第七話 雨降って地固まる

<Aチーム・桃視点>


「桃さん。わたくしと勝負しませんこと?」


テント内の自席に、無花果会長が座っていた。

私はその問いかけを無視した。そして、自分のカバンから飲み物を取り出し、喉を潤す。


「あらあら。随分嫌われてしまったようですわね」


悲しいような困ったような口振りだったけど、彼女のことだ。本心では楽しんでいるに違いない。


「そうですわ!貴女が勝った場合、わたくしは金輪際、貴女の視界にすら入らないという条件ではいかがでしょう?」


「……その言葉が信用できるとでも?」


無花果会長は、純粋に愉しみたいだけだ。勝負も、人の思いも、何がどう転がっても興味深く笑うだけ。だから、勝負を受ける必要はない。


「では、これで信用していただけますか?」


そう言って無花果会長は、首から下げていたペンダントを外し、私の手に握らせた。非常に高価そうなそれを見て、私は慌ててハンカチの上に置く。


「この写真は私の命よりも重い、大切なものですわ。こちらを、貴女に預けます」


無花果会長は私の手の上にあるペンダントの蓋を開けた。中には……遥先輩にそっくりな、小さな男の子の写真が挟まれていた。


「え!?こ、これって……?!」


「うふふ。私(わたくし)の命、貴女に捧げましょう。もし約束が嘘だった場合は、そちらをどのようにしても構いませんわ」


無花果会長は笑顔を消し、真剣な瞳で私を見つめる。


この写真の子は、もしかして、遥先輩本人?それとも、遥先輩に似ていると言っていた"昔愛した殿方"なのだろうか。

一瞬、これもフェイクかと思ったが……さすがの無花果会長でも、嘘を吐くためにここまで手の込んだことはしないはずだ。


そして、このペンダントが本当に大切なものなら……これを利用して、隠していることを全て話させることができるかもしれない。


「わ、わかりました。引き受けましょう」


「本当ですの!?嬉しいですわ。ありがとうございます、桃さん!」


無花果会長の顔がぱぁっと明るくなった。その笑顔はあまりに美しく、思わず虜になりそうになる。

しかし、私は必死にその誘惑を抑え込んだ。見た目は良くても、あの意地の悪い性格を知っている以上、もう騙されない。


「でも、勝負って一体何をするんですか?」


「うーん……体育祭最後の種目、騎馬戦で勝負するのはいかがでしょう?」


「あの。私たち、同じチームですよ?さすがに味方同士でやり合うのは……」


「最後までハチマキを獲られなかった者の勝利、ということに致しましょう……どちらも最後まで残っていたら、勝負はなかったことになりますけれど」


無花果会長はそう言うと、意味ありげに微笑んだ。彼女の自信に満ちた表情を見て、この勝負を受けて本当によかったのか不安がよぎる。


「それでは私(わたくし)、準備を整えてきますわ。お互い、全力で楽しみましょう」


彼女は優雅に立ち上がり、ジャージの裾を整えながら、どこかへ消えてしまった。その背中には、これからの戦いに対する余裕と楽しみが滲んでいるようだった。


彼女の背中を見送りながら、私は無意識にペンダントを握りしめる。

私は気持ちを落ち着かせるため、深く深呼吸をし、テントの外に目をやった。

グラウンドでは各競技が次々に進行し、応援団の声や観客の歓声が入り混じっている。


……まだ、騎馬戦が始まるまで時間がある。


騎馬として支えてくれる生徒を集め、立ち回りや体形について相談させてもらった。

怪我しないことだけに注力し、勝ち負けにはこだわらないスタイルで練習していたので、騎馬の生徒たちは、急な方針の方向転換に戸惑っていた。

私は正直な思いと事情を伝えて頭を下げ、頼み込んだ。

すると、彼女らは私の思いに同調してくれ、快く引き受けてくれた。


……あとでわかったことだが、彼女らも生徒会長に妙な嘘やからかいをされたことがあったらしい。

会長には熱狂的なファンが多いけど、同じくらい、彼女のことを苦手に思う人も多いんだろうな、と思った。


+++


<Cチーム・遥視点>


熱気に包まれた体育祭のグラウンド。


その喧騒の中、僕と朱里はCチーム付近の巨大パラソルの元で、騎馬戦の様子を見ていた。

色とりどりのハチマキとたくさんの生徒が溢れかえる中、無花果生徒会長が圧倒的なオーラを放ち、自然と彼女の方に目をやってしまいそうになる。

周囲の生徒たちも皆、彼女に魅了されているようだった。


そして俺は、遠目で無花果会長を見て、徒競走のときに言われたことを思い出した。


「朱里。生徒会の三年生って、どんな人達だかわかるか?」


「ええっ?!……な、なんでそんなこと気にするの?」


俺は、徒競走のときにあったことを正直に伝えようと思ったが、東洋とやらに口止めされていることを思い出し、


「いやっ、詳しくは言えないんだが、生徒会三年生には気をつけろって忠告されて……」


すると、俺の隣で座っていた朱里は、不思議そうな声で「うーん?」と唸った。


「ええと、よくわからないけど……生徒会の三年生は二人いるよ。会長さんともう一人。書記の方で、確か名前は……黄緑由依さん」


聞いたことがない名前だ。何故俺をターゲットにしているんだろう?

