ぶどうの恋は実らない。

徳田杏

第一章

第一話 急いては事を仕損じる

「お前……女、だったのか」


そこにあったのは、蝋細工のように青白い肌と、肉の薄い四肢と、あばら骨が浮き出た胴体。

そして、なかったのは……俺の股間に付いているような、男の象徴。


見慣れた脱衣所で、初対面の少年……否、少女は、急いでバスタオルで身体を隠した。


「す、すみません!すぐ着替えますから!」


少女が必死に何かを訴えているが、俺の耳には入ってこなかった。


思わず息を荒げる。バクバク音を立てる心臓。力が入らない身体。グワングワンと揺れる頭。

ダメだ……。耐えられない……。


+++


「……ちゃん……遥ちゃん!着いたわよ」


母親の声で目を覚ます。


車内にはミントの芳香剤の香りと、母さんのフルーティーな香水の匂いが混じっていた。

思わず窓を開ける。外の空気はキリっとした冷たさが残るものの、暖かい風が車内の匂いを循環してくれた。


「悪い。ちょっとウトウトしてた」


「無理もないわよ、今日が入学式なんだから。それにしても、一人で本当に大丈夫?やっぱり、お母さんも付いて行こうか?」


「……いや、大丈夫。たぶん、大丈夫」


一瞬、母さんに甘えようかと思ったが、プライドと見栄が邪魔をして、素直に言えなかった。

しかし、後悔はない。こういうのは遅いか早いかの問題で、いつかは一人で登校しなければいけない時が来るのだから。


「しんどかったら、すぐに担任の先生に伝えるのよ。それか、お母さんか彼方か……桃ちゃんに」


「わかってる。散々約束したからな。じゃあ、いってきます」


「いってらっしゃい」


母さんは笑顔を浮かべようとしていたが、心配と不安の表情が隠せていなかった。

俺は水色の軽自動車の扉を閉め、母さんに手を振った。


『青果花(せいかばな)高校』と書かれた門をくぐり、高校の敷地内へと足を踏み入れる。

青果花高校は植物を大切にする校風があるようで、まるで校舎全体が大きな植物園のようだった。

まあ実際、休みの日は植物園として一部の敷地を貸し出しているそうなので、比喩的表現はおかしいのだが。


それにしても、まだ誰の姿も見ていないな。

人と会わないように早朝を選んだし、俺にとってとてもありがたいことだ。今後もこの時間帯に登校しよう。


校内玄関に辿り着くと、担任の先生が俺を待ってくれていた。


「おはようございます。武道遥くんですね」


担任の先生……柿澤実(かきざわみのる)先生の白髪が混じった髪は、オールバックに整えられている。

ヘアーワックスでガチガチに固めているようで、髪の毛が一本も飛び出していなかった。

しかし、反対にスーツの方はヨレヨレでしわが目立つ。まさか、クリーニングに出していないのだろうか?そもそも、ネクタイすらしていない……。

そんな恰好で大丈夫か心配で見つめていると、柿澤先生は何を勘違いしたのか、大きな手で俺の手を掴んで握手をした。


「あ、はい。武道遥です。よろしくお願いします」


「ひと月ぶりですね。身体の調子はどうですか」


「はい。おかげさまで、いまのところは万全です」


何を隠そう、俺はここに入学する前に、既に先生と会っている。オンライン上でも、対面でも。

少々だらしない部分もあるが、俺の事情を汲み取って受け入れてくれる、丁寧で真摯な人だ。


「そういえば伝え忘れていたのだけれど、君の他に一人、転校生がいますよ。男の子」


前言撤回。少々ではなく、だらしない人かもしれない。


俺の心の中で柿澤先生の評価を再検討していると、音もなく、俺の隣に小柄な男性が並んできた。

まず目に入ったのは、サラサラの金髪。日本人が染めたような不自然な色ではなく、太陽の光でキラキラと反射するほど透き通った綺麗な金色の髪だった。


「柿澤先生、おはようございます」


「はい、おはようございます。武道くん、この子が転校生の子ですよ」


「は?」


金髪の転校生は顔だけを俺の方に向けた。俺は彼の青みがかった翡翠色の瞳を見つめながら、「初めまして。武道遥です」と挨拶をした。


「……もう一人いるなんて、聞いてないんですけど」


「すみません、伝えるのを忘れていました。さあ、椿丘くんも挨拶しましょうか」


「べ、別に仲良くするつもりないし、同じクラスならどうせ後で自己紹介するし、自己紹介なんて……ハッ」


椿丘は口を尖らせながらブツブツと文句を口にしたかと思うと、急に下駄箱に頭をガンガンと勢いよく打ち付け始めた。


ええ……?何こいつ……急にどうした?

