Note.002 通じ合わない言語

◆Note.002 通じ合わない言語


もう一度、私は目の前の少女に声をかけてみた。


「なぁ、ここは何処か分かるか?」


自分でも無駄だと分かっているが、少しでも情報を得られるかもしれないという淡い期待を込めた。しかし、少女はやはり意味を理解できない様子で、小さく首を傾げるだけだった。無表情のまま、かすかに眉を寄せているが、何かを伝えたい気持ちは感じられない。


(言語さえ理解できれば……会話ができるのに……)


ため息をつきながら、状況の無力さを改めて痛感する。目の前に人がいるのに、意思疎通ができないという絶望感がじわじわと胸に広がり、重くのしかかってくる。もし異国の言葉を理解する手段があるなら、せめて一筋の光明が見えるはずなのに


そんな時、牢屋の外からこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。硬い床を踏む音が近づくたび、冷たい空気に緊張が走る。その音を聞いた瞬間、少女の体が一気にこわばり、怯えたように小さく震えているのが分かった。


やがて、鉄格子の前に現れたのは無骨な姿の男だった。男は低く何かを言い捨てると、小さなパンと木のコップに入った透明な液体をいくつか牢屋の中に投げ入れた。彼が何を言っているのかは分からないが、その無機質な声と視線に、周囲にいる囚人たちは怯えたように動き出す。


(おそらく、この牢屋の監視役のような存在だろうか)


男が去ると、少女は怯えた様子を引きずったまま、おそるおそるパンを手に取り、ゆっくりと口に運んだ。その姿を、私はじっと見つめていた。無意識にそのパンを目で追っていたのだろう、少女がふと私の視線に気づき、不思議そうな顔をしてパンをこちらに差し出してきた。


ŦϚ⨁ϻ"タフへイガルルス?」


少女が発した音の意味は分からないが、その抑揚からして「疑問形」であることは何となく感じ取れた。パンを差し出しながらの言葉……「食べる?」とでも言っているのかもしれない。確かめるには、反応を返してみるしかない。


ŦϚ⨁ϻ"タフへイガルルス


私はそのまま少女の言葉を反復し、最後に少しだけ音を上げて、疑問形じゃないよう口にした。すると、少女は不思議そうな顔をしながらも、私の手の上にそっとパンを置いてくれた。

よし、「ŦϚ⨁ϻ"タフへイガルルス」の意味は「食べる」で間違いなさそうだ。

とりあえず1つの言葉は分かった。

私は首を振ってパンを少女の手に戻した、彼女はただ首をかしげるようにして、不思議そうな表情を浮かべるばかりだった。どうやら、この言葉のやり取りが確実に通じているわけではないらしい。

しかし、少しずつでも言葉の意味を探り出せる手応えを感じながら、小さな希望が胸の奥で生まれてくるのを感じた。


私は腕から流れている血を指に取り、床にぐちゃぐちゃと絵を描き始めた。特に何を描くわけでもなく、ただ無意識に指を動かすままに描かれた絵。それがどんな形なのかすら分からないが、とにかく試してみるしかない。


描き終わった絵を指差し、少女の方を見つめていると、彼女がふと口を開いた。


ƝℕΦϾϾナルニャフォレイ?」


少女が最後を疑問っぽく言い終えたことで、これは「これは何?」と尋ねているのだと確信した。彼女の言葉の意味を決めていかないと、言葉の壁を少しずつ崩していけない。


試しに、同じ言葉を使ってみることにした。パンを指差し、少女に向かって「ƝℕΦϾϾナルニャフォレイ?」と尋ねてみる。すると、少女は軽く頷きながら「Ϧ⨂ℵハンバクナム」と答えた。


(パンはこの言語で「ハンバクナム」か……)


パンの名前を知ることができても、この場面では何の役にも立たない。それでも、ほんの少しずつでも言葉の意味が分かることで、かすかな希望が心に浮かぶ。

自分にとって何の役にも立たないかもしれないが、言葉のひとつひとつがこのこの世界での「生き抜く術」になるかもしれないと信じて、さらなる言葉を覚えようと決心した。



何日経ったのかも分からない。体は痩せ細り、どこか芯の部分が消えそうな感覚に襲われる。ここ数日間、私は必死に少女を通してこの異世界の言語を理解しようとしていた。床に絵を描き、これは何かと尋ねたり、絵本が欲しいと身振りで伝えたりして、時折やってくる見回りの男にこの世界の言葉で「本」と訴えてみると、仕方なさそうな表情で簡単な絵本を持ってきてくれるようになった。