いや、そもそも、東洋とやらが言っていたことは、果たして事実なのか?

初対面の俺のことをいきなり"親友"とか言ってきたし、妄想上の発言だった可能性もある。

なんだ。じゃあ、別に大して気にする必要ないじゃないか。


「……でも、会長がおかしな嘘を言っていたの。もしかして、それが関係しているのかも」


「ん?おかしな嘘?」


「うん。生徒会長が急に、"私は武道遥さんが好きです"って宣言してきたの……あっ!も、もちろん、冗談でね?」


はい?俺、今まで一度も会長と関わったことがないのに、何故俺の名前が出てくるんだ?


初対面で親友宣言してきた謎の男子生徒、東洋。

そして、俺を狙っているかもしれない、黄緑由依さんと無花果会長。


……とりあえず、生徒会メンバーには今後一切、関わらないようにしよう。


俺は思考を一旦放棄し、視線を騎馬戦の方に戻す。

するとちょうど、試合が始まるホイッスルの音が鳴り響いた。


無花果会長が見事に相手の騎馬を撃退し、次々とハチマキを奪っていく。

その速さと無駄のない動きに、周囲の生徒たちは一斉に「さすが、無花果様!」と叫んでいた。

でも俺は、会長ではなく桃の姿を目で追っていた。


桃はスタート位置に近い場所で、ハチマキをぎゅっと握りしめ、必死に守り抜こうとしている。

その小さな体は、震えているようにも見えた。

いつも屈託のない笑顔を見ているからこそ、不安でいっぱいの顔を見ると、胸が苦しくなる。

見守るしかできない自分に苛立ちを覚え、自然と拳を握りしめた。


その時だった。


「ずいぶんヘタレですことぉぉお!貴女の気持ちはっ!想いはっ!その程度なのかしらぁぁあ!?」


一瞬、誰の声かわからなかった。

しかし、周囲の生徒たちの反応から、その声の主の正体が無花果会長だとわかった。


「会長のあんな顔、見たくなかった……」

「大きな声、出せるんだ……初めて聞いた……」

「そんなところも素敵です!」


すると、無花果会長の大声をきっかけに、桃の表情が一変する。

不安でいっぱいだったはずの桃が、覇気のある真剣な姿へと変わっていた。

そして――次の瞬間、桃は見事に他の生徒のハチマキを奪い取っていた。

桃は、冷静に……けれど無我夢中に、次々と敵を襲ってはハチマキを奪う。


いつのまにか、無花果会長と同じくらいの量にまでなっていた。

俺には桃の姿が、敵ではなく自分自身と戦っているように見えた。

桃の、自分の弱さを乗り越えようとする姿に、どうしても感情が揺さぶられる。

彼女の勇気や強さに、胸の奥が熱くなるのを感じた。


気がつけば騎馬の数が、七組にまで減っていた。

無花果会長と桃の騎馬……Aチーム目掛けて、五組のチームが一斉に勝負を仕掛ける。


完全に自分の世界に入っていた桃は急に正気に戻ると……俺のいる方を見ていた。

その時俺は、ふと、桃と出会った頃のことを思い出した。


「は、遥くんっ!」


朱里の声で我に返った。

そして俺は、ありったけの感情を……思いを込めて、誰よりも大きな声で、叫んだ。


「桃ーーーーっ!頑張れーーーーーっ!」


その声援は遅かった。

桃は、敵にハチマキを獲られてしまっていた。


その後、無花果会長が残り全ての騎馬を制圧し、見事、Aチームが勝利した。

生徒の誰もが、Aチームの……無花果会長の勝利を喜び、歓声をあげている。


だが俺は、その結果を聞いても嬉しくもなんともなかった。

呆然としている桃の姿を見ていると、とても喜べるような状況ではなかった。

すると、無花果会長が獲られてしまった桃のハンカチを、桃の頭につけてあげていた。

しかし、桃は地面にハチマキを投げつけて泣き出し、どこかへ行ってしまった。

その姿を見て、僕の心が締め付けられるような感覚に襲われた


「桃……っ!」


俺はすぐさま席を立ち、桃を追いかけようとしたが……隣にいた朱里が腕を伸ばし、俺を静止させた。


「遥くんはここにいて。私が桃ちゃんを連れて来るよ」


「いやっ……でも……っ!」


「心配する気持ちはわかるよ。でも、遥くんに何かあったら……それこそ、桃ちゃんが悲しむ」


その言葉を聞いて、俺は自分の性質を思い出した。


……俺には、その他大勢の人間ができる"当たり前"をすることができない。

多くの危険が潜んでいるこの状況に飛び込んでいくのには、リスクがある。

追いかけているときに、女性と鉢合わせたら? 女性とぶつかって、また倒れたら?