俺は助けを求めるように柿澤先生の顔を見たが、柿澤先生はニコニコしながらその様子を見ていた。

困惑する俺を横目に、椿丘はひとしきり頭を打ち付けた後、俺の顔を見上げて口を開いた。


「……椿丘柘榴(つばきおかざくろ)。イギリス人と日本人のハーフ。よろしく」


「やれやれ。椿丘くん?物に当たるのはやめてくださいね。怒られるの私なんですから」


「…すみませんでした」


柿澤先生は表情を変えず、でも、非常に冷たい口調で椿丘を叱責する。

ぺこりと90度腰を曲げて謝罪をした椿丘は、乱れた髪を整えながら俺の顔を一瞥した。


「じゃあ、教室に案内するから。付いてきて」


もしかして、俺のクラスってこんな変わった奴らばかりなのか?

一抹の不安を抱えながら、俺と椿丘は柿澤先生の背中を追いかけた。


+++


校舎は昔ながらの木造建築で、廊下を歩くたびにギシギシと音を鳴らす。

窓から入ってくる植物の青青しい匂いが鼻孔をくすぐる。草花アレルギーの人は絶対入学できないだろうな。


そう考えながら歩いていると、前を歩いていた先生が足を止め、俺たちの方を向いた。


「着きました。ここが君たちが通うクラス。二年一組ですよ」


俺と椿丘は教室の中に入る。

教室内はとても広く、ざっと40人は授業を受けることができそうなほどだった。

しかし、このクラスには学習机と椅子が7つずつしかない。


二年一組は、特別な事情を抱えた生徒のみが通うクラスだ。

柿澤先生からは、女子が3人、男子が(俺と椿丘を含め)4人いると聞いている。

各々の事情はよく知らないが、先程の椿丘の奇行を見てしまったからには、相当の覚悟が必要になってきそうだ。


そして、教室の中央付近には、高価そうなカメラが一台吊り下げられている。

通信教育を受けている生徒は、二年一組の黒板の映像と、先生のピンマイクからの音声を見聞きして授業を受けている。

なので、教室には7人しかいないが、自宅で授業を受けている生徒を含めると、十五人くらいはいるはずだ。


『どのような事情があれ等しく勉学を享受すべき』という意志を持つ校長先生による取り組みの一環で、このクラスが出来上がったらしい。


「武道君の席はここで、椿丘くんの席はここです」


柿澤先生は教壇の上から指を指す。

俺の席は廊下側の一番後ろで、椿丘はその前。


「じゃあ先生、入学式の準備があるからまた後で。

……武道君。何かあったらすぐに教室を出てもいいし、親御さんに電話しても構いませんからね」


その発言を聞いた椿丘は、頭に疑問符を浮かべながら俺の顔をちらりと見る。


そして先生は、そそくさと足早に教室を後にした。入学式の準備か……。先生って、一年生の担任じゃなくても忙しいんだな。

ぼんやりそう思っていると、こちらを見ていた椿丘が、身体全体を俺の方に向けて「おい」と口にした。

ぶっきらぼうな態度に少しイラついた俺は、わざとらしく困った素振りをする。


「俺、おいって名前じゃなくて、武道遥って言うんだけど」


「は?別にどんな呼び方でもいいだろ……ハッ」


パチン!椿丘は思い切り自分の頬を叩く。その奇行のトリガーは一体何なんだ。


「武道。お前、年はいくつだ?」


俺は質問内容を聞いて、拍子抜けした。

てっきり、さっきの先生の発言か……もしくは、今度こそ変な恰好に関して言及されるとばかり思っていたが。

ややあって、俺は正直に質問に答えた。


「十六歳」


