11代 第二次伊藤博文内閣

11代 第二次伊藤博文内閣 (2554(明治27・1894)年4月1日~2556(明治29・1896)年9月18日)

▽来歴・概要

 元長州藩士。枢密院議長。伯爵。日清戦争の功績により侯爵へ陞爵。

 第五議会はこれまでの与野党構造を一変させた。政府の与党として組織され、政府に協力する姿勢を見せていた国民協会が条約改正問題においては、積極的野党として政府反対の立場に立った。国民協会の議員は、江戸幕府が締結した安政条約によって居留地に押し込めていた外国人たちが内地に入ってくるということに対して忌避感を持っていた。そして、それは感情的な問題だけにとどまらない。改進党の議員の後援者のなかには、居留地に押し込めた方が外国人との貿易で主導権を握ることができるという思惑を持つものがいた。すなわち、内地への旅行すら制限させていたがために、外国人の商人は直接売り手と交渉することができず、仲買人を通すしかなかったために、貿易品の価格の高値が維持されたという見方である。

 このような情勢下で、自由党はこれら硬六派の動きに加わらずに政府との提携を模索した。だが、野党としてこれまで活動をしてきた経緯からすり寄るような態度は有権者の離反を招くという観点から「和協の詔勅」によって示された行政整理に協力するという姿勢から政府に対して是々非々の立場を貫くという大方針が決定された。それと同時に自由党執行部は、条約改正問題が存在する以上は政府側は野党側に一層の譲歩を見せるしかないという見通しを立てており、自由党の掲げる「民力休養・政費節減」を達成していくチャンスであるともとらえていた。

 第3回の衆議院総選挙において、国民協会は34議席減の35議席とその議席を大きく減らし、自由党は44議席増の120議席と勢力を大きく増やした。しかし、改進党も18議席増の60議席を獲得し、議会第二党の地位を維持した。「与党」勢力は後退したが、条約改正問題では自由党が政府を支持しているため、与党勢力は数を増やすという状態で第六議会は5月15日にスタートしたが、開会冒頭から硬六派が現行条約励行の上奏案を、自由党が行政整理と条約改正断行の上奏案をそれぞれが提出し、硬六派が自由党の案を、自由党が硬六派の案をそれぞれ攻撃し、衆議院の特別委員会は大荒れになった。

 奇妙なことに、特別委員会において自由党の上奏案の修正提案が硬六派の修正提案と差し替えられ、硬六派の主張に沿った自由党の上奏案が委員会で可決。自由党の幹部にとっては寝耳に水の状態となり、伊藤首相の秘書官へ釈明の協議を行っているさなか、31日本会議へと上程され可決成立した。すぐさま自由党は上奏案そのものではなく、参内上奏日程の延期についての特別審議を議案として提出した。しかし、イギリスとの条約改正交渉が大詰めを迎えていた伊藤内閣はこの事態を重く受け止め、6月2日衆議院解散を断行した。

 衆議院解散を政府の横暴と強く非難する声が貴族院でも上がり始めたが、9月1日の投票日までの3ヶ月余りの間に事態は大きく転換した。内地開放と領事裁判権の撤廃を織り込んだ、日英通商航海条約交渉は6月27日に合意に達し、7月16日に駐英日本公使青木周蔵と英外相キンバーリーによって調印された。条約改正に対して賛否が国内で吹き荒れる中、25日に朝鮮半島問題を巡って対清宣戦布告が行われ、日清戦争が勃発した。

 日清開戦により、自由党も硬六派もこれまでの政府批判を含めた選挙戦を一斉に転換し、政府支持の演説に置き換えた。この結果、選挙の争点は曖昧なものとなり、選挙戦への政党支援組織の結束も弛んだことから無所属候補の大量当選に繋がった。

