Note.003 奴隷

足音の方に目を向けると、いつもの見回りの男と共に、裕福そうな服装を纏った男性と女性が立っていた。彼らの立ち姿や厳かな雰囲気からして、この場所には似つかわしくない存在だ。


この状況から察するに……この男性と女性は奴隷を買いに来たのだろう。

何の目的で奴隷を買うのかは分からないが、その意図だけは、場の空気からはっきりと感じ取ることができる。


男性と女性、そして見回りの男は私たちに聴こえないよう、低い声で何かを話し合っている。そして話が終わると、女性の方が牢屋に一歩近づき、静かに少女の方を指さした。その仕草が、少女を「買う」と決めた証であるかのようだった。


少女はそれを理解した瞬間、全身が震え始め、荒い呼吸を繰り返している。恐怖で頭が真っ白になっている様子だ。次の瞬間、彼女は叫ぶように声を上げた。


ϯアルン϶ϦウォンϞカイϸツァシュリ϶テオϴトルガルɄウズϨストϻ"ルスϸツァ϶'モラϽリタ?!!!」


数日間の勉強のおかげで、彼女の叫びの意味がわずかに理解できた。

「私を買ってどうするつもりだ?」という問いかけ――

少女の叫びが耳に響き、言葉の意味が浮かび上がるとともに、胸に重い衝撃が走った。


女性は、怯える少女を落ち着かせるように柔らかな声で語りかけた。


ŦタフガルИニルϟシルガルλ"ヨルシュリɄウズϡフォスガルØオフϾチェϸツァИニル϶テオ。(大丈夫、落ち着いて。)」


その声は穏やかで、焦りに染まる少女の緊張をほぐすかのようだった。何を言っているかまでは完全には理解できなかったが、少女を落ち着かせようとしている意図は伝わってきた。


少女が言い返す間もなく、女性は続けて話し始めた。


ϯアルンϦハンϞカイϱラフŦタフガルϞカイガルλ"ヨルϡ'ワスϻグラ϶テオϪルナイϞカイガルɄウズϾ"メシュƝナルИニルПノム。(私は体が弱くて、子供が産めないの)」


女性の言葉が一瞬だけ牢屋の中に静かに響き渡り、彼女の表情からは深い悲しみと諦めがうかがえた。少女はその言葉に、一瞬動揺したように見えた。


(なんて言ってるんだ……母国語特有の短縮された言葉?平仮名をまとめた漢字みたいなものか?その表現が混ざっているような気がする)


女性が再び口を開き、少女に向けて優しい声で語りかけた。


ŦタフガルϞカイϱラフϞ̅ケイルニャϦハンϯϯアルナスПノムϪルナイニャƝナルϸツァシュリ϶テオϢホゼϟシルИニルПノム(だから貴方には、私の子供になって欲しいの)」


(だから貴方には……私の何になって欲しい?分からない、まだ意味がつかめない。言葉が短縮されていて、ニュアンスが伝わりきれない)


そう語りかけると、少女は一瞬間を置き、疑うように小さな声で言った。


Ϣℵϴテュラス?(本当?)」


(やはり、この異世界の言語には、英語の単語のように意味が凝縮された表現があるんだろうか)


女性はその問いかけに対して、微笑みながら優しく頷き、「Ϣℵϴλ"テュラスヨル(本当よ)」と応えた。


女性と少女のやり取りを見守りながら、その言葉の真意を探ろうと、私の中に新たな疑問が湧き上がっていた。


少女は小さく頷きながら、はっきりとした声で言った。


∀'∀ラシン(分かった)」


しかし、そのまま言葉を続ける。


϶テオガル϶'モラϙウノϞΨカルダϞカイガルラシュϻ"ルス(でも一つ条件がある)」


少女がそう告げると、女性は一瞬、疑問符を浮かべた表情を見せた。私も、何を言っているのか全く理解できず、言語文化の限界を聞いている気分だ、何を言っているのか全く分からない……


そんな中、少女はさらに続けて言った。


ϻλシェナ϶'モラϫλΞトュミアϞΦℵΨϪカリオンド(彼女も一緒に連れてって)」


そして、私の方を指さしながら続ける。


ϡΞϞϻλフェイラナ...(友達なの...)」


少女がこちらを指差してそう告げると、女性は少し考え込み、後ろに控えていた男性と小声で話し合った。そして再びこちらに向き直ると、柔らかく微笑みながら言った。


∀'∀ラシン。(分かったわ)」


その言葉を聞いた瞬間、少女は嬉しそうな笑顔を浮かべた。少女の笑顔を見るのは、これが初めてだった。


やがて、少女は私にも分かる言葉で説明してくれた。どうやら、さっきの男性と女性は夫婦で、妻の体が悪く子供を産むことができないため、元の世界でいう養子を求めて奴隷売り場に来たらしい。

最初は少女一人だけを買うつもりだったが、彼女が交渉してくれたおかげで、私も一緒に連れて行ってもらえることになったらしい。


この夫婦を信用……いや、信じることができる。さっきの優しい目は、嘘ではなかった。


裕福そうな夫婦は見回りの男から出された紙にサインし、続けて重そうな革袋を取り出して男に渡した。その袋が渡されると同時に、まるで見えない鎖が一つずつ外れていくような感覚が広がる。