「去年はどこの高校通ってたんだ?」


「学校はここだよ、青果花高校。ただ、通信制のカリキュラムで、ずっと家で授業を受けていたんだ

まさか俺が見ていたのが、このクラスの授業風景だったとは思わなかったけど」


「なんだ、転校生じゃないのか。……じゃあもう一つ質問だ。『溝萩(みぞはぎ)中学校』に知り合いはいるか?」


「いや、いないな。俺、『増佳(ますか)中学校』出身だから」


「そうか、ならいい」


椿丘は安心したような顔をしてから、黒板の方を向いた。中学時代に何かあったんだろうか。

まあ、ここは何かしらの事情がある生徒が通うクラスだ。椿丘にも、話したくもない過去の一つや二つあるのだろう。

その後、椿丘との会話は特になかったので、大人しくミステリー小説を読み始めた。


探偵が犯行のトリックを暴き始めたシーンに差し掛かると、勢いよく教室に入ってくる生徒の大きな声が耳を貫いた。


「ハァッ……ハァ……ギリギリセーフ!!!」


光の具合によっては紫のようにも見える紺色。そして、腰ほどまでありそうな長い髪の毛。

その姿を見て、俺は咄嗟に目を逸らす。


……ん?ギリギリセーフ?一体何がギリギリで、何がセーフなんだろうか。

現在時刻は朝の7時半で、朝礼にはあと30分ほど余裕があるが。


同じく本を読んでいた(小説ではなく、何かのゲームの攻略本のようだ)椿丘はページを捲る手を止め、彼女に物申した。


「声が大きい。それから、廊下を走るな。怪我をするぞ」


「あっ、ごめんなさい!遅刻しそうだったから、つい」


「遅刻って……朝礼は8時半だろ。今は8時だから、遅刻の"ち"の字もないぞ」


「あっ、そうだった!朝礼8時かと思ってた!教えてくれて、どうもありがとう!」


随分素直な女の子だ。すぐに声のボリュームを落とし、椿丘のツンケンした態度を気にもせずただ受け止めている。


「アタシの名前はあけび!山名家(やまなか)あけびっていうの!よろしく!握手!」


急に握手を求められた椿丘は、山名家のハイテンションに戸惑いつつも「椿丘柘榴」と一言口にした。


「バッキ―って呼んでいい?」


「!?……す、好きに呼べよ」


あまりにも椿丘の雰囲気にそぐわないあだ名と、山名家のマイペースさに、俺は思わず吹き出してしまった。

吹き出してしまったことで、椿丘から鋭い眼光で睨まれてしまった。

そして、山名家のターゲットが俺に移ってしまった。


「あ、笑った!そこの笑ったキミ!名前は?」


再び目を逸らし、深呼吸する。大丈夫、大丈夫……。


「お、お、俺のな、名前は……ぶ、武道……遥」


やばい、めちゃくちゃ動揺してしまった!絶対変に思われた。

後悔しつつ目を逸らし続けていると、山名家は「うーん」と呟くと、続けて


「ハルって呼ぶね!ハルもバッキ―も、あけびって呼んで!」


特に何の言及もないまま、あけびは最も奥の窓側の席へ移動した。

よかった。やっぱり事情がある生徒ばかりだから、何も言わずとも察してくれるんだな。


「あのさ!そこの金髪の……うーんと……えーと、あれ?名前、何だっけ?」


「椿丘柘榴だ!さっき言っただろ」


「つば……?ああ!バッキ―だ!ごめんごめん!アタシ、すぐ忘れちゃうんだ!

なんか、ワルに頭ドカーンってされて、こうなった!」


俺も椿丘も何も言っていないのに、あけびは勝手に自分語りを始めた。

これ、聞いていいやつなのか?言っていいやつなのか?


