第二話 七転び八起き

私がもっと早く先輩の教室に向かっていれば、こんなことにはならなかったのに。


そもそも、入学式が贈れたのが原因で……教頭先生のおバカ!話が長いっての!


私は遥先輩の元に駆け寄り、回復体位の形になるように身体を動かした。

二年一組の方々から向けられる視線が痛いけど、そんなこと考える暇はない。


「お、俺、先生呼んでくる」


綺麗な金髪の生徒がそう言うと、急ぎ早で歩きながら職員室へ向かった。


「あ、あのっ!武道くん、だ、大丈夫……なんですか?」


「……別になにも。大丈夫ではありませんが、遥先輩が頑張りすぎただけなので。あなたは関係ないです」


「で、でも、私……」


とても胸の大きな先輩は、目尻に涙を滲ませながら遥先輩を見つめている。

……確かに、こういう女の子なら話しかけやすそうって思うのも、無理はないか。


そう考えていると、廊下から柿澤先生、先生を呼びに行った金髪の先輩、そして……


「彼方(かなた)遅い!お兄ちゃんが心配で心配でしょうがないんじゃなかったの!?」


私は思わず、彼方に大声を出す。

彼方は一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに唇をムッと尖らせた。


「生徒会の仕事が、思ってたより忙しいんだもん!大体、お兄ちゃんがここに通うことになったのは桃が!」


「彼方だって、『わ~いお兄ちゃんと同じ高校通えてうれし~!』って喜んでたじゃん!」


「そんな頭悪そうな言い方してないもん!それに、大好きなお兄ちゃんが近くにいるんだから、そう思うのは当たり前じゃん!

まあ?桃はお兄ちゃんのこと、大切だなんて思ってないだろうけど?」


「そ、そんなことない!わわ、私だって、遥先輩のこと大切に思ってるし!恩人だし!」


「麻平さん、武道さん、今は言い争っている場合ではありません。冷静に状況を整理しましょう」


柿崎先生はいつになく真剣な表情で、私と彼方の言い合いを制した。

そうだ、今はこんなことしている場合じゃない。


「それから、彼方さん。生徒会長が呼んでいましたよ。

なにやら緊急のようですから、ここは先生と麻平さんに任せて、そっちに向かってください」


「え、わ、わかりました。……桃!お兄ちゃんのこと、任せたからね!

……まったくもう……こんなことなら、生徒会なんて入らなきゃよかった」


彼方はそう言い残すと、教室を後にした。

そして柿澤先生は、倒れている遥先輩に最も近い位置にいた、胸の大きな先輩に声をかける。


「林郷さん、何があったか、先生に説明してくれますか?」


「は、はい。武道くんが私に話しかけに来て……それで、目が合ったあとしばらくしたら、力が抜けたように倒れこんで……」


やれやれ。そりゃ、こんな可愛らしい女子と目を合わせたなら、そうなるよ。

いきなり話しかけに行った先輩が全面的に悪いし、巨乳の先輩に非はないが、念のため注意しておこう。


「遥先輩は、"女性恐怖症"なんです。そのように聞いていたのであれば、自ら距離を取るなり、視線を逸らすなり……」


「えっ!」


林郷先輩は心底驚いた表情を浮かべる。私はこれを不思議に思い、教室を見渡す。

……皆、きょとんとしている。ま、まさか。


「遥先輩、自分が"女性恐怖症"だって言ってなかったんですか!?」


「何ということだ……すみません。先生のミスです。

てっきり、一度目の自己紹介のときに、伝えているものだとばかり……」


柿澤先生の思い込みは原因の一つではあるけれど、一番悪いのは遥先輩だ。

こんな大事なこと、なんで伝え忘れちゃうかなあ?!


というか……私、先輩の許可もなく、アウティングしちゃった!