その瞬間、見回りの男が無言でこちらに近づき、私の足首にかかっていた重く冷たい金属の鎖に手をかけた。そして――ガチャリという音とともに、足首に食い込んでいた拘束が外れ、ついに自由が訪れた。


(本当に……これで外に出られるんだ……)


何日ぶりだろうか、この足で自由に歩けるのは。鎖の重みに引きずられることなく、思うままに体を動かせる感覚が、信じられないほど新鮮で、体中に広がっていく。


今まで息が詰まるような閉塞感に苦しんでいた分、足首にかかる重圧がなくなった途端、胸の奥が一気に解放されるような思いがした。

言葉にできないほどの安堵と、それでもまだ心の奥底に渦巻く不安が入り混じっているが――それでも、確かに今、私は自由になったのだ。


思わず一歩、また一歩と、自由になった足を動かしてみる。隣で少女も同じように小さく息を呑みながら、足を動かしている。その姿に触発されるようにして、私はようやく牢屋の扉をくぐり、外の世界へと踏み出した。


これから待ち受けている世界に、何があるかは分からない。けれども、今この瞬間だけは――不安以上に、自分の中に芽生えた希望が、確かに存在していることを感じていた。



牢屋を出て、冷たい石の通路を一歩一歩進む。夫婦と少女、そして私。この奇妙な組み合わせで歩くことに、どこか現実味が感じられず、私はただ無言で彼らの背中を追っていた。


そんな時、隣にいた少女が私に顔を向け、小さな声で話しかけてきた。


「そういえば名前を言い合ってなかったよね。こんなにも一緒に居たのに。あたしϣϫΦϞλヒメラよ。」


その言葉に、思わず心臓が高鳴るのを感じた。何日も同じ牢屋に閉じ込められていながら、彼女の名前を知ることができたのは今が初めてだった。やっと彼女に名前があると分かった瞬間、ただの無機質な存在だった「彼女」が少しずつ「ヒメラ」という人間として私の中に刻み込まれていく。


「ヒメラ……」


その名前を小さく繰り返しながら、私は心の中に彼女の存在を確かめるように感じた。


すると、今度は夫婦の男性がゆっくりとこちらに向き直り、穏やかな口調で話し始めた。


KadraagカドラグϻΞϞλΠミストリアだ。よろしく頼む」


続けて、女性も微笑みを浮かべて名乗った。


「私はϣϴϻΨℵヒラミス。よろしくね」


その瞬間、私の中で「名前」というものが急に大きな意味を持って現れた。他の人の名前がはっきりと耳に届くたび、私も自分の名前を返さなければいけないような気持ちになる。だが、口を開こうとした途端に、頭の中が急に霧がかかったようにぼやけてしまった。


(私の……名前?)


どんなに考えようとしても、自分の名前が浮かんでこない。確かに、ここに来る前の記憶はあるはずだ。最後に眠りについた自分のベッドの温もりも、ふわりとした布団の感触も――でも、なぜか、自分の名前も、友人や家族の顔も、ふわりと霧の中に隠れてしまう。もしかして……夢の中の記憶が薄れていくように、私もだんだんと思い出せなくなっていくのだろうか。


胸が冷たくなり、不安がじわじわと広がっていく。このまま、自分のことすら忘れてしまうのか。自分の存在がぼろぼろと崩れていくような恐怖に襲われ、足元がぐらつきそうになる。


そんな私の様子に気づいたのか、カドラグが優しい眼差しで顔を覗き込み、静かに声をかけてきた。


「どうした?大丈夫か?」


その問いに、私は息を飲み込み、喉を詰まらせながらも、ようやく言葉を搾り出した。


「……名前が……ない……」


その言葉に、カドラグもヒラミスも驚いたように見つめ返してきたが、すぐに理解したのかカドラグが私の方を見て、優しい声で言った。


「じゃあ、俺たちが名前を付けてもいいかい?」


その言葉に驚き、少し戸惑いながらも、私は黙って頷いた。名前がないことの不安が少しでも解消されるなら、ここで新しい名前をもらうのも悪くないかもしれない。


カドラグが隣のヒラミスと目を合わせ、短く話し合った後、再び私の方に向き直った。


ϻλϞΨΦルシア……この世界で、星を意味する言葉だ。お前には、どこか希望の星が宿っている気がしてな。どうだ、気に入ったか?」


「ルシア……」


その響きを口にしてみると、胸の奥に小さな温もりが灯るのを感じた。まるで自分の存在がやっとここに定まったような感覚が広がり、心が少しだけ軽くなる。


「ありがとう……ルシア、いい名前…」


カドラグもヒラミスも、私の言葉に優しく頷いた。その瞬間、やっと自分が彼らの一員として受け入れられたような気がして、胸の中に温かな安心感が広がっていく。


新しい名前「ϻλϞΨΦルシア」。それは異世界の言葉で「星」を意味する言葉だった――─────────



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