大切な人が悲しんでいるときに、傍にいてやれるなら、俺は倒れたって構わない。

でも、これは俺のエゴだ。もしそうなったとき、また悲しむのは、俺の大切な人なんだ。

俺が倒れれば、結局は桃をもっと傷つけてしまうだけだと、今はっきりと分かっている。


……やっぱり俺は、この性質を早く克服しなければならない。

心の中で、無力さと苦しさが絡み合う。

あまりにも自分が情けなくて、しばらく何もできない。

……だが、こんなことで足踏みしていたら、何も変わらない。


「悪い。頼んだ」


俺は言葉を絞り出した。今の俺には、それしか言えなかった。


俺がそう言うと、朱里は「任せて」と一言残し、桃の後を追っていった。

その背中を見送りながら、心の中で誓った。


俺は、自分の弱さに向き合わなければならない。

もっと強く、もっと自分を変えなければ、誰のためにもならない。

それが今、目の前に立ちはだかる唯一の道だと、ひしひしと感じる。

どんなに時間がかかっても、どんなに辛くても、俺は必ず変わってみせる。

これから先、どれだけ試練が待ち受けていようとも、俺はその道を進む覚悟を決めた。


+++


<Aチーム・桃視点>


熱気に包まれた体育祭のグラウンド。


既に数々の競技が終わっており、最後の大一番、騎馬戦が始まろうとしていた。

無花果会長が出場することもあって、観客席は今にも爆発しそうなほど盛り上がっている

私はその雰囲気に飲まれないように身を引き締める。そして、私と無花果会長は共に最終戦のスタートラインに立っていた。


「いよいよですわね」


無花果会長が静かに呟く。その表情はいつになく冷静で、どこか予測できない鋭さを湛えている。

彼女は言葉少なに周囲を見渡し、確実に目標を定めているように見える。……彼女は一体、何を考えているのだろう。


「……負けません」


私は思わず、小さく言葉を漏らす。

それが届いているかどうかもわからないまま、ホイッスルが鳴り響き、試合が始まった。


「行きますわよ」


無花果会長の声が響き、次の瞬間、彼女は見事な速さで敵チームに接近した。

まるで風のように素早く、その動きは周囲の誰もが目を見張るほどだった。


「会長、すごい」


思わず、私はその姿に見とれてしまう。

無花果会長は相手から伸びる手を華麗に躱し、次々と敵のハチマキを奪い取っていく。

手柄がほしいのか、私の騎馬メンバーのように恨みを買っているのか。次々と他チームの騎馬が無花果会長を襲いかかるも、返り討ちに遭っていた。

私はその後ろで、必死に自分のハチマキを守ろうとする。敵の騎手の手が迫って来る度、冷や汗が流れ、心臓がドキドキと早鐘のように打ち続けていた。


もし、このままハチマキを取られてしまったら、無花果会長に負けてしまう。

相談通りに立ち回ってくれる騎馬の上で、私は心底恐れを感じていた。

焦りが募り、視界がぼやける。無花果会長の笑顔が、目の前で揺らめいて見えるような気がした。

……そうだ。ハチマキを取られないだけでいいなら、無理に敵と戦う必要はない。今から騎馬の生徒たちにお願いして、無花果会長よりも後ろに戻れば……。


「あ、あのっ!」


「!?どうかしたー?!」


騎馬の生徒たちに向けて、次の言葉を発しようとした。その時だった。


「あらあらぁぁあ!?ずいぶんヘタレですことぉぉお!貴女の気持ちはっ!想いはっ!その程度なのかしらぁぁあ!?」


無花果会長の突然の大声に、歓声や騎馬たちが一瞬、ピタリと静止する。

普段大きな声を出すことがないのだろう。声は裏返り、顔を真っ赤にしていた。


「そんなんだからっ!先を越されるんじゃねーんですのぉぉお!?」


次の瞬間、無花果会長の騎馬は立ち尽くしている生徒に向かっていき、無表情で冷静に相手のハチマキを奪っていく。

……あの言葉はきっと、私に向けたものだ。


それを自覚した途端、私はようやく自分を立て直すことができた。


「すみません!もっと攻めます!」


私は騎馬のメンバーにそう告げると、その言葉に応じて、敵が固まっているエリアへと突っ込んでいった。

もはや勝負の結果などどうでもよくなっていた。ただ、プライドが私の心と頭を支配している。

無花果会長に勝ちたい。……いや、それ以上に、私の弱い心に打ち勝ちたい!


