第8話

 やっぱりライブが始まるとここはいつもとは違う世界に一変する。

 彼女の声を聞くだけで、その笑顔を見ているだけで、その視線に撃ち抜かれるたびに、レスをもらう度に私の人生なんてどうでもよくなってくる。

 本当に些細なことだと今だけは本気で思える。

 永遠に続けばいい。

 この夢のような時間に、非日常な空間に、一生私を閉じ込めて浸してほしい。

 この時間が永遠なら死んだって構わなかった。

 しかし無情にも目の前の彼女は告げる。


「次が本当にラストの曲です!」


 ラスト……

 そんな事も無げに言わないでほしい。それは私にとってもっとも辛い言葉だから。本当にラストなわけじゃないのに、毎回寂しく思う。

 まるでおもちゃを取り上げられた子供のような、センチメンタルな気分になる。

 その時ちらっと隣の誰かが移動してきたのを感じた。ふいに目線をやって後悔した。あの眼鏡の男が心配そうな顔でこちらを覗いていた。今はこいつに構っている暇なんかないのに。


「大丈夫?」


 男が覗き込んでくる。よく見えないが意外とその瞳は綺麗な色で光っていた。って違う違う今は愛理たんのパートだし、これがラストなんだから目に焼き付けないと。

 そこで気づいた。

 あれ、どうしてだろう。視界がとてもぼやけている。スクリーンに雫でも垂らしたように、私の瞳は謎の雫に覆われていた。

 ああ、もう! これじゃあ愛理たんの顔がよく見えない。


「はい、これ!」


 男がハンカチを手渡してくれた。


「いらない!」

「でも」

「いらないって! 話しかけないで!」


 まただ。人の温かみはどうしてか私を刺激した。素直に受け取って「ありがとう」と言うだけの簡単なことを、今までの行動が邪魔をして言いたくなかった。それに本当に嫌いだし。


「じゃあ、どうして泣いてるの?」

「泣いてない!」

「なんで嘘つくのさ」

「嘘じゃない! てか関わってくるなよ!」


 泣き顔を見られてるのが恥ずかしくて私は彼から距離をとったのに、彼は私の隣についてくる。


「愛理ちゃんのこと好きなの?」

「気安くちゃんってつけるなよ!」

「ごめん。じゃあ愛理さんのこと好きなの?」

「名前で呼ぶな」

「じゃあ何て言えばいいのさ」

「強いて言うなら愛理様?」


 こんなやつと話している場合じゃないのに、彼女を、愛理たんを見ないといけないのに、私は怖がって今日も一番後ろにいる。そのせいでこんな男にも絡まれる。

 本当に中途半端だな私は。


「じゃあ、ちょっと話してもいい?」

「今ライブ中! 何しに来たの?」

「あはは、そうだね。じゃあこれは独り言。もうすぐ曲も終わるし、ただの大学生が一人で喋ってると思っておいて」

「じゃあ話しかけるな」


 そう言ったのに男は隣で話し始める。私は密かに受け取ったハンカチで涙を拭う。その景色にはいつもみたいに満開の笑顔を咲かせる愛理たんと、ノスタルジアな男の横顔が鮮明に映った。



※※※



 ライブ中なのにずっとあの少女のことが気になっていた。おかしな話だ。いつもならどんなことも忘れられるサウンドと人混み、そして彼女だけを照らすライトが僕にとっては幸せだったのに、今は少しだけ邪魔だった。

 出入り口付近。ステージからは一番遠い後ろ側でその少女を見つけた。僕は人混みに逆らうように少女に近づいた。

 別に今じゃなくていいとも思った。でも今話しておきたい。少女に聞きたいことはたくさんあるが、一番はやっぱり愛理ちゃんのことだった。

 僕がどういう思いで彼女を推しているか知ってほしい。少なくとも変な誤解だけは解いておきたい。同じ人を推している者同士きっと仲良くなれるはずんなんだ。

 だから……


 ライブ会場の光に照らされた彼女の顔には、涙が流れていた。


「大丈夫?」


 そう声を掛けてもやはり僕にはまともに相手をしてくれない。

 でも諦めることもできない僕は自分の話を勝手に始めることにした。少女が聞いてくれるかどうかはわからないけど、少しでも共感してくれたらいいなと思った。

 ただのアイドル好きの冴えない大学生で恥ずかしい話だけど、僕は彼女に出会ってようやく生きる希望も、大切な人も、夢もできた。

 それを少女に伝えられたらいいな。

 そして少女がきと根は真面目で優しい子だというのも知っていた。ハンカチをとった時も、僕を罵倒する口とは反対に辛そうな顔も。どこか強がっていて自分の本心を隠しているのだと気づいた。ただの推測だけど。

 


 

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