なんたる失態!穴があったら入りたい。


……遥先輩には、後でたっぷり説教と謝罪をしよう。


私が憤怒と後悔の念に苛まれていると、柿澤先生は迅速な動きで先輩をおんぶし、私に向かってこう言った。


「麻平さん。先生が武道くんを保健室まで運びます。

ここにいる皆に軽く事情を話したあとで、保健室に来てくれますか?武道くんのご両親には、先生から伝えておきますので」


「えっ!でも、本人から伝えた方が」


「もちろん、本人の口から皆さんに伝えさせるつもりです。

でも、心配している皆を無下にもできない。それに、麻平さんと武道くんの仲です。きっと大丈夫ですよ」


先生はそういうと、小さい声で「重っ」と呟き、保健室がある方向へ歩き出していった。


本当は、今すぐにでも保健室に付いて行きたいけど……。

先生に頼まれたし、このクラスとは今後深く関わっていくことになるだろうし、仕方ないか……。


私は思わず、教壇の前に立った。未だ混乱中の先輩方の視線が集まる。


「……武道遥さんは、親族以外の女性に対して、恐怖症の症状が出てしまうんです。

そして、私は……私の名前は麻平桃(あさひらもも)です。一年一組です。去年から、遥先輩のサポートをしています」


「ちょっと待って。麻平桃さん、あなた、女性よね。

女性がサポートって……大丈夫なの?もしかして、親族とか?」


ポニーテールの先輩が手を挙げる。やっぱり、そこが気になるよね……。


ここは変に隠したりせず、正直に言おう。


「私は正真正銘、女性です。そして、親族でもありません。

……私は、親族以外で唯一、遥先輩の"女性恐怖症"の対象にならない女性なんです」


+++


目を覚ますと、そこは保健室であった。

そんな一節を思い浮かべるくらい、見渡す限り白で統一された空間だった。


ふと、俺の視線の端に、珊瑚色の物体を捉えた。


「ぅう、先輩……ごべんなさい……」


その珊瑚色の物体はどうやら人間だったようで、ベッドに顔を押し付けながら言葉を発していた。


「いや、桃は悪くない。悪いのは、俺だ」


「!!先輩、目が覚め……そそそ、そうですよ!」


散々泣いていたのだろう。勢いよく顔を上げた桃の目は赤くなっており、鼻からは鼻水が垂れていた。

俺はベッドの傍にあったティッシュペーパーを一枚取り、桃の鼻に押し付けた。


「ずびーっ!……女性恐怖症だって、何で言ってなかったんですか」


「……すまん」


クラスのみんなには、偏見の目がないまま普通に接してほしかった、とか。

もしかしたら、一切バレることなく、楽しい学校生活を謳歌できるんじゃないか、とか。

過去や事情を隠している人が多いし、軽い気持ちで言うようなことではないかも、とか。

克服のために頑張らなきゃとか、自己紹介で失敗したこととか、色々なことを考えていたうえで、言い出せずにいた。


……いや。色々なことを考えていたからこそ、思考が回らず、言うタイミングを逃した。


「浅慮だった。桃に心配かけた」


俺は桃の頭を撫でる。桃は、理由を言わない俺を見て不機嫌な顔を浮かべたが、すぐに呆れた顔になった。


「まあいいです。先輩にとっては久しぶりの学校ですから、いろいろ頭のネジが緩んでしまっていたんでしょう。

それはいいとして……ごめんなさい。私、先輩が気絶しているときに、アウティングしてしまいました」


成程。泣いていた理由はそれか。


「いいんだ。俺が伝えていなかったのが悪いんだし。むしろ、俺の代わりに伝えてくれて、ありがとう」


「……そうですよ、反省してください。私も、反省するので」


桃は袖で涙を拭いながら立ち上がった。制服のスカートを払い、前髪と肩まで伸びる髪を整えている。


「この後、ご両親……紫(ゆかり)さんと秋峰(あきみね)さんが迎えに来るそうなので、たっぷり心配されてくださいね。……あ、それと」


そう言うと、桃はどこからか背もたれのない丸い椅子を持ってきて、ベッドの傍に置き、座った。


「林郷先輩。ひどく自分を責めていたので、明日にでもちゃんとフォローしておいてくださいね。

もちろん、私と柿澤先生が、「あなたは悪くないよ~悪いのは武道遥だよ~」って言っておいたんですが……アレはたぶん、本人の言葉じゃないと安心しないタイプです」