「ここっ!」


私は相手の攻撃を素早く躱す。そして、次にどこに手が伸びるかを予測し、隙を見つけてその箇所に狙いを定め、一瞬の判断でハチマキを奪い取った。

驚くほど自分の身のこなしが軽くなっているのを感じる。まるで、誰もいない広い世界で一人、自由に駆け回っているような感覚だった。

自分だけの世界に入り、無我夢中で敵を対処しながら……私は、先ほどの無花果会長の大声を心の中で反芻していた。


会長の言葉は図星だった。私はいろいろ言い訳をして、感情を無理やり押し込めて、心のモヤモヤから目を逸らし続けていた。

その結果、朱里先輩には先を越され、無花果会長の冗談に過剰に反応し……がんじがらめになって、悩みの沼に溺れそうになっていた。

その状況でただ、自分の行く末を思案しているようでは駄目なんだ。


悩みはあってもいい。でも、それにばかり気を取られていては、一歩も進まない。


「無花果様のハチマキの数見ろよ!やっぱりすげーな!」

「待って、無花果様の隣にいる子もすごくない?!」


近くのテントから聞こえる声で、自分の世界から戻ってきた。

いつの間にか、私と無花果会長は横に並んでいた。


周りを見渡すと、残る敵の騎馬はあと五組になっていた。騎馬戦は終盤に差し掛かっている。

私たちをどうにかしないと勝てないと判断したのか、五組の騎馬は一丸となって、私たちに襲い掛かる。

会長の騎馬は少しだけ前に出て、まるで私を守るかように敵を圧倒していた。


今までの私と騎馬たちの活躍や、近くに会長がいることもあり、私はつい、気を緩める。

ふと、巨大なパラソルに目をやる。気がつけば、私は遥先輩と出会ったときのことを思い出していた。


―――


紅葉が舞う大通り、地面には赤や黄色の落ち葉が広がっていた。

焼き芋やお団子の甘い香りが漂い、幸せそうな家族連れやカップルが行き交う中、ボロボロの姿で佇む一人の少女。

そして……ボロボロの姿で佇んでいる女の子が一人、誰の目にも入らない場所でそれを眺めている。

悪い大人たちに酷いことをされそうになった時、ヒーローが助けに来てくれた。

サングラスと手袋をした、不格好でカッコいいヒーロー。


―――


「桃ーーーーっ!頑張れーーーーーっ!」


ヒーローの声が聞こえる。

それはグラウンドの誰よりも大きな声で……私の心を揺さぶった。


「あっ……!」


それ気づいた時には、もう遅かった。

……敵の手が、私のハチマキを取っていた。

最後の最後で、私は勝負に負けてしまった。


「桃さんっ!」


無花果会長の声が聞こえる。

彼女は珍しく慌てた様子で、こちらを一瞥した。


悔しさが胸に押し寄せ、心臓が激しく打ち始める。


私は優しく騎馬の生徒から降ろされ、「よく頑張ったね」と励ましの言葉を投げかけられた。

しかし、今の私にはその言葉は耳に入って来ず、ぼんやりとグラウンドの中央に立ち尽くし、周囲の景色をただ見つめる。


何故か怒った顔をしていた無花果会長が、私のハチマキを取った生徒に勢いよく襲いかかる。そして、その生徒のハチマキを見事に奪い取った。

敵の騎馬が全て倒され、最後まで残っていたのは、無花果会長の騎馬だけだった。


「Aチームの勝利です!」


アナウンスが響いた瞬間、会場から歓声が沸き起こる。無花果会長の名が一層大きく響いていた。

しかし、彼女はその声を無視し、私の方に向かって歩いてくる。そして、私の頭にそっと私のハチマキを付けた。


「良い勝負でしたわ」


会長は爽やかな笑顔を浮かべ、その顔と言葉には嘘偽りがないように感じられた。

でも、その優しさがかえって私の負けを痛感させ、惨めさが胸に込み上げてきた。

私は子供のようにハチマキを地面に投げ、涙が溢れてくるのを隠すように、誰もいない場所へと駆け出した。


+++


辿り着いたのは、体育館裏だった。


誰もいない静かな場所で地べたに座りながら、私はこっそり涙を流していた。

あのタイミングで、遥先輩のことを思い出すべきではなかったのに。彼のことを想うと、思いが溢れてしまう。

……これが、私の弱さで、甘い部分なんだろうなと、そう自覚した。


ふと、終盤戦での無花果会長の様子を思い出す。


私のハチマキを取った生徒は、実は無花果会長の手下で、私が負けるように計画していたのではないか?

