉の泡を貫いた。「ギヒィーッ……!」それまで切られても貫かれても平然としていた液状の怪物が、そのたった一矢に小さな悲鳴を上げてひっくり返った。肉の泡が紫色に変色して固まり、首から下は手足をバタバタと跳ねさせて陸揚げされた魚のようにのたうち回る。
唖然とする一家をよそに、窓に張り付く怪物たちは矢の放たれた方角を一斉に向いた。
肉の泡に溺れる町の中、紫に染まる棺桶を引く禍々しい女が居た。
年齢は不明。片手に弓を持ち、顔中を包帯で覆っていて素顔は見えない。さらに革手袋と長靴、黒いスーツコートで肌の露出を徹底して抑えており、頭の後ろで金色の髪を束ねている。そして包帯の合間から覗く琥珀色の目には、強く輝く理知的な光が備わっていた。
彼女は蓋の取り外された棺桶を鎖に繋いで引いていた。中身は不明だが、少なくとも人間ではない事は確かだろう。毒々しい紫色の半固形物がなみなみと満ち満ちており、夥しい数の矢が漬けられるように何本も突き刺さっていた。
息を呑んで見つめる亭主と彼女の目が合う。見れば彼女の通り来た道は一面の紫色に染まり、白目を剥いて痙攣する怪物たちで埋め尽くされていた。
「すまない。これでも急いだつもりなんだが、こいつらを捕まえて色々と試していたから遅くなった」
彼女は棺桶から矢を引き抜き、弓につがえた。矢尻から紫色の液体が滴る。キリキリと弦が張り、彼女の目に悍ましき怪物の群れが映る。
「危ないところだったが、声を出してくれてよかった。後は私に任せてくれ」
そして放たれた矢は紫色の軌跡を一直線に描き、屋根の上に張り付いていた怪物へと狙い違わず着弾した。
物理攻撃に絶対の自信があった肉の泡が、くぐもった苦悶の声を上げて硬直する。
「ギヒイイーッ……!」
痛みを感じる神経を持たないはずの彼らが、未知の苦痛に悶え苦しんでいた。失禁するように垂れ流される紫色の粘液が、周囲にジクジクと拡がって仲間に更なる感染を広げ始める。
「さあ、どうした怪物。お前らの敵がここに居るぞ。さっさとまとめてかかって来い」
女は片手を前に突き出して手の平を上に向け、人差し指をクイクイと曲げ伸ばしして怪物を挑発した。
そのジェスチャーが何を意味するかを知らなくとも、一家を襲っていた怪物たちは一丸となって彼女へと殺到する。
「首から下の人間の身体は、お前らにとって便利な移動手段と弁当であって本体ではない。お前らの本体はあくまでもゲル状の肉泡部分だ。この手の怪物にありがちな核や弱点は存在せず、お前らは肉泡の全てが核であり目であり消化器官となっている。そこに人体の一部が見受けられるのは、喰った相手の特徴と混ざる性質を持つからだ」
彼女は怪物に話しかけることで、彼女なりの敬意を敵に示していた。そして弓を背中にしまい、ドロドロした紫色の液体で溢れた棺桶に浸かっていた水桶を掬い上げる。
その間にも怪物の群れが一丸となって押し寄せてくる。
「そして弱点となる臓器を持たない液体の生物であるがゆえに、お前らには物理攻撃が通用しない。これまで負けた相手はいなかっただろう。不死身で無敗とは大したものだ」
彼女は迫り来る怪物の群れに向けて水桶を大きく振り回し、中身をぶち撒けた。斜め上方に撒き散らされた紫色の飛沫が、怪物たちの前列に頭から降り注ぐ。
「だからこそ、お前らは今日ここで滅びる」
紫色の雨を浴びた怪物たちが次々と悶え苦しむ。ほんの数滴が付着しただけで、肉泡の波も人体に寄生した個体もその場に崩れ落ち、粘液でぬかるんだ地面で蠢くだけの苦しみの塊になった。
「不死身だから敵の攻撃を防ぐという発想を持てない。危険を知らないから逃げるという判断が出来ない。無敗だから仲間に警告する知性が育たない。窮地を知らなかった事。それがお前らの最大の弱点だ」
そして彼女はザブンザブンと何度も水桶を汲んでは、怪物たちへ執拗に紫色の飛沫を浴びせた。
「山奥にでも隠れていれば良いものを、自惚れて人間に手を出したのは間違いだったな、【スライム】」
誘き寄せた近隣の怪物たちを一掃した彼女は、鎖を握って棺桶をズルズルと引きずり始めた。そして歩きがてらに足元で痙攣するスライムを水桶で慎重に掬うと、棺桶の中に注ぎ込んで中身を補充した。スライムは毒液の中でしばらく形を維持していたが、それもやがて力尽きて毒液の素材となった。
この数日間、彼女は切り取って持ち逃げしたスライムの一部を使って、人知れず実験と観察を繰り返していた。毒蛇毒虫毒草毒キノコ、腐敗した動物の死体や発酵し始めた糞便。病死した死体から搾った血液。
裏社会と闇市を駆け回って集めたそれら劇物の全てをスライムと混ぜ合わせた蠱毒の壺が、この毒液の詰まった棺桶である。
スライム同士はすぐ結合する。さらに獲物からは養分を一方的に吸い取り増殖する特性と合わさって、この液体は毒性が外部に漏れず、どれだけ多くのスライムに混ぜても毒性が希釈されない猛毒と化していた。
(ゲヒュッ……キヒィッ……!)
そして毒液の一部となったスライムたちはまだ生きていた。彼らはその生命力ゆえに死ぬ事も許されず、自分たちが人間を食い物にしたように、細胞の一滴までカビや細菌の合わさった混合毒に食い荒らされる苦痛を味わい続ける。
そして今後同様の怪物が出現した時の為に各地で瓶詰めにされ、厳重な管理下で定期的に栄養を与えられて激痛の中を保存され続けるだろう。
「あ、あんた……何者だ? 魔術師か何かか?」
固唾を呑んで割れた窓から戦いを見守っていた亭主が、彼女に話しかけた。彼の背後には妻と娘が居て、涙と怯えに滲む目で彼女を見つめている。
信じられなかった。
待ち望んでいた救いの手が本当に来た。
勇敢な者は死に絶え、賢い者は逃げ出した悪魔の餌場へ。
ただ一人彼女だけが戻って来た。
怪物たちを永劫の苦痛へ幽閉する棺桶を引きずって。
「いいや、私はただの冒険者」
彼女は恐怖に震える少女を少しでも安心させる為に、顔に巻いていた包帯を解いた。誤って毒液を摂取しない為に巻いていたのだろう。眉間を斜めに走る古傷を除き、彼女の顔に目立った怪我は無かった。
露わになった彼女の精悍な顔付きは、その尋常ならざる眼光と相まって亭主に雌の狼を連想させた。
「クレア・ディスモーメントだ」
そして数時間後。
「つ……疲れた……小さめの町とはいえ、不眠不休の私一人でこれ全部はマジでキッツイ……。せめて一人くらいは仲間が欲しいなぁ……はぁ……」
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