確かに、林郷には大変な思いをさせてしまった。話しかけに来た人が急に倒れるなんて、失礼だし、怖すぎる。

手紙を書くか……いや、こういうのは直接口にした方がいいだろう。目を合わせないようにして、誠心誠意、謝罪するとしよう。


「それからっ、今後私も二年一組の先輩方と関わることもあると思うので、名前とか教えてください」


それもそうだな。


「まずは、椿丘柘榴。俺と同じく新参者で、イギリス人と日本人のハーフらしい」


「あ、あの綺麗な金髪の人ですよね?真っ先に先生を呼びに行ってくれました」


「そうか。お礼言っておかないとな。……それから、梅村松竹と古市雷。梅村はいいとこの家系らしい。

古市は先に帰っていたから、あの場にはいなかったな。俺より巨体でガラが悪いが、実は誰よりも礼儀正しいんだ」


「……梅村、ですか」


「なんだ?知っているのか?」


「!い、いえ!何も!へ、へぇ~!お坊ちゃんなんですね!」


「?まあ、いいか。あとは、一つ結びの女子が津島心菜で、腰まで長い髪の女子は、山名家あけびで……」


クラスメイトについて紹介していると、保健室の扉が勢いよく開かれた。


「遥ちゃん!」「遥!」


母さんと父さんだ。二人とも息を荒げて、俺のいるベッドへと一目散に向かって来た。


急いで来たのだろう。母さん……武道紫(ぶどうゆかり)は化粧をしておらず、エプロンを付けたままだ。

そして、父さん……武道秋峰(ぶどうあきみね)は、空手着を身につけている。


「具合はもう大丈夫なの?先生から聞いたわよ、頑張りすぎちゃったのね」


「一歩一歩、少しずつ、自分のペースでいいんだからな」


「悪い、心配かけた」


俺はベッドから起き上がると、母さんと父さんに頭を下げた。

父さんは俺の背中をポンポンと叩き、母さんは俺の右手を強く握った。


「明日からの学校は大丈夫そう?無理はしなくていいのよ」


「平気だよ、母さん。今日みたいなことが起きないよう、落ち着いて行動する。

それに……クラスメイトにも迷惑かけたし、直接礼を言わなきゃ」


「柿澤先生からも聞いたぞ。クラスの子たちがいい子たちそうで、父さんひと安心だ

そうだ、お昼ごはん、何も食べてないだろ。お前の好きな寿司でも食べに行くか?もちろん、桃ちゃんも一緒に」


「えっ!ご一緒していいんですか!」


「もちろんよ。桃ちゃんには今後も迷惑かけることになるだろうし、これくらいのことはさせて」


「ありがとうございます!先輩、早く行きましょ!」


桃の嬉しそうな声を聞いた父さんと母さんは、微笑みながら保健室を後にする。

それに続いて、俺と桃も廊下を歩きだした。


「……先輩、私、もっと先輩の助けになりますから、だから……」


「ん?何か言ったか?」


「別に何でも!何から食べようかなー、って言っただけです!」


よく聞こえなかったが、桃が呟いたのは、別の言葉のはずだ。

もう一度問い直そうとしたが……何故だろう。桃の無垢な笑顔を見た瞬間、何も言えなくなってしまった。

今はこれ以上、彼女の心に踏み込んではいけないような、そんな気がした。


+++


武道家の朝は、かすかに聞こえる正拳突きの音から始まる。


俺の家は空手道場で、父さんはそこそこ有名な空手選手だ。毎朝百回、正拳突きをしている。

母さんも空手はほどほどに経験者だが、主に門下生や父さんのサポート、他道場との練習試合やマネジメント等をしているそうだ。


「遥ちゃーん。彼方ちゃーん。そろそろ学校行くわよー」


母さんは、道場の掃除を終えると、合間を縫って学校まで車を出してくれる。

「母さん、いつもありがとう」俺は母さんに感謝を伝え、車に乗り込んだ。


起床時間も登校時間も、窓から見える景色も、昨日と何も変わらない。

変わったこといえば……妹の彼方が、隣に座っていることだろうか。


「彼方、今日は早いんだな。昨日は寝坊したのに」


「眠れなかったんだもん。だって、女子がうじゃうじゃいるんだよ?

お兄ちゃんの助けにならなきゃって思って、張り切りすぎちゃって……」


うじゃうじゃって、虫じゃないんだから。

彼方は、小さい頃から俺にべったりで甘えてばかりだった。

しかし、例の事件があって以来……今まで以上にべったりになり、過干渉で過保護になった。


「それより、ひどいのはお兄ちゃんの方だよ!一緒に行こうって約束してたのに!