……いや、たぶん、違う。

私がハチマキを取られたときの焦りと、その後に見せた怒りの表情は、演技ではなかった。

それに、騎馬の生徒たちのように、無花果会長のことを快く思っていない生徒も多い。

例え協力してくれる生徒がいたとしても、その生徒が最後までハチマキを残し続けられるとも思えない。

もし本当に、会長が裏で糸を引いていたとしても……それは私が負けた言い訳にはならない。

私も同じように仕向けることだってできたわけだし、ハチマキを取られた事実自体は変わらない。


「桃ちゃん!こんなところにいた」


突然、角から朱里先輩が現れた。

朱里先輩は息切れをしながら、パン食い競争でもらっていたパンを手に持っている。

私は私は慌てて涙を拭い、地面を向く。


「大丈夫? みんな心配してたよ」


朱里先輩の声が優しく響く。その優しさにまた涙が溢れそうになりながらも、


「……少し、一人になりたくて」


と、涙声で呟いた。


「と、とりあえずパン食べよっ!お腹いっぱいになったら、気持ちが落ち着くよ」


すると、朱里先輩はパンの袋を破り、私の口に無理やりパンを押し付ける。


「ちょっ、待っ……もがもが」


口いっぱいに広がるパンの素朴な甘さに、どこか心がホッとした気がした。


「あっ!桃ちゃん、アレルギーとかない?」


「え?ないですけど……」


「よかった〜。このパン、アンパンだから……」


弱った様子の人に、アンパンを渡す。

それって、有名なあの……


「……朱里先輩、アンパンのヒーローなんですか?」


「ええっ!?あっ!た、たまたまだよ!私、アンパンチ打てないよ!?」


「……くっ……」


「あー!今、桃ちゃん笑ったよね!?」


「いえ、笑ってないです。……ぷくく」


私はついに腹を抱えて笑い出した。朱里先輩は、頬を膨らませながらも、安心した表情を浮かべている。

そして、笑いが落ち着いたあと、その勢いで、思わず口を開いた。


「実は私、朱里先輩に嫉妬していたんです」


不意の告白に、朱里先輩は驚いた表情で私を見つめた。


「え?嫉妬って……?」


困惑しながらも、朱里先輩は私の話に耳を傾けてくれる。


「……ごめんさない。聞いていたんです。遥先輩に、"初めての女友達だ"って言われているところ」


「あっ……」


「それで、私の方が先に仲がいいのにって思って……朱里先輩と仲良くなろうって思ったのも、二人の仲を牽制するためで……」


言葉がまとまらず、空中分解してしまう。

つまり、何が言いたいのかというと……。


「……私、遥先輩のことが好きなんです」


二人の間に、しばらく沈黙が流れる。

私は急に気恥ずかしくなり、アンパンをパクパクと食べ進めた。


「……そっか。じゃあ、ライバルだね」


「!……ヴッ!」


「わっ!桃ちゃん、大丈夫?!」


思わずアンパンを喉に詰まらせてしまった。

朱里先輩から未開封のお茶を貰い、半分ほど飲み干す。


「ハァ……や、やっぱりそうだったんですか?!」


「ほ、本当は隠しておくつもりだったんだよ?桃ちゃんが遥くんに特別な感情持っているのは、薄々気づいていたし……」


「い……いつから気になってたんですか?」


「そ、その話はまた今度にしない……?」


朱里先輩は顔をリンゴのように真っ赤にしながら、慌てて自分の分のアンパンにかじりついた。

私を励ますためのパンだったなら、自分の分は必要なかったのでは?と思いながら、幸せそうにパンを食べる朱里先輩を眺める。

すると、朱里先輩はパンを食べる手を止め、口の中のものをゆっくりと飲み込んだ。


「……あの、さっきの"初めての友達"発言なんだけど……その後に続けた言葉、聞いてないの?」


「え?……あ。その後すぐに彼方を迎えに行ったので、聞いてないですけど……」


「……遥くんあの後、"桃は、友達以上に特別で大切な存在だ"って、言ってたんだよ」


「えっ!?」


私は思わず立ち上がり、ペットボトルのお茶を倒してしまった。


「あっ!す、すみません!お茶弁償します!」


「大丈夫だよ。これ、他チームの男の子からもらったものなんだよね。顔を真っ赤にして……何故か、私にだけ渡してきたの」


んん?もしかしてその男子生徒、朱里先輩に好意があるのでは……。

って、そんなことより!