返答に困る俺だったが、微妙な空気にいたたまれなくなったのか、椿丘が口を開いた。


「よくわからないが、テストや授業はやっていけているのか?」


「なんとか!何回も、覚えるまで覚えるの!みんなよりもたくさんやらなきゃだから、まーまーしんどいけど」


つまり、同じ授業や同じテストを、複数回繰り返しているということだろうか。

であれば、確かにかなりしんどいだろう。他の人が一度で覚えることも、時間をかけてゆっくりと覚えていかなければいけなくなるのだから。


「それとねー、ここのみんなはみんな優しいから、やっていけてるの!ね、バイソン!」


ん?バイソン?

思わず顔を上げる。教室の後ろ……つまり、俺の背中から「その呼び方マジでやめろ」という声が聞こえた。


「あけびちゃん、おはよう」


「……おはよ」


「おはようございます」


まだ教室に来ていなかったクラスメイト4名は、どうやら同じタイミングで登校してきたらしい。仲が良いのか、たまたまか。


そして、椿丘の隣の席に、椿丘と同じくらい小柄でヒョロっとした男が荷物をカバンの上に乗せた。……カバンが風呂敷だ。

俺は彼の姿を見る。前髪パッツンで後ろ髪は刈り上げている。いかにもお坊ちゃんといったような髪型だった。昔ながらの学ランがとてもよく似合っている。


「あけびクン。そうやって自分の過去を大っぴらに口にするものじゃないよ。不快に思う人がいるかもしれないからね」


「あれ?アタシ、自分の話なんてした?でも、バッキーとハルは同じクラスだし、いいよ!」


バイソンと呼ばれた男は「フン」と鼻を鳴らし、俺と椿丘を視界に入れた後、すぐに目線を外し、風呂敷の中から授業道具を取り出した。


そして、俺の隣の席の男はというと……机と椅子を傷つけないように慎重に席に着いた後、これまた慎重に、机の上に足を置いた。

態度だけを見るとまさしくヤンキーそのもので、俺より大きな図体と、短く切ってある髪に、ところどころに橙色のメッシュが入っている。

だが、いちいち所作が丁寧だ。教室に入ってきたときの挨拶も敬語だったし、物を傷つけないようにする精神を持っている。態度と外見だけがすこぶるワルだ。


育ちの良いヤンキー、そしてバイソンの左隣には、女子が二人座った。


俺の性質上、あまりジロジロと姿を見ることはできないが、ヤンキーの隣には、髪を一括りにしたクールな女子。

バイソンの隣には、朗らかでおっとりしてそうな女子。栗色の髪はほどほどに長く、後頭部で編み込まれている。

そして、その女子の隣があけびだ。


すぐに女性陣から目を外し、小説を読み進める。


あけびとおっとり系女子の声以外聞こえない、静かで妙に居心地の悪い空間が広がっていた。

俺と椿丘を除くメンバーは、高校一年生の頃から同じクラスなんだよな?

あまり仲が良いように見えないが、こういうものなのか?


俺は若干の寂しさを感じながら、犯人が自白するシーンを黙々と読み進めた。


+++


しばらく読み進め、作者のあとがきページに差し掛かるかといったところで、

手前の入口から、しわ一つない……新品のようなスーツに身を包んだ柿澤先生がやってきた。


「いやはや皆さん。遅れてしまい、申し訳ありません」


さすがにあのヨレヨレスーツは許されなかったようだ。他の先生に注意されたのだろう。まあ、今日入学式だしな。


しかし、この短時間で新調したわけではあるまい。綺麗なスーツはどこの誰のものなのだろうか。

こういう時の為に学校に保管してあったのか、はたまた、急いでアイロンがけをしたのか……。


柿澤先生のスーツの謎に頭を悩ませていると、唐突に椿丘が席を立ち「椿丘柘榴」と名前を口にした。


しまった。いつの間にか自己紹介の流れになっていたようだ。俺も椿丘みたいに、名前だけ……。


……いや、それでは駄目だ。俺は俺自身を変えるためにここにやってきたんだ。積極的に、積極的に……!


俺は慌てて席を立つ。慌てたせいで椅子が後ろに倒れ、ガツンと大きな音を立てた。


「ぶ、武道遥……です。元々通信制でここに通ってて、でも、あるきっかけがあって、登校しようと思うようになって、ええと」


マズい!余計なことまで言ってしまった。皆からの視線が痛い。ああもう、どうにでもなれ!