私どころか、桃すら連れないで、勝手に一人で行っちゃうなんて」


どうやら彼方と桃は、二人だけの独自のルールを設けているようで。

登下校は、日毎に分担して俺に付き添う。どちらかが忙しいときは、その場限りではない。といったものらしい。

ちなみに、昨日の当番は彼方だったが、一緒に登校できなかったのでノーカンで、今日の当番も彼方ということになっているそうだ。


俺が女性恐怖症なばっかりに、二人にここまでさせてしまって、申し訳ない。

やっぱり、一刻も早く克服して……いや、この考えはよそう。

二人のために全力で尽くし、何があっても味方でいる。それが、今の俺にできる最低限の恩返しだ。


「今度からはちゃんと、彼方か桃と一緒に登下校するよ。

……でも、無理はするなよ。生徒会の活動、忙しいんだろ」


「忙しいのは、入学式とかそういうイベントがあるときだけ!もう忙しくないよ!」


青果花高校では入学前の段階で、生徒会メンバー募集のアンケートが配布される。

加入希望者の中で、成績優秀者もしくは選抜された生徒は、無事生徒会に入ることができる。

選ばれた生徒は、入学式当日から仕事を割り振られ、入学したしたばかりなのに、いきなり仕事を押し付けられるそうだ。


少々厳しすぎるような気がするが、この高校にとっては普通のことらしい。

それにしても、彼方がそういうことに積極的だとは思っていなかった。どういった理由で立候補したのか、彼方に聞いてみた。


「生徒会のコネとか権力を使って、お兄ちゃんが過ごしやすい学校に変えてやろうと思って」


すごく利己的で、無茶苦茶な理由だった。彼方がこの先うまくやっていけるのか、お兄ちゃん心配になってきたぞ……。


+++


俺の下駄箱の前に、桃の姿があった。


「桃、おはよう。こんなところで何してるの?」


「あ、彼方。おはよう。先輩も、おはようございます。

今日は彼方に任せようと思ってたんですが、先輩のことが気になって、ここで待っていました。

……迷惑、でしたか?」


昨日のことで心配をかけさせた俺に、迷惑だなんて言う権利はない。


「いや、迷惑なんてとんでもない。むしろありがたいよ」


「!そうですか、よかったです。

そうだ、せっかくなので一緒に二年一組まで行きませんか?」


「賛成!これから毎日、授業が始まるまで、私と桃が一緒にいてあげるよ!

