3代 第一次大久保利通内閣
3代 第一次大久保利通内閣 (2540(明治13・1880年8月19日~2541(明治14・1881年12月3日)
▽来歴・概要
元薩摩藩士。
大久保利通内閣の一丁目一番地に掲げた政策は、自由民権運動への対抗であるとともに、富国強兵政策である。
まず、自由民権運動を規制するための「集会条例」の制定が俎上に上った。慶喜を議長とする元老院はこの法令に対して、運動の抑圧はかえって先鋭化を招くのではとの懸念から慎重な審議を重ねていた。しかし、明治13年11月に第2回国会期成同盟大会が東京で挙行されたことから、法案は成立を迎える。同盟大会は、国会開設の請願だけではなく、憲法制定についても言及しており、このような姿勢が、保守的な慶喜から見たら、時期尚早であり、先鋭化しつつあるとみなされたのである。
次いで、大久保は警視庁の再設置を行った。明治7年に設置された東京警視庁は、一度内務省の一部局として縮小されたが、大久保による東京の警備強化を目的に再設置されるに至ったのである。同時に各府県に対しても府県警察部の増員を指示し、取締りの強化に乗り出した。
大久保が本来意図したのは、富国強兵・殖産興業の途である。早急な近代化には、統制され、無駄の無い計画の遂行が必要と考えていたためであり、自由民権運動関係者による国会開設の動きは、国内の貧弱な資源を浪費するものとしか考えていなかった。
ただ、欧州諸国の政治状況も熟知していた彼は、欧州の政治動向・憲法法律の動きについても調査研究の必要を感じていた。これに答えたのが、外交官として世界に散っていた公武の華族である。徳川慶喜による貴族の今後の活躍先として見出されたのが外交官としての活躍である。国内で下層階級の抜擢をなすためにも国内に彼らの席を設けることが難しかったためでもあった。大久保は、諸外国に駐在する公使を制度研究調査官の任を与えることで、彼らに日本国内にも取り入れることができるような政治制度の下地を調査させた。
大久保の本音とは異なり、自由民権運動は激化していった。そのような中で、開拓使官有物払下事件が明るみになり、明治十四年の政変が起こると、大久保内閣に対する攻撃が激しくなっていった。この間に徳川慶喜や元首相などが大久保と会談を重ね、ついに大久保内閣は10月、「国会開設の勅諭」を発布するに至った。勅諭の発布により激化していた自由民権運動は抑えられるに至り、大久保は退陣した。
▽在任中の主な出来事
・ハワイ国王来日
・警視庁再設置
・憲兵設置
・開拓使官有物払下事件
・明治十四年の政変
・国会開設の勅諭
・自由党結党
▽内閣の出した主な法令
・集会条例制定
・内務省官制改正(警視庁の再独立)
・警視庁官制制定
・海外制度調査官官制制定
・農商務省官制制定
▽内閣の対応した帝國議会
・帝國議会設置前
△内閣閣僚
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