「俺はこのクラスを、青果花高校一仲良しなクラスにしたいと思って……いや、ハハハ……なんちゃって……よろしく……」


終わった。何が青果花高校一仲良しなクラスにしたいだ。同調圧力振り撒いて……一番嫌われるやつじゃないか。


激しく落ち込んでいると、おっとり系女子が、俯いたまま席を立ち、声を発した。


「わ、わかる!あ、これは気を使ってとかそういうのじゃなく……

人数も少ないし、部活みたいに一つのチームとしてやっていきたいなって……!」


そう!俺が言いたかったのはそれ!


ただでさえ事情を抱えた人が集まっていて、他のクラスからも変に思われてそうなこのクラスで、うまくやっていきたいだけなんだ!


「順番を飛ばしてしまってすみません!私、林郷朱里(りんごうあかり)って言います。これからどうぞよろしくお願いします!」


「まあまあ、そのように思ってくれる人が二人もいてくれるなら、先生としてはとても頼もしいです。二人とも、どうもありがとうございます」


「い、いえ……そんな……!」


柿澤先生のフォローによって、少しだけピリついた空気が緩んだ。


「全く……朱里クン、次からは気を付けてくれないか。このボクの華々しい自己紹介が台無しになるところだった」


林郷は「ご、ごめんなさい」と平謝りした後、席に座った。


「んんっ……ボクの名前は、梅村松竹(うめむらまつたけ)。由緒正しき梅村家の正式な跡取りさ」


俺は伝統家業とかには詳しくないので、梅村と言われてもピンと来なかったが、椿丘は心当たりがあるのか、「へぇ」と言った。

梅村……梅村ね……あ、バイソンってもしかして、梅と村の音読みか。なかなか面白いあだ名だな。


「ただ、ボクの性格上、格式高い学園は向いていなくてね。

両親に無理を言って、ここに通わせてもらっているんだ。二年一組であることが条件でね」


「……彼、両親から「ついでにクラスメイトのおかしな性格を矯正してこい」なんて言われていたらしいんですよ」


「それはもう諦めたからもういいの!だってキミたち、ボクにまったく心を開いてくれないんだもの!」


ヤンキーくんの言葉が逆鱗に触れたのか、梅村は声を荒げた。

そうか、青果花高校や二年一組を知らない人からは、性格に難があるおかしな生徒たちだと思われているのか。


このクラスは、見世物小屋や落ちこぼれクラスというわけでは決してない。

そういえば、校長先生もそのことについて気にしていたっけ。心無い人が広めた悪評を払拭したいとかなんとか。


未だにぶつくさ文句を垂れている梅村を横目に、ヤンキーくんは背筋をピンとまっすぐにして、俺と椿丘の方を向いた。


「私の名前は古市雷(ふるいちらい)です。

先に言っておきますが、私は今の私を変えるつもりはありませんし、過去を清算するつもりもありません。

仲良くすることに関しては……善処しますが、あまり期待しないでいただきたい」


古市は自己紹介を終えると、俺と椿丘に向かって腰を90度に曲げ深々とお辞儀をした。

見た目は厳ついし、言っていることもドライなのに、礼儀や言葉遣いはすごく丁寧で……なんだかとてもチグハグだ!