「それ、本当ですか?私を慰めるための嘘じゃ……」


「嘘だと思うなら、本人に直接聞いてみたら?」


朱里先輩はどこか寂しげに微笑んだ。


――遥先輩にとって、私は特別な存在。


その"特別"が、どういうものかはわからないけれど。

それでも、そう思ってくれているという事実だけで、嬉しくて。嬉しさのあまり、どこまでも飛んでいきそうな気持ちになった。


「……あーあ!敵に塩を送っちゃった。私のライバル、強いなあ。昔馴染みで……しかも、唯一触れ合えるんだもん」


「そ、そんなことないですよ!どうせ私のことなんて、妹くらいにしか思ってないですよ」


「まあ確かに?遥くんにとって、いろいろな初めての存在になれるのは大きいかも……」


「ず、ずるいですっ!そんなの、いくら遥先輩でも意識しちゃうじゃないですか!……でも」


私は声のトーンを抑え、真剣な眼差しで朱里先輩を見つめた。


「……遥先輩の女性恐怖症、治ってほしいです」


「……そうだね。私も協力する」 


私と朱里先輩は顔を見合わせて、笑い合った。

閉会式のアナウンスが始まるまで、私たちはアンパンを食べながら談笑した。


このご時世、全く女性と関わらないで生きることは、難しくない。

でも、遥先輩が女性恐怖症になったのは、事故のようなものだ。その事故による制限を気軽に受け入れられるほど、私たちの心は柔軟ではない。

なにより、遥先輩自身が治したいと思っている。

本人の気持ちは尊重するべきだ。私自身、先輩には何不自由なく生活を送ってもらいたい。


私はアンパンの甘さを感じながら、遥先輩の未来に少しでも明るい光が差し込むことを願った。


+++


朱里先輩と一緒にグラウンドに戻ると、何人かの生徒がステージの前に並んでいた。

学校の時計に目をやる。そろそろ、閉会式が始まる時間のはずけど……ステージに会長の姿はなかった。

ステージ前の生徒や、各チームテントにいる生徒がそれぞれ、疑念や不安の声をあげている。


「どうしたんだろう?まだ、閉会式始まってないのかな?」


朱里先輩がそう呟いたその時、ステージの上に、見覚えのある姿が登場した。


「えっ……遥、先輩……!?」


「うそ……どうして、遥くんが……?」


生徒たちの疑念や不安の声が更に大きくなる。

すると一瞬だけ……ステージ付近の生徒会テントに、無花果会長の姿が見えたような気がした。


「朱里先輩!私、見に行ってきます!」


「えっ!ちょ、ちょっと!桃ちゃん?!」


朱里先輩の静止する声を無視して、私は生徒会テントへと走った。


案の定、そこには無花果会長がいた。他にも生徒会メンバーが一堂に会しており、もちろん彼方もいた。


「彼方っ!なんで……なんで、遥先輩がステージにあがってるの?!」


「げっ……桃!こ、これには深いわけが……」


わたくしから説明いたしますわ」


彼方に近づく私を遮るように、無花果会長が間に割って入った。


「簡単なことです。わたくしが、遥さんに閉会式のスピーチをしていただくよう、頼んだのですわ」


「な、なんでですか!?遥先輩、女性が……」


突然、彼方から小突かれる。

そうだ。遥先輩が女性恐怖症であることは、気軽に言ってはいけない。


本人の許可を得ずにアウティングするのはよくないし、それに、情報が出回りすぎると、先輩が望む自由な学校生活ができなくなる。


「無花果会長がどうしてもと言うから、私がダメ元で、武道遥に頼みに出向いたんだ。

武道遥は、しばらく悩んでいたが引き受けた。まあ、会長の頼みに断る輩は万死に値するがな」


榎本副会長は、何故か誇らしげに胸を張った。いやそれってつまり、拒否権がなかったってことじゃないの……?