その絵本は非常に簡素なもので、二人の人物が描かれたページには、一方がりんごを差し出し、もう一方が手を伸ばしている場面がある。渡そうとしている方の人物に対応するセリフとして、そのページには文字が記されていた。


私は少女にその文章を読んでもらい、その発音を耳で覚えた。

ϯアルンПノムϽℵΦ⨁リタナムフォガルŦϚ⨁ϻ\"タフへイガルルス?」


この中で、少なくとも「ŦϚ⨁ϻ\"タフへイガルルス」が「食べる」という意味だということは分かっている。しかし、「りんご」を指す言葉が「ϯアルン」なのか「ϽℵΦ⨁リタナムフォガル」なのか、まだ判断がつかない。


そこで私は、りんごの絵に二本の指を置き、まず「ϯアルン」と声に出してから少女の顔を見る。彼女は少し考えた後、首を横に振った。どうやら「アルン」ではないらしい。次に「ϽℵΦ⨁リタナムフォガル」とりんごの絵を指して発音すると、今度は少女が小さく頷いた。


(よし、これで「ϽℵΦ⨁リタナムフォガル」が「りんご」という意味で間違いなさそうだ)


そして他のページを見ていくと、どうやら「ϯアルン」という言葉は、何かをする時に必ず最初に付いていることに気づいた。おそらくこれは日本語の「私」や英語の「I」にあたる、自己を指す言葉なのだろう。


さらに、「ϯアルン」の後に続く「Пノム」のような一文字や二文字の単語は、「私の」や「私が」など、次に続く言葉を補う役割を持っていると推測できた。

主語や目的語を表すための組み合わせや並べ方は日本語と同じで、少しずつではあるが、言葉の仕組みが見えてきた気がする。


とはいえ、この簡単な絵本の内容を完全に理解できるまでには、まだ時間がかかりそうだ。まるで赤子が一から言葉を覚えるように、ひとつひとつの言葉をゆっくりと、時間をかけて習得していくしかない。焦る気持ちを抑え、確実に覚えていく決意を胸に、私は絵本のページをめくりながら言葉を繰り返し口にしていた。




時間が経つにつれ、少しずつだがこの異世界の言語が理解できるようになってきた。とはいえ、まだ日常会話を自由にできるほどではない。まるで英語を習いたての初心者のように、決まったパターンのやり取りだけができる状態だ。


それでも、最近では短いストーリーが書かれた絵本も少しずつ読めるようになってきた。絵と簡単な文章を頼りに、物語の筋を追うことができると、異世界の文化や日常もわずかに垣間見えるようで、未知の世界が少しずつ自分の中に馴染んでいく感覚があった。


そして私は、いつものように貰った絵本を手に取り、ゆっくりとページをめくった。


そこには一枚の絵が描かれていた。鎖に繋がれ、牢屋に閉じ込められている人々の姿――

まるで今の私たちの状況そのものだ。


次のページをめくると、牢屋に入れられた人が男によって連れ出され、何かを渡している様子が描かれていた。それはまるで、商品として「買われている」ように見える。そしてさらにページを進めると、その連れ出された人がどこかの場所で強制的に働かされている様子が描かれていた。


(これは……奴隷……?)


胸がざわつく。私たちは、もしかしてこの絵本の中に描かれているのと同じ状況に置かれているのだろうか?牢屋に繋がれ、どこかで「買われて」誰かのために働かされる存在――もしこれが現実だとしたら、私たちはまさに「奴隷」として囚われているのではないか?


そういえば、少女が牢屋に向かってくる足音を聞くたびに怯えていたのも、買われてどこかへ連れて行かれる恐怖を感じていたからなのかもしれない。胸の中に寒気が走るような感覚が広がり、次第にそれが現実味を帯びてくると、私は思わず息を呑んだ。


そんな時、足音が牢屋に響き渡った。


それはいつもの柔らかな革靴の足音ではなく、硬い靴が石の床を打つ音。カタカタと鳴る響きが、空気に重く染み渡っていく。


いつもと違う、硬い靴の足音が────────。

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