 明治新国家始まって以来の対外戦争ということで挙国一致が叫ばれた。対立していた議会は言うに及ばず、政府と軍の協調、また国家と民間においても戦争に協力することが求められた。帝國憲法は天皇は大日本帝国の統治者であると同時に統治権の総攬者であるとする規定を置いている。すべての統治行為を天皇が掌握しつつ、自己の権限を分割して、分立させた諸機関に行使させるという体制がとられている。統治権を掌握はしても、専断するものではないとするのが帝國憲法の規定である。対外戦争と言う一大事業を前にして、これまで通りの権力分立の政治体制で難局を乗り切れるかと考えた伊藤内閣は、他の国家機関を巻き込んで、戦争遂行に必要な体制をつくることを提案した。それが、征夷大将軍職の復活である。

 戦争遂行の期間限定で天皇の国家統治の大権を一部委任するという形で極力な権力者を作り上げた。首相は、天皇の統治権を輔弼・補佐するものであるというのが建前であり、あくまでも実行者は天皇である。これに対して、征夷大将軍は自己の権限として統治権を行使する。斯くして、28年ぶりに征夷大将軍職が復活し、貴族院議員公爵徳川慶喜に将軍宣下の勅使が下向した。慶喜は首相官邸に入り、形式として伊藤首相・大本営・帝國議会を旗下に置きながら、実質としては伊藤博文に全権を委任し、戦争遂行に邁進した。

 日本陸軍は、8月から朝鮮半島の北上進撃を開始した。各地で清国陸軍を撃破しつつ9月中に朝鮮半島を制圧した。その後は鴨緑江を越え、翌明治28年3月上旬までに遼東半島をほぼ占領した。日本海軍は、前年9月の黄海の艦隊決戦に勝利して陸軍北上のための海上補給路を確保していた。11月に陸軍が遼東半島の旅順港を占領し、翌年2月には陸海共同で山東半島の威海衛を攻略して日本軍は黄海と渤海の制海権を掌握した。

 直隷決戦の準備が進む中、清国の首都北京と天津一帯は丸裸同然となり、ここで清国側は戦意を失った。明治28年3月20日から日清両国の間で講和交渉が始まり、4月17日に講和が成立した。

 日清講和条約の中で、日本は李氏朝鮮の独立を清国に認めさせた。また台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲させ、賠償金として2億両(2両=銀37g)が支払われた他、日本に対する最恵国待遇も承認させた。講和直後の23日に露仏独三国の外交要求が出された事で、日本は止む無く遼東半島を手放した。5月下旬に日本軍は領有権を得た台湾に上陸し、11月下旬までに全土の平定を終えた後に行政機構を敷いた。台湾の軍政が民政へと移行された明治29年4月1日に大本営が解散し、同時に德川慶喜、大政奉還を行った。戦争に勝利した日本はアジアの近代国家と認められて国際的地位が向上し、取り分けイギリスとの協調関係を築けるようになった。

 日清戦争の勃発と陸海軍の勝利は伊藤内閣の政権運営に大きな安定を与えた。明治27年12月から翌年3月まで東京で開かれた第8議会においても明治28年度予算案と臨時軍事費の審議はスムーズに進んだ。しかし、三国干渉、続く10月8日の乙未事変と明治29年2月11日の露館播遷によってロマノフ朝ロシア帝国が朝鮮に進出していき、日本の朝鮮半島への影響力は低下していった。対外硬派を中心とする野党勢力にとってこの動きを止められない政府への不満は日に日に高まり、戦時中の政府と民党の協調関係は次第に崩れていった。

 伊藤は腹心の陸奥外相と伊東巳代治内閣書記官長を通して自由党の提携に乗り出す。6月15日、対外硬勢力の政友有志会は軍備拡張・還遼問題・朝鮮問題を中心に据えて運動方針を策定したが、自由党はこれらの動きと一線を画することを宣言した。7月17日には政府の対外政策への支持を代議士会で表明し、11月22日には政府と自由党との間で提携宣言書が手交されるに至った。