いいでしょ?ね、お兄ちゃん!」


桃と彼方は、キラキラした瞳でこちらを見つめてくる。


「いや、そこまではしなくていい。学校に着いたら、それぞれの教室に向かおう」


桃と彼方は、不服そうな顔を浮かべながら、黙り込んだ。


……冷たいことを言っているのはわかっている。


二人には、それぞれの人生がある。

二人がいなければ、学校生活がままならないのは事実だ。

でも、俺は……俺なんかよりも、自分たちの青春や友達、思い出作りを大切にしてほしい。


俺は、ただでさえ貴重な時間を奪っている。だからこれ以上、奪ってはならない。


「……でも、まあ、今日のところは、お願いしようかな」


重くしてしまった空気を打ち破るように、俺は精一杯明るい声色でそう呟いた。


二人の顔に浮かぶ影は、消えないままだった。




二年一組の教室が近づいてくると、昨日のことを思い出して、いたたまれない気持ちになってきた。


高鳴る心臓を押さえつけながら、恐る恐る教室内を見ると、そこには椿丘の姿があった。


「椿丘!」


不安な気持ちを振り払うように、つい大きな声を出してしまった。

ゲームの攻略本を読んでいた椿丘は、驚いて顔を上げる。


「俺が倒れたとき、柿澤先生呼びに行ってくれたんだってな。すぐに動いてくれてありがとう。助かった」


「いや、別に。お前のためじゃないし。俺が迷惑だっただけだから、そこ勘違いするなよ……ハッ」


椿丘は手元の本の角を頭に数回叩きつけると、痛そうな表情を浮かべながら俺の目を見た。

……桃と彼方がドン引きしている。


「大事にならなくて安心した。というか、重要なことは早く言え」


思っていることを伝えるのが恥ずかしいのか、椿丘は顔を赤くしていた。


……そうか、わかったぞ。


椿丘は素直になれないとき、謎の奇行をして精神を落ち着けてから、本心を伝えているんだ。

なんて不器用な奴なんだ。今までさぞかし苦労してきただろう。


「それから、柘榴でいい」


「え?」


「俺の呼び方。柘榴でいい」


「!じゃ、じゃあ、俺のことも遥って呼んでくれるか?」


「……考えとく」


柘榴はそういうと、机に突っ伏してしまった。どうやらキャパオーバーだったようで、頭から湯気がでている(ような気がする)。


「あー!昨日、ここに来てた子だー!」


教室の後ろから、あけびの声が聞こえた。

あけび以外にも、古市、梅村、津島が一緒にいるようだ。


「ええと、名前は~なんだっけ?」


「麻平桃クンと、武道彼方クンだよ。雷クンとは、初対面だよね」


「あーそうそう!モッチーとカナタンね!」


「モッチーって、私のことですか!?」「カナタンなんて、初めて呼ばれた……」


桃と彼方にも、あけびネームがついたようだ。

……俺が勝手に考えた。あけび専用のあだ名だから、『あけびネーム』


「大変だったんだよー!急にハルがバターン!ってなって、この二人が来て、それで~」


あけびがぴょんぴょん飛び跳ねながら、古市に向かって必死に説明をしている。


「それは先程、何度も聞きました。

初めまして。古市雷です。昨日は何のお力にもなれず、申し訳ございません」


「い、いえ……」「お気遣いなく……」


桃と彼方はポカーンとした顔で、古市の顔を見上げていた。無理もない。


「古市が謝ることじゃないよ。でも、今後何かあったら、そのときはよろしく頼む」


俺は古市を見上げる。

古市は軽く会釈をすると、自席へと向かった。


すると、遠くから津島が声を張りながら、俺に向かって話しかけてきた。


「ええと、武道。アンタにどう接すればいいのか、後でしっかり教えなさいよね。

それと……これ、要らないからアンタにあげるわ」


「すす、すまない、津島。あ、ありがとう」


俺の返答を待たずに、津島は俺の机に向かって、何かをポイっと投げた。


小瓶のキーホルダーで、中には白い砂のようなものが入っていた。

昔、水族館に売っているのを見たことがある気がするが、市販の物ではなさそうなクオリティだった。


そうこうしていると「お、おはよう……」という、林郷の声が聞こえた。


林郷は顔を真っ青にしながら、気まずそうに教室に入ろうとしている。


俺は昨日のことを思い出して、一瞬心臓が大きく跳ねる。

落ち着け、落ち着け。大丈夫、大丈夫……。


察しが良い桃と彼方が俺の後ろに周り、小指を軽く握ってくれた。

それだけで、心が幾分落ち着いた。

俺は大きく息を吸って吐く。


そして、床の木目を見つめたまま、林郷に謝罪をした。


「りりり、林郷。き、昨日は驚かせて、わわ悪かった」


「……私の方こそ、ごめんなさい。私がちゃんと対応できれいれば、こんなことには」


「いいいいや、り、林郷は、悪くない。だ、だから、気に病む必要は……ない」


なるべく明るい声で伝えたが、林郷の表情は曇ったままだった。


「おかしいな、こういうのは本人が言ったら落ち着くと思ってたのに……」