「……っ!彼方!なんで会長を……遥先輩を止めなかったの!?」


会長の思惑は考えたところで無駄だし、副会長にとっては会長の言うことが絶対だ。この二人には、何を言っても通用しない。

だから、私は身近な存在で文句を言いやすい彼方に八つ当たりをした。


「全力で止めたよ!でも、お兄ちゃんああ見えて頑固だし、責任感強いし……それに、お兄ちゃん自身がそれを望んでたの」


「え……?遥先輩が……?」


私の思考が一瞬停止し、驚きが広がる。その瞬間、スピーカーから遥先輩の声が聞こえる。


私は慌てて生徒会テントを離れ、ステージが見える位置に移動する。遥先輩の姿が見えた。

顔が引きつっていて、すごく緊張しているのが、遠目でも分かる。そして、マイクを握る手が微かに震えているのが見えた。


『えっと……』


声が震えて、言葉がうまく出てこない様子に、私の胸が締めつけられそうになる。

でも、遥先輩は深呼吸をして、何度も視線を下に落としながら、それでも言葉を続けた。


『今日、私たちの学校の体育祭は無事に終わりました。運動や勝負、友人との交流など、様々な楽しみ方で一日を過ごしたと思います。

でも、私は……この体育祭を一つの節目として、新たな一歩を踏み出すことに決めました』


遥先輩はここで一旦言葉を止め、真剣な表情で、全校生徒に訴えかけた。


『この体育祭を通じて、私は学びました。悩み、挑戦し、乗り越えていくことの大切さを。

そして、私自身……今までの自分を振り返りながら、少しずつ、前に進んでいこうと思っています』


彼の言葉は、まるで心の中の葛藤をそのまま語っているようだった。


『過去の自分を超えるために、恐れず、進んでいきたいと思っています。

自分の弱さと向き合い、戦うという選択肢があるということを忘れないでほしいです。……私からは、以上です』


遥先輩のスピーチは、どこか詩的で、抽象的だったけど、でもその言葉には力強さがあって、悩みを抱える生徒たちの背中を押しているように感じた。

少しの沈黙の後、盛大な拍手がグラウンドを響かせた。

最初、無花果会長のスピーチでないことに不満を抱いていた生徒たちも、遥先輩のスピーチを聞いて、どこか爽やかな顔で彼のことを見つめていた。


私は生徒会テントに戻り、そのまま無花果会長の目の前に立つ。


「無花果会長」


私の声には、少しの決意が込められていた。


「あら?何の御用かしら?」


私のハンカチで包まれたペンダントを、ハンカチごとテーブルの上に置いた。

すると会長は、驚いた顔でこちらの顔をじっと見つめた。


「あら、よろしいのですか?そのまま持っておけば、わたくしを脅す材料に使えたでしょうに」


そう言いながら会長はハンカチを開き、ペンダントを手に取って首に掛ける。


「なっ……何故、貴様がそのペンダントを持っていた?!」


その様子を見ていた柚子は、驚きと怒りの入り混じった表情で私に詰め寄ってきた。


「柚子。落ち着きなさい。わたくしが自らの意思で預けたのです」


「い、無花果様!?そんな……この柚子ですら触れさせていただけない代物なのに!」

柚子副会長の敵意をスルーして、私は無花果会長に視線を向け、率直に気持ちを伝えた。


「私には会長の命をどうこうする権利はありませんよ。……それに、そんなもの使わなくたって、いつか絶対に本心を曝け出してもらいますから」


そう言い残して、生徒会テントを後にした。


「な、なんたる無礼な発言を……っ!」


「す、すみません!柚子先輩っ!私から注意しておきますんで!」


焦った様子で、彼方が私の後を追ってきた。


「桃!?アンタ、生徒会長にあんな啖呵切るなんて……」


彼方は驚いた顔をしていたが、生徒会テントから少し離れると、その表情を一変させ、ニヤリと笑みを浮かべた。


「……やるわね!」


その発言を聞いて、私もニヤリと笑った。

二人でグータッチして、Aチームのテントへと戻った。


+++


<Cチーム・遥視点>


穏やかな夕焼け空が、教室の窓を彩っていた。

体育祭が終わってから、俺たちは二年一組の教室で疲れた体を休ませていた。

気の抜けた空気が漂っている中、俺は机の上に並べられたパンをぼんやりと見下ろしていた。

朱里はアンパンに次々に手をかけていた。一方、桃はお腹がいっぱいなようで、机に頬を乗せている。


「お腹いっぱいです……」


「え!桃ちゃん、まだまだあるよ!もうちょっと食べたら?」


と朱里が楽しそうに声をかけるも、桃は全力で首を横に振った。

俺もパンを一つ手に取ろうとしたが……ふと思い立ち、彼方に声をかけることにした。


「なあ、彼方。生徒会の三年生についてなんだが」


俺の膝の上に座り、ぼんやりと外を眺めていた彼方は、飲んでいた飲み物を盛大に吹き出した。

……朱里といい、俺がこのことを聞くと驚いた反応をするのは何故だろう。


「ゲホッゲホッ!……い、いきなりなに!?なにかあった?!?!」


「いや、実は……とある人物から忠告されてな。生徒会の三年生に気をつけろって」


「え?とある人物って、誰?」


「悪い、それは言えない」


彼方はしばらく黙り込んだ。そして、嫌そうな顔をしながら口を開く。


「会長については、性格のことだと思う。あの人、人を揶揄うのが好きで、いつも嘘や冗談ばっかり言って、誰かを困らせているから」


まあ、それについては朱里からの情報とも一致するな。ただ、あの"遥さんのことが好き"とかいう冗談の意図は、結局わからないままだが。


「そして、書記の由依先輩。私……最近、その人に付きまとわれてるの」


「何だって!?は、初耳だぞ」


「ごめん。お兄ちゃんに迷惑かけたくなくて……中間試験が終わってから、ことあるごとに私に聞いてくるの。"お兄さんのことについて教えて"って」


俺の情報が知りたいというのは……どこかから俺の女性恐怖症の話を聞いて、興味を持ったとか、まあ、おおかたそんなところだろう。

それであれば、俺ではなく彼方に聞きに行くというのにも納得がいく。ストーカーのくせに、妙なところで気を遣う奴だな……。


しかし、一つだけ疑問が残る。俺が女性恐怖症であると知ったきっかけだ。

生徒会という立場だからなのか?先生や生徒がうっかり漏らした?疑う要素はいくつかあるが……今はそれよりも、彼方のフォローをするべきだ。