 自由党との連携によって、続く第9議会(同年12月28日開院、翌29年3月28日閉会)では政府の議会運営は自由党の協力を得て円滑に進み、陸海軍の更なる拡張や増税など大幅に拡充した予算案が少ない削減だけで済み通過、航海奨励法・造船奨励法・民法・日本勧業銀行法など重要な法案も次々と成立した。一方の対外硬派は団結をすすめ、明治29年3月1日、改進党を中心に進歩党(大隈重信党首、91議席)を結成した(国民協会は参加せず)。

 4月14日には自由党の板垣総裁が内務大臣として入閣、星元議長が駐米大使となり、その他内務省ポストに自由党選出の代議士が就任するなど、自由党の与党化が進んだ。更なる政権の安定のため、伊藤は大隈党首の外相就任による進歩党の与党化も図ったが、これには板垣が反発したため実現しなかった。政府内部でも、伊藤の「政党内閣」化への動きを時期尚早と思う勢力が存在し、反発を強めていた。伊藤はこれ以上の政権維持は困難であるとみて8月31日に辞職の決意を固めた。元勲は後継首班の選定に動いた。

 元勲の展望としては、対外硬派の鎮静を目的として、政権運営に参加させることで、日本の実情を感知させることに合った。彼らは、まだまだ日本の国力は列強に及ばないため、下手に列強を刺激するようなことは避けるべきと考えていた。既に自由党の政党人は、政府に参画して国力の実情について理解している。そこで次は進歩党の側を取り込むべきと考え、枢密院議長の大久保に後継首班の話が行った。大久保は、次期蔵相に据えて金本位制確立を主導させたいと考えている松方正義が財閥の三菱と近い関係にあり、三菱は進歩党に近い関係にあるので、私が首班に座ると政党の色が濃くなりすぎると辞退した。そこで、貴族院に基盤を持つ小栗に大命が降下した。9月18日に小栗が首相復帰、進歩党を与党に迎えて第3次小栗内閣が成立した。

▽在任中の主な出来事

・日英通商航海条約締結(領事裁判権撤廃、内地雑居)

・日清戦争

・日清講和条約(下関条約)

・三国干渉

・進歩党結成

▽内閣の出した主な法令

・学校令(師範学校令・小学校令・中学校令・帝国大学令)

・民法第一編第二編第三編(総則、物権、債権)

▽内閣の対応した帝國議会

・第6回帝國議會・臨時会

 召集:明治27年5月12日

 開会:明治27年5月15日

 解散:明治27年6月2日

・第4回衆議院議員総選挙

 改選数:300

 投票日:明治27年9月1日

 選挙制度:小選挙区制(一部2人区制)

 実施地域:45府県(北海道、沖縄県、小笠原諸島を除く)

 選挙権:

  直接国税15円以上納税の満25歳以上の日本国民男性

下記の者は権利の適用除外

   華族の当主、現役軍人

   禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人

 被選挙権:

  直接国税15円以上納税の満30歳以上の日本国民男性

下記の者は権利の適用除外

   華族の当主、現役軍人

   禁治産者、破産者、公民権剥奪者及び停止者、刑事被告人

   宮内官、裁判官、会計検査官、収税官、警察官

   管轄区内の府県郡官吏

   各選挙区の市町村選挙管理担当吏員

   神官、僧侶、教師

 選挙結果:

  自由党

   前回選挙:120

   選挙直前:119

   獲得議席:107(△12)

  立憲改進党

   前回選挙:60

   選挙直前:51

   獲得議席:49(△2)

  立憲革新党

   前回選挙:新党

   選挙直前:40

   獲得議席:39(△1)

  国民協会

   前回選挙:35

   選挙直前:26

   獲得議席:32(+6)

・第7回帝國議會・臨時会

 召集:明治27年10月15日

 開会:明治27年10月18日

 解散:明治27年10月22日

・第8回帝國議會・通常会

 召集:明治27年11月11日

 開会:明治27年12月24日

 解散:明治28年3月23日

・第9回帝國議會・通常会

 召集:明治28年11月14日

 開会:明治28年12月28日

 解散:明治29年3月28日

△内閣閣僚

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

大日本帝国歴代内閣 @monamoro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