桃は、俺と彼方にしか聞こえないような大きさでそう呟いた途端、始業のチャイムが鳴り響いた。もうこんな時間だったのか。


桃と彼方は、「先輩、また後で!」「お兄ちゃん、またね!」とだけ言うと、駆け足で一年一組へ向かった。


クラスの皆も、各々席に着く。その後ややあって、バタバタと足音を立てながら、柿澤先生が教室にやって来た。


「皆さん、お待たせしました。……さて、理科の授業を始めたいところですが、その前に。

武道くん。君のことについて、伝えられる範囲でいいので、教えてくれますか」


「わかりました」


俺は教壇の前に立とうとしたが、その前に言うことがある。


「わわわ、悪いが、女性陣は……俺に視線を向けず、耳だけ傾けて、ほしい」


そう言うと、津島、林郷、あけびは、それぞれ机に突っ伏した。


「あ、ありがとう。じゃあ、俺の、症状について……詳しく、説明する」


―――


まずは、狭い空間。

ワンルームマンション一室くらいの狭さがギリギリで、それ以上狭い空間に女性がいると、体調に異変が生じる。

たとえその場に男性が一緒にいても、女性が一人いるだけで気分が悪くなる。

二年一組の教室や屋外のような、開けた場所であれば、そこまで酷い症状は発生しない。

だが、広い空間であったとしても、女性が多すぎるとやはり負担になる。

また、顔を見たり見られたりすること、直接肌で触れ合うこと、裸や煽情的な姿を視界に入れることも、現状は不可能だ。

そして、誤解の内容にこれだけは周知しておきたいのだが、俺の恋愛対象はあくまで女性だ。

だから……俺はこの先、この性質が治らない限り、絶対に恋をすることはできない。

そう。今後もし恋をすることがあっても、俺の恋は実らない。


―――


皆は俺の話を真剣に聞いてくれていたのか、教室内はしばらく静まり返っていた。


「俺のせいで、いろいろ制限されることもたくさんあると思う。

でも……それでも、どうかよろしく頼む」


俺は皆に向かって、深々と頭を下げる。

柿澤先生が俺の背中を軽く叩き、優しい口調で喋りかける。


「武道くん、顔を上げて。まずは、話してくれてありがとう。

……皆にもそれぞれ思うところはあるだろうけど、配慮のほどよろしくお願いするよ」


先生は、俺に席に戻るよう促した後、女性陣に向かって顔を上げるよう声をかけた。


「それじゃあ、授業を始めるよ」


授業が再開すると、少しずつ普段の雰囲気が戻ってきた。

ちゃんと伝えられたことと、暗かった空気が収まったことに一安心し、授業に集中しようとした。


だが、やはり、周囲の反応が気になった。俺は全員の後頭部を見つめる。

結局、最後まで集中することができないまま、午前の授業があっという間に終わり、昼休みの時間がやってきた。


+++


私は、クラスメイトの音読に耳を傾けながら、今朝、遥先輩に言われたことを思い出していた。


"迷惑じゃない"

"いや、そこまではしなくていい"


さすがに、毎日教室まで付いて行く発言は重すぎたよね……。


迷惑じゃないって言っていたけど……先輩は優しいし、本当にそう思っているかどうかは、わからない。


確かに先輩は女性恐怖症だし、私や彼方がいないといけないときはある。

でも、私がずっと隣にいたら、克服するチャンスを逃がしてしまうかもしれない。


それに私は、遥先輩に真っ当な高校生活を送ってほしい。

何のしがらみもなく、のびのびと羽を伸ばして、自由に、自分らしい生活を送ってほしい。


そう思ってはいるけど。


けど……けど、やっぱり心配なものは心配だ。昨日みたいに、辛い目に遭ってほしくない。私を頼ってほしい。


そもそも、遥先輩のこの学校生活は、私のせいで始まったようなものだ。

責任を持って、遥先輩に尽くしてあげないといけないんだ。


……待って。こう考えること自体が既に重い……?!いや、でも……。


「起立、気を付け、礼。ありがとうございました」


どうやら、私が頭を悩ませている間に授業は終わったようだ。


私は一度悩みを頭から取っ払い、遥先輩の元へ急ぐことに注力した。


彼方は、カバンからお弁当を取り出すのに時間がかかっていた。ふふふ、甘いな。

私は授業中にこっそりお弁当を取り出し、机の中に隠しておいたのだ。

人間、こういうところの頭が回るかどうかで、差が出るのよ。

と、余裕ぶった心境で、二年一組へ向かう。


「遥せんぱ」


後ろの入り口から教室に入り、遥先輩を呼ぼうとした。そのときだった。


「遥くん。卵焼き、甘いのとしょっぱいの、どっちが好き?」


「あ、甘いの…か、な」


「私と一緒だね」


そこには、遥先輩と林郷先輩の姿があった。


二人は隣に座り、楽しそうにお喋りしながら、ごはんを食べている。


その姿を見ると、何故か心がざわつき、胸の奥が締め付けられた。

私は、先輩たちに気付かれないように教室を出て、廊下でしゃがみ込んだ。

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