「右に同じく。私もここのメンツと慣れ合うつもりはないわ。まあ、困っていたら助けるくらいはするから。それで十分よね」


古市の隣……一つ結びの女子は、俺たちに一切目もくれずに淡々と呟いた。


そして、その姿勢のまま、「津島心菜(つしまここな)」と一言口にした。


「津島さん、古市くん。クラスメイトともう少し歩み寄る努力を……」


「これが私の最大限の譲歩ですよ、先生。さあ、次。あけびの番よ」


津島は先生に詰め寄られるのを避けるため、あけびに流れを押し付けた。


「はーい!アタシ、山名家あけび!あけびって呼んで!……あれ?これ、さっきも言ったっけ?」


「あ、皆さん、先生が来る前に自己紹介していたのですか?であれば、二度目の自己紹介になりましたね。申し訳ない」


先程は、あけびくらいしか自己紹介はしていなかったが……まあ、今自己紹介したんだから、訂正する必要もないか。

全員がそのように思ったのか、俺以外の生徒も誰も何も言わなかった。


「っと、もうこんな時間ですか」


柿澤先生はそう言うや否や、プリントを何枚か配布し始める。

渡されたプリントには、今後の授業内容や始業時間、持ち物、校則、学校マップなどがびっしりと記載されていた。


「大抵のことはこれに書いてありますから。先生はこれで失礼しますね。

伝え忘れがありましたら、別途連絡します。初日の授業、頑張ってくださいね」


先生はそう言うと、教壇に広げた荷物を急いでしまい、バタバタと音を立てて教室を去っていった。

確か先生は、二年の理科を担当していたな。

校内マップに目をやると……成程。ここから最も遠い5組の一時限目が理科だ。


俺は一時限目の授業が国語であることを確認した後、母さんのお弁当を楽しみにしつつ、一時限目の授業を受けた。


+++


昼休み。昼食の時間だ。


図書室に寄ったり、体育館でバスケなんかしたいところだが、今日は一年生の入学式だ。

体育館は使えないだろうし、図書室も開放されていないだろう。


そして、今日の授業は午前のみで、俺たちは昼食を食べたのち、各々帰宅する形になる。


「ねーねーシュリ!この後どーする?カラオケでも行く?」


「ごめん、あけびちゃん。午後から家族でお買い物に行くんだ。だから、また今度ね」


「えー!じゃあじゃあ、シマコは?カラオケ!」


「…特に用事はないけど、面倒だからパス」


「ガーン!そんなー!」


やはり、高校一年生の頃からの絆があるようで、女性陣の仲は悪くないようだ。

だが、妙に壁を感じられる会話だ。本心から会話していないような……ビジネスとまでは言わないが、お互いに一線引いた関係のように見える。


それにしても、バイソンといい、あけびが付けるあだ名は面白いセンスをしているな。

"シュリ"は、林郷朱里のことだろう。朱は「シュ」とも読めるし、実際、「しゅり」と名前を間違えられたことはたくさんあるだろう。

"シマコ"というのは、津島心菜のことか。ツシマココナから中の文字を抜きとって「シマコ」か。

……それらに比べると、俺のあだ名、安直すぎやしないか?もっとこう……「ルカ」とか……いや、それも安直か。


「ライチはどうお?カラオケ!一緒に行くぅ~?」


あけびがそう呼びかけると、古市は「む」と呟くと、何故か津島を一度見てから、あけびの方を向いた。


「すみません。これから両親と昼食を食べに行くので、これで失礼します。それでは皆さん、さようなら」


古市はそもそもここで昼食を食べる予定ではなかったようで、年季の入ったカバンに物を詰めながら、そそくさと教室を後にした。

古市のあだ名は"ライチ"か。名前の「ライ」と苗字の「イチ」を組み合わせた、これまた、あけびのセンスが光るあだ名だ。


「先に言っておきますが、ボクはカラオケといったような庶民の娯楽は両親から禁止されていまして……」


「あーはいはい、わかってるっての。それ言うの何度目よ?もう聞き飽きたわよ」


「心菜クーン?さすがのボクでも、そこまで冷たい口調で言われると、傷つくよー?」


梅村の机には、非常に豪勢な重箱弁当が広げられてている。


最近見た小説で、金持ちのボンボンがシェフを連れて学校にやって来る、なんて描写を目にしたが、そこまでではないのか。

……そこまでではないのか、は失礼か。梅村、スマン。


しょんぼりしながらお弁当を食べている梅村の横で、椿丘は随分ソワソワした様子でパック牛乳を飲んでいた。


なんか「カラオケ」って聞いてから、ソワソワし始めたような気がする。もしかして、カラオケ好きなのか?行きたいのか?