「彼方。まずは、打ち明けてくれてありがとう。今後は、俺にもちゃんと報告するんだぞ。

それから……今まで怖かっただろう。俺からも、柿澤先生経由でどうにかできないか、試してみるよ」


それを聞いた彼方は、肩の荷が下りたようにホッとした表情を浮かべた。

体育祭のこともあり、最近は彼方と行動することが減っていたが、今後は、生徒会の用事があっても、できるだけ彼方の傍にいてやれるようにしよう。


「いやあ、それにしても惜しかったね。僕たちCチームが二位とは」


俺と彼方が会話を終えたタイミングで、冬美が俺に話しかけてきた。

すると、その発言を聞いていた梅村が、嫌味ったらしく呟く。


「二人三脚で一位を獲れていたら、ボクらのチームが一位だったかもしれないのに……兄弟が即席の二人に負けるとは……」


「松竹君?僕に喧嘩を売るとは、良い度胸だね。大体、君が参加していた玉入れだって、あまり良い得点ではなかったみたいじゃないか」


「いやっ、あれは人選が悪かったよ、ウン!ボクは身長が高いわけじゃないし、玉入れなんて向いていなかったのさ!」


どんぐりの背比べのような言い合いを聞きながら、閉会式後の結果発表を思い出していた。

紹介されたのは上位三チームで、三位がBチーム、二位がCチーム、一位がAチームというのが、最終結果となっていた。

しかし、どのチームもかなり接戦だったようで、来年は二年一組がもっとバラけたチーム分けになるのではないかと、俺たちの間で話題になった。


「…………あの、武道先輩」


突然、背後から神野くんの声がした。

俺はゆっくり振り向く。神野くんは非常に居心地が悪そうな表情で、こちらを見ていた。


「も、桃さんのことで、良くないことを言って……すみませんでした」


神野くんは深々と頭を下げる。俺は慌てて、頭を上げるように言った。


「もう終わったことだ。気にしなくていい」

「で、でも」

神野くんがここまで俺のことを気に掛けるとは、珍しい。しかし、このままだと彼も納得しないだろう。

何かしらの免罪符を与えてやる必要があるな……そうだ。


「じゃあ、今からお互いに下の名前で呼び合おう。これでおあいこってことで」


「え…………わ、わかりました、遥先輩」


張りつめていた様子の夏巳の表情が、ふっと和らいだ。


「よし。そのついでに、俺への態度をもっと優しく……」


「あ、それは無理ッス」


さっきまでのしおらしい態度はどこへやら。夏巳は急にいつもの仏頂面になり、俺のことを睨んだ。

あれー?今の、仲良くなる流れだったのになー?


「夏巳!すっかり忘れてた。これ、返す」


柘榴が夏巳の元へ駆け寄る。夏巳は少しだけ笑みを浮かべ、借り物競争で貸していたストラップを手に取った。


「あ、あざス。てか、残念でしたね。一位獲れなくて」


「いやー、サンドウィッチ伯爵のトークが白熱したせいでな」


二人は特有の空気感で盛り上がっている。……二人とも、他の人にもそういう柔らかい態度を取ってくれ……。


そう思った矢先、教室の扉が開き、女生徒が入ってきたのが見えた。

慌てて目を逸らしたが……一瞬だけ見えたあの姿は、津島さんだな。


「シマコ~~~ッ!なんでずっといなかったの~~?!って、えええ!そのおでこのやつ、なに?!怪我したの!?」


「あけび、近い近い。それに、これはただの冷えピタよ」


津島さんはいつも通りの口調で、クールに振舞っている。二人三脚練習のときのあの慌てっぷりが嘘のようだ。


「あっ、ふ、古市……その、練習以降のこと、あまり覚えていないんだけど、迷惑かけたわね」


「い、いえ。元気になったようでなによりです」


二人はどこか気まずそうにしている。その微妙な空気を打ち破るように、俺は率直な疑問を津島さんにぶつけた。


「津島さん。二人三脚の競技中、ずいぶんボーっとしていたようだったけど……熱中症かなにかだったのか?」


「ん……ま、まあ、そんなところよ」


何とも歯切れの悪い返答だった。本当に熱中症だったのだろうか?


「これを機にボクからも質問なんだけど……津島クン、去年からたま~に、何でもないところをじーっと見るのは何なんだい?癖かい?」


教室内が静まり返る。どうやら梅村以外にこのことを気にしている人もいたようで、朱里や古市なんかは、うんうんと頷いていた。

しかし、津島さんがその質問に応えるはずもなく。


「ごめん。言いたくない」と、一言呟いた。


この場にいた全員に疑念が残るものの、それ以上追及する人はいなかった。

津島さんが言いたくないことを無理に聞き出す必要はない。

けれど……いつか、教えてくれるときが来てくれると嬉しいなと思った。


「あ、あーっ!シュリちゃん、もうそんなに食べちゃったのー!?」


静かな空気に耐えられなかったのか、あけびは大げさなくらい明るい声を出して朱里を指差す。

朱里の机の上に目をやると……アンパンの空袋が十個ほど置かれていた。マジか。


「前から薄々思ってたんですけど、朱里先輩って、食べるの大好きですか?」


「ええっ!?そ、そんなことないよっ!み、皆が食べなさすぎなんじゃない?」


この期に及んでしらばっくれる朱里。さすがにその発言は無理があると思うが……。

続く朱里と桃の押し問答に、教室内の少しずつ空気が和らいでいった。そして、各々が何気ない話をし始め、普段通りの雰囲気に戻っていく。


俺はその様子を眺めながら、静かに自分の気持ちを反芻する。


全員が同じチームだったわけではないが、このメンバーの間で、多かれ少なかれ関係が発展したように思う。

一年生の頃がどうだったのかはわからないが、俺や彼方、桃といった一石が大きな波紋をもたらしたのであれば、それほど嬉しいことはない。

こんな性質の俺でも、少しずつだが、人との輪に入り、かけがえのない思い出のひとページを作ることができている。


一年前の……直後の俺には、想像もしなかっただろう。この学校に……このクラスに入ることができて、本当によかった。

教室の窓から差し込む夕陽が、皆の顔を照らしている。

未来への希望を感じながら、俺はアンパンを一口かじった。

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ぶどうの恋は実らない。 徳田杏 @tokudanz

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