「……椿丘くんと武道くんは、この後、用事とかあるの?」


ソワソワ椿丘が気になったのか、林郷が気を利かせて、俺たちに話題を振ってきた。


「おお、俺は、特に用事は……な、ないが、きょ、今日は、まま、真っすぐ帰る予定……つ、椿丘は?」


「お、俺も特に用事はない。ないが……女子と男子、二人きりで密室は気まずいだろ」


林郷は用事があるかどうか聞いただけなのに、墓穴を掘ったな。やっぱり、カラオケ好きなのか?

それにしても、こいつ、紳士的なところあるんだな。イギリス人の血を引いているから……というのは、さすがにオカルトすぎるだろうか。


「バッキ―、カラオケ行きたいの!?いいよ!」


「あけび、ちょっと待って。柘榴の言う通り、男子と密室はよろしくないわ。そうね、ゲーセンとかにしなさい」


「わかったー!バッキ―はそれでいーい?」


「ま、まあ、お前らがそれでいいなら」


「は?お前ら?」


津島は今までにないくらいとても低い声を出し、椿丘の態度に釘を刺した。

たぶん津島は、このクラスの中で怒らせたら一番怖い人だ。俺が言われたわけじゃないのに、とても肝が冷えた。

彼女だけは絶対に怒らせないようにしよう。


「……津島とあけび」


「よろしい」


津島は満足そうに、とても美味しそうなお弁当を食べ始めた。


さて、俺もお弁当を食べたらそのまま帰るとするか。


……いや、それでは駄目だ!今後、自己紹介のときような失敗を繰り返さないためにも、積極的に行動しなければ!

女性陣の中で、一番話しかけやすそうな人は……林郷だな。


俺は半ば自棄になりながら、林郷の座席へと近づく。もちろん、俺は地面を見つめている。

彼女は床に置いてある学生カバンから、顔より大きいのではないかと思うほどの巨大なおにぎりを取り出そうとしていた。


「あああああ、あのっ……林郷……」


「!!は、はいっ!」


林郷は急いで巨大おにぎりをカバンに戻し、俺がいる方向に身体を回転させた。


林郷の足元が見える。……よし、この距離でも大丈夫。


この後は……えーと、彼女の顔を見て「一緒に昼食を食べませんか?」と一言伝えるんだ。

断られてもいい。人の目を見て話すだけだ。誰だってできるし、みんなやっている。


ええいままよ!俺は勢いよく顔を上げ、林郷の顔を見た。


「……」


……目がとても大きい。鼻や輪郭は少し丸っこく、老若男女問わずから好かれそうな顔だ。


林郷は、上目遣いで俺の目をじっと見つめ返してきた。


……今、女子と目が合っている……。

大丈夫、大丈夫……落ち着け……このあとは、昼食に誘って……。


「そ、そんなにまじまじと見られると、恥ずかしいな……私の顔に、何かついてる?」


顔を真っ赤にして、目を逸らし、身体を小さくする林郷。一部の男子にとってはたまらない仕草だろう。

だが、俺にとっては、むしろマズい。


「朱里、武道から離れて」


俺の視界から林郷がいなくなった。声から察するに、津島が移動させたようだ。


その行動はとてもありがたいが、俺の体調は一向に悪くなるばかりだった。


その時、津島が「アンタ、何者?離れなさい」と呟いたような気がした。

幻聴まで聞こえてきたのか?徐々に、声も聞き取りづらくなってきた。


そして、本格的に視界がぼやけてくる。……あれ?俺は何でここにいるんだっけ?

全く頭が回らない。これはマズい……。


あ、そうだ、昼食……。


「っり、おひっ…る、た、べま…っせ」


……俺、ちゃんと喋れてる?

そもそも、呼吸できてる?


俺は過呼吸になりながらその場にしゃがみ込む。


「落ち着け落ち着け、大丈夫大丈夫」と自己暗示を繰り返していたが、視界も呂律も悪いまま、意識が朦朧としてきた。


「せんぱ~い!かわいい後輩が様子見に来……せ、先輩!」


…かすかに、桃(もも)の声が聞こえる。わざわざ来てくれたのか……心配かけるようなことしてすまん…。

ぼんやりとそう思った瞬間、俺の意識は途切れた。

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